花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

世代論について

2006-05-28 22:19:14 | Weblog
 良く出来た世代論を読むと、「あっ、そんな人、いる、いる」とそこに描かれた世代像に納得してしまうことがあるけれども、どこか引っ掛かるものが残りもする。例えば、「団塊の世代」は世代論の横綱みたいなものだが、団塊の世代に該当する人たちは、「団塊の世代」として脚光を浴びた後、それに続く「新人類世代」や「団塊ジュニア世代」が経てきた時代変化を同じく経験している。多感な青少年期にどのような時代の空気を吸ったかが価値観や行動様式を決定するのに大きな役割を果たすことは分かるが、それで全てが決まるわけでもないと思う。なのに、いつまでたっても、「団塊の世代とは斯く斯く云々」と過去に作られたイメージで語るのは一種の思考停止ではないだろうか。団塊の世代だってバブルやバブル崩壊、現在のグローバル化を経験しているわけだし、堺屋太一の本の頃から何も変わらないということはないだろう。
 私は「団塊の世代」の後の世代(多分「新人類世代」?)だが、やはり年をとるにつれて考え方や行動は変わって来ているし、もし古本屋で新人類を扱った本を探してきて読んだとしても、おそらく今の自分には当てはまらないと思う。世代論はとっつきやすい反面、それをステレオタイプ化したり、固定的に捉えたりしないよう注意しなければならない。

 余談ですが、アナール派の歴史学者、ジャック・ル=ゴフの「中世とは何か」(藤原書店刊)によると、世代という歴史認識が始まったのは、1968年にフランスで中央集権的な社会から自治的な社会への転換を目指した「五月革命」という動きが起こり、その担い手たちに意味を持たせるために生まれた観念だそうだ。意外に新しい。それ以前は、もっとゆったりと時間が流れていて、親子の確執はあっても、マス現象として世代間の違いを問題視するようなことはなかったのかもしれない。せいぜい、「いまどきの若いものは」程度のぼやきで済んだのだろう。

セレンディピティ

2006-05-25 22:51:30 | Weblog
 5/24付け朝日新聞夕刊のコラム、「窓 論説委員室から」で「セレンディピティ」なる言葉が紹介されていた。「セレンディピティ」とは、「当てにしないものを偶然に発見する能力」だそうだ。例として、細菌学者のフレミングが、培養皿に生えたカビから偶然ペニシリンを発見したことがあげられていた。この記事を読んで私の頭に浮かんだのは、アニメ「アルプスの少女 ハイジ」で、群れから離れた山羊のアトリを探しているうちに、ハイジとペーターが絶景佳景の山上の氷河湖を見つける場面だ。山に登って、素晴らしい景色に出会う、もっと欲を出せば徳川埋蔵金のありかに出くわす、そんな「セレンディピティ」なら大歓迎だが、悪天候の中やっと避難小屋にたどり着いて、扉を開けたら梁から首を吊った人がぶら下がってたなんてのは、ご免蒙りたい。

ハエ退治

2006-05-21 22:10:05 | Weblog
 洗濯物を干している隙にハエが部屋に入り込んだ。ハエは身体の割りに羽が小さいので、長い時間飛ぶことが出来ない。そこで、一発で仕留めることは考えず、じわり作戦に出る。ハエが停まると丸めた新聞でハエの近くを叩く。当然、ハエは飛んで逃げる。停まる、叩く、逃げる。停まる、叩く、逃げる。ハエを休ませないように、停まるとすぐ叩く。段々、ハエが飛んでから停まるまでの間隔が短くなる。1分を超えるあたりから、数秒しか飛べなくなってくる。そうやって、ハエの体力を奪っていくと、あとは簡単に、パシっ、コロっ、である。

 「やれ打つな蝿が手をする足をする」 この句に現れる一茶の心境にはなかなか成れない。

キモくない?

2006-05-19 23:32:24 | Weblog
 先生、いや元先生、質問があります。今朝、朝刊を読んでいたら、「少子化対策として、猪口大臣が政府によるお見合いパーティーを検討している」と書いてありました。実際、非婚化や晩婚化が少子化の要因としてあげられていますが、でも出会いの場が少ないから結婚しないのですか? 「希望格差社会」(山田昌弘著・筑摩書房)の最初のところで、年金の掛け金を払わない若者が理由として述べた次の言葉が紹介されています。「5年後の生活の見通しも立たないのに、50年後の生活の心配ができますか。」 この若者の弁は、そのまま結婚しない(出来ない)今の状況にも当てはまると思うのですが・・・。将来に不安を感じている若者たちが多いなか、本当に政府のお見合いパーティで出生率は上がりますか?
 それから、大臣がなさろうとしていることは、昔週刊誌で随分取り上げられた統一教会の集団結婚式が連想されて、ちょっとキモいです。財政支出を伴う政策が打ち出しにくいのは分かります。省庁の壁があることも想像出来ます。それでもお見合いパーティーってのは、「仕事をしてないと思われそうだから、取りあえず何かプランを出さなきゃ」といった感じがして、如何なものかと思いますけど、どうでしょうか?

市場主義の陥穽 (後編) -‘だんじり’化する社会の中で-

2006-05-12 22:57:57 | Weblog
 ヴェブレンは、投資とその実現の間のタイムラグ、そして投資の結果である生産設備が固定化する性質を持つことに注目し、需要と供給の均衡の形成における市場の働きが万全ではないことを見て取った。このことは今でも当てはまり、需要と供給のミスマッチは起こっている。
 一方、ヴェブレンが見たものとは別の落とし穴も、市場原理に潜んでいるように思われる。「市場に委ねさえすれば、市場原理が効率性を発揮し、優勝劣敗が進んで、世の中は上手くいく」、と考える人が巷にはいるようだ。うんと長い目で見れば確かに非効率なもの、劣悪なものは市場から退場していくのであろうが、投資とその実現の間と同様にこれにもタイムラグがある。非効率なものならまだしも、不適格なプレイヤーが退場させられるまでの間にさんざんフェアーではないプレイを行ったとしたら、どうだろうか。マンションの耐震強度偽装問題を思い浮かべて頂きたい。ヒューザーは市場から姿を消したが、残した傷跡はあまりに大きい。市場から退場こそしていないものの、昨年のJR西日本・宝塚線の事故は、経済効率の名のもとに、いともたやすく安全性がないがしろにされることを教えてくれる。
 さらに私が心配なのは、今の世の中はかつてとは比べものにもならないパワーを持っているということだ。一見、社会は秩序を保っているように見えるが、ちょっと油断すると凄まじいエネルギーの奔流が私たちを蹂躙するだろう。言うなれば、現代社会は岸和田だんじり祭りのだんじりのようなものである。引き手はかろうじてだんじりをコントロール出来ているだけで、一旦隙をみせた途端、だんじりは引き手も観客も薙ぎ倒していく。死者がでることさえある。現代社会は、人間が充分にコントロールすることが出来ないほど巨大かつ複雑で、それでありながら世の中に害毒を流すエネルギーは計り知れない、便利さの裏に危うさも併せ持っている社会だと言えよう。そんな、だんじり化した社会にあって、「市場に任せれば上手くいく」といった楽観論は危険なのではないか。市場が退場を命じる前に、取り返しのつかないことをやられる恐れがあるからだ。考えたくないことだが、電力供給会社が経済効率に走るあまり、原子力発電所の安全面を軽視したらどうなるだろうか。災いは孫子の代まで及ぶであろう。私には、安易に市場主義に幻想を抱くことは、社会を良くしていく努力の放棄であって、時間の流れに身を任せる単なる丸投げとしか見えない。さらには、一山当てようという山師を生む温床にも思える。