難解な本を読んでる時、集中しているつもりでも、目と意識が離れ離れになって、頭にいささかも内容が残らないまま、目だけが文字を追って先に進んでいってしまいます。最近では、西田幾多郎の「善の研究」がそうでした。
中身を一切記憶していない読書なんて、家人などは時間と労力、それにお金のムダと思っていることでしょう。自分でも理解力のなさにはあきれるばかりです。でも一方でこうも考えます。以下はたとえ話です。
巨岩を持ち上げようとしてもミクロン単位すら動かず、己の非力を嘆くばかり。でも、ムダとは分かりつつ、なぜか巨岩へ挑むことを止めることが出来ない。月日は流れ幾星霜、しかしながら虚仮の一念も蟻の一穴も全く気配なし。ダメなものは所詮ダメとうなだれつつ組んだ腕が、何だかちょっと引き締まっているように見える。
心理学で言う合理化のようではありますが、多少の慰めとしてそういったこともなくはないだろうと考えています。少なくとも結果が出ないことにも楽しみを感じられれば、結果が出ないことを避けて通るよりも、それでいいかなと思います。たまには難解本にチャレンジして無力感を味わうのも、命あってのことではあります。望むらくは、血の巡りが多少良くならんことを。
中身を一切記憶していない読書なんて、家人などは時間と労力、そ
巨岩を持ち上げようとしてもミクロン単位すら動かず、己の非力を
心理学で言う合理化のようではありますが、多少の慰めとしてそう