花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

大和路

2017-10-25 21:11:38 | Weblog
 先週金曜から2泊3日で奈良へ行ってきました。台風の影響なのでしょう、3日間とも雨。台風の北上に合わせ日を追って雨が強くなり、最終日は楽しみにしていた室生寺拝観を止めて、朝起きてすぐに帰京しました。雨にたたられ宿題が残った旅でした。それでも、秋の大和路は風情のあるものでした。山に降る雨が遠景では煙をまとったように見え、田んぼに広がる黄金色の稲穂と好対照をなしていました。民家の庭で枝をたわませている熟柿を見て、「柿食えば、雨がながるる 放流路」と、駄句以下の論外を心中で詠んだり、コスモスのピンクやホテイアオイの薄紫にちょっぴり秋の寂しさを感じたりしました。また、学ぶことも多かった旅でした。そのいくつかを以下に。
◆桜井市にある古墳時代の纏向遺跡は、まだ全体の5%程度しか調査されてないが、出土した土器の約3分の1は東海地方から持ち込まれたものであり、当時から広範囲に及ぶ人の行き来があったとうかがわれること。
◆箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われているが、古墳が出来た時期と卑弥呼の時代は微妙にずれていて、宮内庁が発掘を許可しないので決定的な証拠である卑弥呼の埋葬品が見つかる可能性は低いこと。(画像は箸墓古墳)
◆ハスは1本の茎にひとつの花が咲くのが普通だが、極々まれにはふたつの花がつき、それは双頭の蓮と呼ばれ古来吉兆として有難がられてきたが、それを見つけた蘇我入鹿は大いに喜んだものの、その翌年に大化の改新で滅ぼされてしまったこと。
◆橿原市の天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)の境内にある波波架の木(ははかのき)は、その樹皮で鹿の骨を焼いて吉凶を占うことがいにしえより行われてきたが、2019年に平成から次の年号に変わる時にも、この波波架の木を使って占いの儀式が執り行われること。
◆畝傍山(うねびやま)、天香久山(あまのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山は、平城京のひとつ前の都である藤原宮に対して風水的な意味を持っていること。
◆耳成山はきれいな円錐形の形をしているところから、余分なものがない、耳がない、耳無し、耳成山と呼ばれるようになったと言われ、かつてふもとには口無しの井戸、目隠し川があったとされているが、鼻なし何とかというものはなかったこと。
◆春鹿は奈良の酒だが、上品で美味しいお酒も飲み過ぎると次の日には残ること。以上

受け皿

2017-10-18 21:25:24 | Weblog
 来る10月22日は衆院選の投開票日です。報道各機関が行っている情勢分析では、自民党の優位が伝えられています。また、自民優位の要因としては、野党が分裂した結果、自民党政治に不満を持つ人たちの「受け皿」になりえていないことが挙げられています。政権の支持と不支持が拮抗している場合、不支持がいくつかに分かれてしまえば、支持派が数の優位を得るのは当たり前です。今日の朝日新聞朝刊2面では、「野党分裂 自民に利」の見出しの下、「政権批判票の受け皿が分散している格好で、報道各社の選挙情勢調査で自民党が優位に立つ状況を支える要因といえそうだ」と書いてありました。確かにその通りなのでしょうが、それはさておき、私は「受け皿」の表現には違和感を覚えます。「受け皿」にはこぼれ落ちたものを受け止めるといった印象があります。例えば、コップ酒の下に敷かれた小皿であふれたお酒を受けるような。そこで違和感の正体について考えてみたのですが、受け皿で受けるのは本来あるべき場所からこぼれたもの、そんなニュアンスがあるようで、はたして政権批判票はそんなはみ出した存在なのかと、引っ掛かります。それから、「受け皿」から感じられるものは、ひとりひとりは真剣に考えて、思いを込めて投票するにも関わらず、それらを十把ひとからげに扱っている態度です。「そんなの言葉のたとえだよ」、「細かいことを気にしないで言わんとするものを見ろよ」などと言われればそれまでですが、細かいことが気になるのは右京さんと私だけでしょうか。

当てはまる文字は? 3連(休・救・窮・泣)

2017-10-06 21:13:48 | Weblog
 「心は安く、気はかろし、揺れ揺れ、帆綱よ、空高く・・・」これは樺太旅行へおもむく北原白秋の船出の言葉です(「フレップ・トリップ」岩波文庫)。旅に出るワクワク感、ウキウキ感にあふれています。北原白秋は樺太の旅がよほど楽しかったらしく、アザラシの繁殖地である海豹島へ向かう途次、「ブラボウ、ぼうぼうぼうぼうおうと汽笛が吼える」と、相当なハイテンションを見せています。「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」で始まる「邪宗門」の世界とは大きな違いです。さて、明日から3連休。お出掛けを楽しみにしている方も多いでしょう。北原白秋のような昂揚感が得られれば、旅のし甲斐もあると言えます。
 ちなみに私は再来週に奈良への旅行を控えているので、財布の紐を締めなければなりません。森まゆみさんの「千駄木の漱石」(ちくま文庫)の頁を広げ、活字の海に遊ぶのがせいぜい。ただ、区の図書館が書庫の整理で休館中なので、ちょっとだけ散財してしまいましたが。
 一方、3連休もお仕事の人がいます。日頃の激務から疲労が積み重なり、文字通り身体を休めるだけの人も少なくないはずです。長時間労働が原因となって命を落とした電通の若手社員のことが、各メディアで大きく報道されてきました。つい先日はNHKの若い記者が過労死したニュースも伝えられました。北原白秋は旅の終わりを次の言葉で結んでいます。「若かれと私は叫ぶ。若かれ、若かれ、若かれと。」気も心も若くあるには、必要充分な休養が得られるかどうか、社会のあり方も問われます。

受け継ぎたいココロ

2017-10-05 20:48:48 | Weblog
 高尾山へ参道から登る途中、薬王院の手前に男坂と女坂のふたつのルートがあります。男坂は坂と言っても108段の急な階段。女坂はゆるやかなカーブが続く坂道。ある日、高尾山を目指して男坂に差し掛かった時、幼稚園生くらいの男の子が階段の数を大きな声で数えながら上っていました。するとその子のおばあちゃんと思しき人が「声を出して数えちゃダメだよ」と声を掛けていました。一瞬、「なぜダメなのだろう」といぶかしく思いましたが、おそらくこういうことではないでしょうか。階段が何段あるか数えながら上っている人はほかにも居る、そこに「36、37、38・・・」と数え上げる声が聞こえたら、落語の時そばみたいに自分が数えていた数が分からなくなるのではないか、そんな迷惑を掛けないために声を出さずにココロで数える方が良いだろう、おばあちゃんにはこのような考えがあったのだろうと想像しました。いまどき、ここまでの気遣いをする人がいたのかと少し驚き、また感心しました。一所懸命に階段を上っている男の子には、そんな気配りのココロを受け継いで欲しいと思う一方、元気いっぱいに声を出しながら歩くハツラツさを持って欲しいとも思いました。仮に気配りと元気いっぱい、どちらかを選べと言われたら、この選択は、男坂を行くか、女坂を行くかの選択よりも難しそうです。