花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

鵜呑み

2019-03-30 23:53:16 | Weblog
 「鵜呑みにする」とは、言われたことを良く考えもせずに頭から信じてしまうことですが、確かに鳥の鵜が川魚を丸呑みにする様は、物事をそっくりそのまま受け入れることの例えになります。ところで、鵜飼の鵜は呑んだ魚を吐き出させられます。その意味では、鵜呑みにしたものは血肉にならない、つまり考えなければ知識は身につかないとも言えます。しかし、鵜の目鷹の目という言葉があるように、鵜は素晴らしい目をもっています。悪い意味のみで引き合いに出すのは、公平を欠くことになるかと思います。

空気を読めば息苦しい

2019-03-18 21:19:42 | Weblog
 内田百閒は昭和二十年八月六日の日記で、他人の目の煩さを嘆いています。「本当の夏らしき暑さになつたから今日から夏服に著かへる。きびら色にて真白ではないが小型機の来襲にそなへて白い物は著るなと新聞などで頻りに云つてゐるので小型機は構はぬとしても行人や電車の相客の目が五月蠅いから成る可くよさうと思つたけれど外に無いのだから止むを得ない。構はずに著て歩く事にせり。当の相手の事は構はぬけれど、こちらの側の仲間の目が五月蠅いから、口が八釜敷いから、と云う気兼ねは満州事変日支事変以来の普通の感情なり。こんな事がどれ丈日本人を意気地無しにしたか解らない。」(「東京焼盡」中公文庫)
 大勢に順応することや空気を読めと強いる無言の圧力は今に始まったことではないようです。もしかすると、起源を国家総動員体制に遡るか、あるいは国家総動員体制によってより先鋭的に表れるようになったのかもしれません。敗色濃い総力戦のもたらす閉塞感が漂う世情のもと、人の目が内側を向きがちになり同調圧力を高め、それがまた閉塞感を増長させるように思えます。百閒先生が感じた意気地無しとは、五月蠅い目、八釜敷い口を持った意気地無しと、その目や口に気兼ねする意気地無しの二通りがあります。空気を読めと言う方も、言われる方も、要は双方とも右顧左眄している意気地無しに変わりはないと言えるでしょう。

ヒヤシンス

2019-03-03 15:51:01 | 季節/自然
 内田百閒の昭和二十年三月二十二日の日記に次の記述が見られます。
「午過省線電車にて出社す。いつぞや古日に貰つたヒヤシンスの球根を咲かせた白い花の鉢を一昨日郵船の部屋に持つて行き今日もまたさげて行つた。部屋に落ちついてゐると微かな芳香がただよふ。ヒヤシンスにこんないい香りのある事は知らなかつた。」(「東京焼盡」中公文庫)
只今、我が家のヒヤシンスも甘い香りを放っています。昭和二十年三月と言えば、敗戦の色が濃くなってきて、東京が日々焦土と化していました。内田先生の頃と今とでは、世情はまったく異なりますが、寒さが少しずつ和らぐ中、咲きだした花を愛でては気持ちが明るくなることに、何の相違もありません。さあ、3月になりました。これから季節がどんどん動いていくことでしょう。