花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

民主制の顔をした独裁制?

2017-05-31 20:59:24 | Weblog
 森友学園や加計学園に対して「便宜を図った」との疑惑に関する政府の答弁は、頭ごなしに「違う」、「知らない」、「関係ない」と言い張っているだけ、さもなくば黙殺剣で答えない、と説明の体をなしていないように見受けられます。数の優位を背景に騒ぎは時間が収めてくれると思っているかのようです。そして、数の多い方の人たちは口をつぐんで我知らずを決め込んでいる感があります。自民党元副総裁の山崎拓さんは5月23日付の朝日新聞朝刊へ次のコメントを寄せていました。「各党から1選挙区につき1人しか公認されない小選挙区制は結果的に、与党トップの力を強める一強政治を招き、政界や官界に『ヒラメ現象』を広げることにつながりました。」これはどういうことでしょう。私たちは選挙を通じて国会へ代表を送ります。公民の授業では間接民主制と習いました。その私たちの代表が「ヒラメ」になってしまい自分の意見が言えないとすれば、国政が民主制ではなく独裁制に委ねられる危険性をはらんでいることになります。現在、内閣支持率が高いのは、政治の内容が悪くないと人々が思っているからでしょう。しかし、私は内容もさることながら政治の進め方、形式が大事だと考えています。何かおかしくなった時に内容は修正すれば良いですが、いったん出来上がった形式を変えることは容易ではないからです。まともな説明をしない、議論をしない、今の政権のあり方を見ると、やりたい放題の何でもありになってしまうのではないかと危うさを感じざるを得ません。成蹊大学で比較政治学を教える高安健将教授は、本日の朝日新聞朝刊で加計学園問題への政府の対応について、「有権者は政権の説明不足に慣れてしまってはいけない」と警鐘を鳴らしています。説明せずに時間の経過でうやむやにしてしまう手法を「あり」にさせない良い手立てはないものでしょうか。

がんのことをポンと呼ぼう

2017-05-26 21:11:39 | Weblog
 ピアニスト・国府弘子さんのこころに残る言葉は、「がんのことをウチではポンと呼ぼう」だそうです。5月25日付朝日新聞夕刊の記事によると、国府さんはがんの治療をしている時、薬の副作用で心身のバランスが崩れてしまいました。それを励まそうとした夫が言った、「がんという言葉の響きが良くない。がんのことをウチではポンと呼ぼう。勝てる気がする」、この言葉によって病気との向き合い方が変わります。「『このポンが』『このポンめ』・・・そう呼んでいるうちに気持ちが軽くなり、笑いが出ていた」、国府さんはこう振り返っています。
 古くから日本人は、言葉が与える印象に対して繊細な感覚を持ってきました。例えば、「閉会」のことを「お開き」と言ったり、「するめ」はお金をするのイメージにつながるので「あたりめ」と呼んだりします。これらは言葉の意味に関するもので、響きを意識した国府さんとはちょっと違うかもしれませんが、言葉が与える印象を大事にするという点では同じです。
 話は変わって、1993年にヤクルトと中日がセ・リーグの優勝を争っていた時のことです。仲間内でどっちが優勝するか話していた際、私はヤクルトじゃないかと言いました。理由はくだらなく、それぞれのチームの外国人助っ人の名前が、ヤクルトはハウエル、中日はパウエルで、半濁音の「パ」の響きが何となく弱っちかったので、パウエルがいる中日はハウエルのヤクルトに勝てないと言いました。最終的にはヤクルトが優勝しましたが、当然ながら名前の響きのせいなんかではなく、そしてふたりとも打撃成績は立派なものでした。国府さんの夫婦愛の話を読みながら、どういう訳かペナントレースと助っ人選手の名前のことを思い出してしまいました。

ポピュリズムにさえも背を向けて

2017-05-14 10:02:55 | Weblog
 5月10日付朝日新聞夕刊に森千香子・一橋大学准教授によるフランス大統領選の解説が掲載されていました。今回の選挙の特徴であった移民や移民2世が多い地区で棄権が多かった点について、理由としてアルジェリア移民2世の社会学者の言葉を紹介しています。それによると、投票を棄権した人は自覚が足りないのではなく、「自分を排除してきた社会に対し信頼感がなく、投票しても何も変わらない、それどころか利用されるだけだと考える。あえて投票箱に背を向け『自分は騙されない』と示すことで尊厳を保っている」のだそうです。仏大統領選で棄権と白票が有権者の3分の1に及ぶことを踏まえて森さんは次のように述べています。「グローバリゼーションの敗者が排外主義に走るという分析が散見されるが、その一方で社会の最底辺に滞留する有権者の中には沈黙し、政治から事実上排除された状態にある人が実に多い。民主主義が直面する最大の問題は『ポピュリズムの台頭』ではなく、ポピュリズムにさえも背を向け、既存の制度内では自らを政治から排除してしまうしかない人々の増大ではないか。」フランス社会のアパシーが看過出来ないレベルにまで広がっているとの見立てです。
 同じ記事では、「11人の候補全員が白人、9人が男性、残り女性2人のうち1人は極右、もう1人の極左は反イスラム発言ばかり。誰もが自分とあまりにかけ離れていて、投票できる人がいない」と語る棄権者の声も紹介されていました。政治への不信から政治に背を向ける人もいれば、選択肢がないと感じている人もいるようです。森さんは、「この『沈黙の声』に耳を傾け、そこから言葉を掬い取る技法を創造できるかどうかに、民主主義の未来はかかっている」と文章を結んでいます。「言葉を掬い取る技法」の創造により魅力ある選択肢が提示されることに期待したいと思います。ただ、何も変わらない、自分たちは利用されている、投票できる人がいない、などの言葉に同情はしますが、賛同は出来ません。沈黙が白紙委任を意味する以上、より悪くない選択をする割り切り、覚悟が必要ではないかと思いますが、フランスの移民系の人々が置かれた立場は私の想像を超えて過酷なのかもしれません。

神学論争みたいですね

2017-05-12 21:57:56 | Weblog
 安倍首相が9条を含む改正憲法を2020年に施行したいと発言したことを受け野党が国会で質問した際、「憲法改正についてのインタビューが載っている読売新聞を読んで」と答え説明を拒んだことが、「国会での論議を軽視している」と問題になっています。その後、憲法改正に関する発言は自民党総裁としてのもので、国会の場で首相が総裁の考えを説明するのは差し控えたいといった釈明がなされています。つまり、総裁の発言を首相の立場では説明する必要はないということです。首相夫人に対する森友学園問題に関する追及を、私人と公人の使い分けでかわそうとしていることと同じ構図に見えます。そもそも、政党内閣制においてあの時は総裁としての発言だったとか、首相は総裁の考えを説明しなくてもよいみたいなことを平気に言うこと自体、国会軽視のそしりは免れません。そんな屁理屈をこねくり回すところはスコラ的というか、昔々の神学論争の感があります。神学では真理の追究ではなく、正統を保つことが第一です。批判をかわして、如何に自分たちの教義や宗派が正しいか、その理屈を作り上げ、言い繕うことに精力を注ぎます。言うなれば身内の利益が大事で、それ以外は知っちゃいません。よく「永田町の論理云々」といわれますが、政治が神学的になっている証左でしょう。憲法改正について賛否が分かれる中、言い出しっぺのご自身が真摯な議論をしている人たちをバカにしています。