花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

膿ゆかば

2010-01-30 17:22:49 | Weblog
 1/28(木)、日比谷の帝国ホテルで大佛次郎論壇賞の贈呈式が行なわれました。「コミュニティを問いなおす」(ちくま新書)の著作で受賞された広井良典・千葉大学教授の受賞スピーチの中で、次の言葉が印象に残りました。「現在の日本社会は、マイナスの話題であふれているように見えますが、そこから出発して、いかにプラスの価値を作り出していくかが、今後大きく問われていくでしょう」 確かに、現在の社会を肯定したり称賛する言辞よりも、否定的・批判的な論評が目立ちます。「膿を出す」という言い方がありますが、マイナスな情報が次から次へと出てくる観があります。そこで大切なのは、マイナス情報に積極的意味を見いだすことだと思います。後を絶たないネガティブな話に嫌気を差したり、反社会的な気持ちを持ったりするのではなく、今は悪いものをなくす時期なのだ、悪いものが出てくるということは、出てきた分だけ悪いものが減っているんだ、と前向きに捉えることが大事ではないでしょうか。また同時に注意しなければならないのは、マイナス面が出てくることに合わせて、あら探しや悪口合戦のような態度に陥ることです。出さなければならない膿は実体としてのワルであって、自分が気に入らないもの(こと)ではないからです。そして、一番肝心なことは、広井教授がおっしゃるように、 膿が出た後、「いかにプラスの価値を作り出していくか」です。ただ、新しい価値を作り出すのは難しいことです。私自身、「ではどうする?」と訊かれても、黙ってうつむくよりほかありません。とは言いながら、うつむいたままであっても、考え続けることは出来ます。漠とした言い方になりますが、人と人との間合いの取り方において、お互いにもたれ掛かり合う関係から脱却し、まず自分の足できちんと立ち、その上で手を携え合う関係を構築することが、プラスの価値を作り出す取っ掛かりになるのではないかと、私はそう思います。

(ご参考)
 朝日新聞の2009年12月13日付け朝刊に大佛次郎論壇賞の受賞理由が掲載されていました。記事によると、「戦後日本社会の基盤を支えてきた『家族』『会社』といった共同体が、大きな経済成長が望めない今、崩れはじめている。孤立を深める個人が、独立を保ちながら再びつながることができる『コミュニティ』をどう作っていくか。日本の未来の姿を考える上で大きな手がかりになるテーマに幅広い視点から取り組んだ意欲と提言に、選考委員の大きな支持が寄せられた」、とあります。

楽しい休日

2010-01-22 23:36:27 | Weblog
 何日か前に、子供が幼稚園の先生から、「冬休みの思い出の絵を描きなさい」と課題をだされました。他の子がハワイで遊んだ絵や温泉へ行った時の絵を描いてる中、うちの子供は年末の大掃除の絵を描いたようです。それを聞いた時、ママと「ずっと東京にいて、旅行に連れて行かなかったのは可哀相だったかな」と話しました。その数日後、知り合いが北海道へスキーに行く話になって、「北海道でスキーだなんていいねぇ」、なんてことを言っていました。ところが、ふとこんなことを思いました。北海道へスキーをしに行けば、「いいですねぇ」と言われますが、同じように、例えば辻邦生の「背教者ユリアヌス」をがっちり読んだ(あるいはドラマ「相棒」のDVDを見まくったでも構いません)と聞いて、「それはいいですね」と言ってもらえることがあるのだろうかと。楽しめて「いいですね」という意味であれば、スキー行く満足度と「背教者ユリアヌス」を読む満足度の差は固定的ではなく可変です。満足度は極めて主観的なことがらなので、人によっては「背教者ユリアヌス」の満足度がスキーを上回ることだってあるはずです。であれば、「背教者ユリアヌス」を読んだ人に、「それはいいですね」と言ってもおかしくありません。もっとも、そんなことが言えるためには、楽しいとはなんぞやについての想像力が必要なのでしょうけれど。一方で、もし日常性からの逸脱度合が、いいかどうかの判断基準となっていれば、スキーは民俗学で言う「ハレ」で「背教者ユリアヌス」は「ケ」となり、スキーに軍配が上がります。おそらく世間一般では、この尺度を用いて他人の休日の過ごし方を評価しているのでしょう。
 話を我が家の冬休みに戻すと、子供にとって一体全体楽しい冬休みだったのでしょうか?子供に聞いてみても、楽しくなかったとも、楽しかったとも、どちらの返事もありませんでした。ただ、幼稚園で描いた大掃除の絵には、パパの姿は描かれていないみたいです。

怖い夢と水ぼうそう

2010-01-13 23:33:00 | Weblog
 ある晩のことです。子供に図書館から借りてきた本を読み聞かせた後、寝かしつけようとしていたら、「パパ、怖い夢は水ぼうそうと一緒かなぁ」と言ってきました。何を聞かれたのか分からず、よくよく聞いてみました。すると、少し前に怖い夢を見た、また怖い夢を見るのが怖い、水ぼうそうは一度罹るともう罹らなくなるが、怖い夢も一度見るともう見なくなるのかもしれない、怖い夢と水ぼうそうは同じだろうか、という訳でした。安心させようと、「同じ夢を2回は見ないよ」と言ってみたものの、子供に根拠のない返事をしたことが心に引っ掛かったので、その時思いついた夏目漱石の話をしました。「昔、夏目漱石っていう偉い人がいて、子供の頃よく怖い夢を見たんだって。とっても怖かったので、大人になっても怖い夢を見たことが忘れられなかったそうだよ。でも、夏目漱石はただ怖かったと思っていただけでなくて、怖かった夢の思い出から夢十夜というお話を作ったんだよ。だからね、怖いって思うことは悪いことばかりじゃないし、もの凄~く怖いと思えるのは、その人のこころが豊かだってことなんだよ」と言ってみたものの、何の慰めにもなっていないようでした。「今日は、パパのお布団で寝る」と言って、私の横にもぐり込んできました。

今年こそ

2010-01-02 11:46:53 | Weblog
 まだ二十代だったころ、ある大先輩に言われたことに、「朝から酒を飲むようになったらおしまいだ」というものがあり、「ギクっ」とした覚えがあります。日常的に朝酒を飲むのはアル中でしょうし、周りの人から白眼視されてしまいます。但し、お正月のお屠蘇は別です。白眼視されないばかりか、何やら厳かな雰囲気すら漂います。この日だけは、正々堂々と朝からお酒が飲めます。
 正岡子規の正月の句に、「今年はと思ふことなきにしもあらず」があります。年が改まり、「今年こそは」と心機一転、やる気を胸にするのは、何も子規だけではありません。でも、おそらく子規と私の違うところは、お屠蘇を飲んで、それからお酒の杯を重ねるうちに、だんだんとやる気が溶けて消えてしまうことでしょう。いい気持ちになって寝込んだ後、夕方、はっと目を醒ました時には、十年変わることのない、いつもの自分がそこにいます。そして、一年が経ち、また年が改まり、「今年こそは」と思う繰り返しです。
 分かっているけど、でも、分かっているから、今年もまた今年こそ。

 「今年はの 思いも洗う お屠蘇かな」
 「初春や 今年こそはも お屠蘇まで」