花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

自覚があるということ

2012-06-30 16:10:53 | Weblog
 人生の節目、例えば二十歳になるとか、社会人になる、あるいは何かの役職に就くといった時、誕生日や入社式や発令日をもって途端に自分の中身が変わる訳でもないので、個人的には特に重要なこととも思っていません。しかしながら、傍目はあっさりあっけなく変わるもので、その人の社会的な位置づけが変わると、それに応じた物差しで見られるようになります。仮に、学生が社会人になるとすれば、当然周囲が期待する役割が変わってくるので、中身が一緒でも多少は人の目を意識しなくてはなりません。社会に出た後も同じことが言え、ポジションが変われば期待される内容も変わります。時々、期待される役割が変わることで、自分の中身も変わったと勘違いする御仁もいますが、辞令はあくまでも組織の中における役割の割振りにしか過ぎず、それで人間の価値が変わるものでもありません。要するに、自覚ある人間であるためには、自分の役割を認識するとともに、役割と自分本来の姿をセパレートして見ることが求められると思います。どちらかと言えば、他力本願で比較的変わりやすいものと、一方、持続性が強く内面深いところへ根を下ろしているもの、この両者に折り合いをつけるのは自分自身でしかなく、どちらか片方に振り回されないためには、両者を客観的に捉えようとする自覚が必要だと思います。

ガリア戦記

2012-06-24 23:51:49 | Book
 日曜日の午後、用事があって出掛けたママと子どもの帰る頃に合わせて、外で待ち合わせることになりました。待ち合わせに少し時間があったので、オープンカフェで生ビールを飲みながらカエサルの「ガリア戦記」を読んでいました。「戦記」なので当然のことながら、どの頁も攻めたり、攻められたり、策を弄したり、寝返りがあったりの繰り返しで、生ビール2杯を飲む間に、いったいどれだけの人が死んだことでしょうか。ローマ人もガリア人もゲルマン人も、いっつも戦争をしているんだなぁ、と少し呆れるほどでした。そう言えば、昔、司馬遼太郎の何かの本に、「ヨーロッパ人は血の気が多いので、キリスト教のような厳格な宗教で縛る必要があった」みたいなことが書いてあったような気がします。「ガリア戦記」を読むと、あまりに好戦的な部族ばかりで、それもうなずけます。正面から正々堂々と白兵戦を挑み、勇敢に敵を撃破することを「戦争の西洋的流儀」と呼ぶそうですが、こういった言葉があることもヨーロッパ人の好戦性を示すにほかならず、要はヨーロッパの人々の中には戦いに勝つことを是とする価値観が脈々と続いているということです。
 話は少しズレますが、「ガリア戦記」の中でカエサルは卑怯な手を使う敵に対して、「武勇で鳴らしてきた者がローマの支配下に置かれて屈辱感を味わっているのだから、ローマに造反するのも当然だ」みたいなことを言っており、一旦カエサルの軍門に降ったガリアの部族の造反にあって怒り心頭に発すとならずに、冷静に分析しているところは流石に万軍の将だと感心しました。

アーケードのある街

2012-06-23 20:38:25 | Weblog
 最近、ある政令指定都市へ出張する機会がありました。その時気がついたのが、「大都会には地下街があるけれども、中都市にはアーケードがある」ということでした。福岡のように両方ある街もありますが、だいたいにおいて地下街があるのは大都会で、都会の周辺部や地方都市にあるのはアーケードです。これは、もちろんコスト面が大いに関わっていると思います。コストに見合う人が集められば、地下街を造ってもペイしますが、そうでなければ地下街は高くついてしまいます。大都市以外で地下街を造るのは難しいでしょう。
 さて、アーケードには似合うけれども、地下街には似合わないものは何でしょうか。それは先ず自転車です。新宿の地下街で自転車に乗ってる人なんていませんが、アーケードには危なっかしい運転をする人を含め、おばちゃんやら学生やら、自転車の行き来は盛んです。もう一つ挙げるとすれば、街頭インタビューです。東京では銀座のホコ天や新橋駅前で街頭インタビューに答えている人がしばしばテレビに映し出されていますが、地下街でのインタビューは一般的ではありません。地下街ではほかの歩行者の邪魔になりそうなので避けられているのかもしれません。一方、地方では人通りの多いアーケードでの街頭インタビューがもっぱらなのでしょう。
 終電までの自分の持ち時間と片付けなければならない仕事の量の間で、いつも目を三角にしながら働いているのに、たまに出張へ行くと、こんな別にどってことないことが頭に浮かびました。

日本のモノづくりに求められていること

2012-06-17 15:32:27 | Weblog
 隔週の日曜日、朝日新聞と一緒に‘GLOBE’が届けられます。毎号とも特定のテーマを掘り下げた特集が載る、なかなかハイブラウな別刷です。今日のテーマは「酒」でした。サブタイトルに「日本酒サバイバル」とあるように、出荷量が落ち込む中、それぞれの蔵元やメーカーが如何に生き残りを図っているかを、文化論も交えつつ多角的に取り上げていました。その記事の中で、日本酒「獺祭」の醸造元であり、毎年2桁の勢いで売り上げを伸ばしている山口県・旭酒造の桜井博志社長が、次のように述べています。「われわれは伝統産業ではなくメーカー。日本の酒蔵は造りにこだわるだけで、積極的な売り込みをしなかったことが退潮を招いた」。この「日本の酒蔵は造りにこだわるだけ」の言葉が、私の目を特に引きました。ちょうど、日本経済新聞朝刊では、日本のテレビメーカーが何故韓国や台湾のメーカーの後塵を拝するようになったかに関する特集記事が連載されていました。そこで描かれている日本のメーカーの姿は、まさに「造りにこだわる」ものだったからです。例えば、シャープはマーケットの要求を読み違え、「シャープのテレビ」にこだわるあまり、ついには資本提携する台湾のメーカーに生産ラインを委ねることになりました。いいものを作ろうとすることはもちろん大事ですが、消費者との間のキャッチボールを欠いたままでは、独りよがりになりかねず、ひいてはマーケットの支持を失うことになります。ビジネスの世界でこれだけマーケティングの重要性が謳われ、かつさまざまな理論が提唱されていながら、それは会社の会議室の中でこねくり回されるうちに、見た目は立派だけれども、実地では使えない道具となってはいないでしょうか。日本のそこここが、いつの間にか「頭でっかち」に陥っているのではないかと思えます。
 さて、同じ号の‘GLOBE’には、「どうなる、工学部 『デザインする力』を取り戻せるか」と題する記事も掲載されていました。日本の製造業が海外との競争で後れを取り始める中、その製造業へ人材を送り込む大学の工学部はどのような問題点を抱えているのかといった内容でした。記事が指摘するのは、「科学的な原則を教えることに重点が置かれ、それを設計(design)の文脈の中で応用する点が弱い」であるとか、「研究評価や研究費の配分に当たって一流の学術雑誌への論文掲載数が指標として重視されるようになった。工学本来の、実社会での応用につなげる部分の研究は不利で、論文を書きやすいテーマが選ばれがちになる」といった問題点で、やはり「頭でっかち」に陥っているとの感が否めません。
 同じ工学部に関する記事には、「消費者は製品という『モノ』より、それで何ができるかという『コト』を重視するようになっており、既存のモノの性能を上げたり製造コストを下げたりする技術では不十分」とあります。日本のメーカーは、「既存のモノの性能を上げたり製造コストを下げたりする技術」に「こだわる」ことから、次のパラダイムへシフトする必要に迫られていると思いました。