花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

47歳の男が言ったこと

2010-06-28 06:39:42 | Book
 どうも変な先入観を持っていたようです。アントン・チェーホフの「ワーニャ伯父さん」は、なんだかほのぼの系の話かと思っていました。 何の根拠もありませんが、「アントン・チェーホフ」だの「ワーニャ」といったカタカナ名前の持つ語感で、そう思いこんでいたのかもしれません。それから、「伯父さん」とアルプスの少女ハイジの「おんじ」を結びつけていた可能性もあります。けれども、「ワーニャ伯父さん」は決してほのぼのとした話ではなく、登場人物はみな鬱屈したものを持っています。中でも、ワーニャ伯父さんは、何とも冴えないおじさんで、彼の言葉は愚痴愚痴しています。例えば、話の終わり近くで、こんな泣き言を言っています。「ぼくは四十七だ。六十まで生きるとして、まだ十三年ある。長いなあ!この十三年をどう生きればいいんだ?何をして、何でこの歳月を埋めればいいんだ?君にも分かるだろう・・・。分かるよね、残りの人生を新たに生き直せたらなあ。晴れやかでおだやかな朝に目を覚まし、自分はもう一度人生を新たにはじめるんだと感じられたらなあ。これまであったことはすべて忘れ、煙のように消し飛んでしまった------- そんなふうに感じられたらなあ。新しく生活をはじめる・・・。教えてくれ、どうはじめたらいいのか・・・何からはじめればいいのか・・・」
 ワーニャ伯父さんの姪であるソーニャは、伯父さんの泣き言の直後ではありませんが、一連の会話の流れの中で、こう答えます。「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そして、ワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。あたしはうれしくなって、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返るの。そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。伯父さん、あたし信じているの、強く、心の底から信じているの・・・。そうしたらあたしたち、息がつけるの!」
 人生をやり直せたらと思っている伯父さんに、神様に憐れんでもらえれば救われると思っている姪、「それって敗北主義?」と思ってしまいます。この二人が幸せそうに見えないことは確かですが、かといって「ワーニャ伯父さん」を読む限り、劇的に悲惨な人生とも思えません。どだい人生はやり直せないし、神様が憐れんでくれることもありません。いい年をして、愚痴ったり、泣き言を言ったりしても仕方がありません。ところで、福沢諭吉は福翁自伝の中で、こんなことを言っています。「私の流儀は仕事をするにも朋友に交わるにも、最初から捨て身になって取って掛り、たとい失敗しても苦しからずと、浮世のことを軽く視ると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るにさまでの困難もなく、安気に今日まで消光(くら)して来ました」それなりに星霜を経てきた大人であれば、泣き言を並べるのではなく、背筋を伸ばして胸を張って、福沢先生みたいなことを言ってみたいじゃないですか。

通勤の友

2010-06-21 21:52:44 | Book
 少し前に平凡社ライブラリーから「丸山眞男セレクション」が出版されましたが、これはなかなか嬉しいことです。未来社から出ている「現代政治の思想と行動」に収められている「超国家主義の論理と心理」が文庫で読めるからです。大学生の頃読んで衝撃を受けたこの論文を読み返すには、未来社の「現代政治の思想と行動」か岩波書店の「丸山眞男集」をひもとかなければなりませんでした。自宅で本を読んでいると家族の白い目が鋭く突き刺さってくるので、勢い本を読むのは通勤途中の電車の中になります。しかしながら、未来社の本も岩波の本も、混んだ電車の中で鞄から取り出すのは辛いものがあります。前から、文庫化されないかなぁと思っていたので、これで、「超国家主義の論理と心理」や、その他ゴツイ本でしか読めなかった論文のいくつかを、通勤電車の中で読むことが出来ます。ただ、本に没頭するあまり、乗り過ごさないかが心配ではありますが。

風の谷のナウシカは幸せか?

2010-06-12 10:25:53 | Weblog
 6月10日の朝日新聞夕刊の一面に、宮崎駿監督の代表作「風の谷のナウシカ」のブルーレイディスクが、7月14日に発売されることを知らせる広告が載っていました。天気予報欄を見ていたら、その下にあるナウシカの広告が目に入り、何とはなしに、昔見た映画の場面などが思い出されました。この映画の構図の中心には、自然と共存しながらひっそりと暮らしているナウシカたちと、強力な破壊力を持つ兵器によって自らの版図を拡げようとする帝国の戦いがありました(AVATARも似てますね)。自然に対してローインパクトなナウシカと、そのナウシカたちを武力でなぎ倒そうする帝国の間の、旗色の対比が鮮明で、どちらが善玉でどちらが悪玉か一目瞭然です。ところで、新聞広告をつらつら眺めながら思ったのは、次のようなことでした。帝国軍はナウシカ側に比べて圧倒的に戦闘員の数が多く、それは翻って考えれば、相当数の人間を抱えるキャパシティを帝国が持っていることを意味しています。一方、ナウシカ陣営は集落規模の人数しかいません。これは、自然に寄り添った生産様式では、養える人間に限界があることを表わしているのでしょう。「風の谷のナウシカ」はアニメなので、敵味方の白黒の区別がはっきりしていて、それはそれで構いませんが、この対立軸を環境保護派対開発推進派になぞらえてみた場合、ナウシカ対帝国の単純な構図として見ていては、そこには見落としているものがあり、第3の道の模索が必要なのは明らかなように思えました。しかしながら、明らかに思えたのはそこまでで、「じゃぁ、どうする?」と自問してみても、明らかな解答は浮かんできませんでした。

聞く耳もたず

2010-06-03 20:39:10 | Weblog
 昨日、鳩山首相は辞任を表明致しました。私はニュース速報を見て、「緊張感が欠けていた結果だ」と思いました。昨夏の衆院選で 大勝し、ライバルの自民党は党首が替っても相変わらずふがいないまま。結局、緊張感を欠いた政権運営であったのではないでしょうか。辞任表明を伝える朝日新聞夕刊に、「政治の規律 回復を」と題した渡辺勉・政治エディターによる論評が載っていました。記事では今回の辞任に至った理由を、「何よりも鳩山首相自身の資質だ。高い理想は持っていたが、政治家に必要な情熱、責任感、判断力のいずれも が欠け、就任直後から、国民の信頼を日に日に失っていった」とバッサリ。しかも、緊張感がなかったのは単に鳩山首相だけではなかったようで、同じ記事には、「菅直人副総理兼財務相や岡田克也外相ら主要閣僚も、どれほど首相を支えてきたのだろうか。まるで同好会のように、閣僚らは閣議でも議論するばかりで、肝心な場面で結論を出せなかった」とあります。「友愛」という高い理想を掲げた首相が、政治課題と真摯に向き合うことをせず、行き当たりばったり、相手構わずの「友愛精神」を発揮して、その場しのぎの対応を繰り返したのは、不思議でも何でもありません 。また、首相の資質の欠如を補う同士もいませんでした。鳩山首相は、辞任を表明した両議員総会で、「国民の皆さんが徐々に聞く耳を持たなくなってきてしまった」とおっしゃったようですが、国民は「聞く耳を持たなくなった」のではなく、場当たり的な首相の言葉を「聞くに値しない」と感じて、聞き流すようになったのだと思います。 この春、都内某所でたまたま鳩山首相と握手する機会がありました。その時、私は「頑張ってください」と声を掛けました。職責を途中で放り出す総理大臣が何人も続いたので、せめて鳩山首相には、ギリギリまでやり抜いて、「やり切った感」を出して欲しいと思ったからです。資質に問題があろうとなかろうと、とことん頑張る姿勢を見せて欲しかったのですが、そもそも情熱、責任感といった資質がなければ、斯くありなんといったところでしょうか。選挙とは、国民から政権党への通信簿かもしれません。選挙を前にして、国民の声を聞く耳を塞いでいるじゃありませんか。