花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

2011年を振り返って (下)

2011-12-31 16:33:09 | Weblog
 日本漢字能力検定協会が発表した2011年を表わす漢字は「絆」でした。また、年末恒例の流行語大賞の発表でも、「絆」はトップテンに入っていました。確かに、震災以後、さまざまなニュースの中で「絆」・「きずな」という言葉が使われているのを目にしてきました。思うに、人々が絆を求めるのは、不安感に囚われているからです。不安感を自分一人で受け止められないので、誰かとつながって軽減しようとします。震災後、日常化した不安感が私たちを取り囲む状況下、「絆」がにわかにクローズアップされたことはうなづけます。また、facebookなどのソーシャルネットワークサービスによって、人と人とのつながりに新しい展開が見られるようになり、今年になってそれが社会を動かす大きな力となりました。ジャスミン革命がそれを何よりも物語っています。私たちは人とつながることによって、不安感をやわらげ、安らぎを得ることが出来ます。傷ついた人たちは「絆」によってその傷を癒し、「絆」によって再び立ち上がろうとする気力がみなぎってきます。一方で、「絆」は勇気や力の源ともなります。抑圧されている人たちは、「絆」によって圧政に立ち向かう勇気が沸いてきます。
 貨幣経済や行政サービスの充実によって、人と人とのつながりは段々希薄になってきました。お金を出せば、一面識もない人でも私たちの望むものを提供してくれます。隣人に頼らなくても、行政が社会的インフラを整備してくれます。はるかな昔に、「ユイ」や「モヤイ」といった相互扶助がいきていた頃は、具体的な誰かとのつながりが切れてしまえば、自分の生活が立ちゆかなくなってしまいましたが、今は収入の途が確保され、きちんと税金を納めている限り、生活の基盤が揺らぐことはありません。そのような中で、人と人とのつながりが希薄になっていったのは不思議でも何でもありませんが、行き過ぎた針が逆に振れるかのように、ここにきてまた「絆」の大事さに気づいたのが2011年だったのかもしれません。いつかある時、2011年を振り返った時、「絆」が私たちに安らぎや勇気を与えてくれた年、あるいは2011年を転換点として「絆」の重要性が再認識され始めた年として、思い出されそうな気がしています。

2011年を振り返って (上)

2011-12-30 13:33:11 | Weblog
 何年か経ったのち2011年を振り返った時、この年をどういった年として思い出すだろうかと考えてみました。大震災の年だったという記憶は決して消え去ることはないと思いますが、大震災自体よりも大震災が私たちの心にもたらした影響、あるいは大震災後に特に顕著となった心行きを、より強く思い出すような気がします。
 ではその心行きとな何かと問われれば、ひとつは日常化した不安感です。危機というものは、何かトラブルが起こって、初めてその存在を知ることになります。例えば、普段から空き巣の心配をしている人は少ないと思いますが、自分の家に押し入られてやっと、「戸締まりを怠るとエライことになる」と気づきます。しかし、震災および原発事故によってむき出しにされた危機は違います。はっきりとした姿かたちはないけれども、存在することは確実な危機と私たちは日常的に向き合うことになりました。それは、ある時ふと感じるような危機ではなく、あたかもそれがあることが当然であるかのように日常性を持って私たちから離れることがありません。
 それから、この危機のいやらしいところはまだあります。放射能や放射性物質が危険なことは誰もが知っています。しかし、どのくらい危険なのかは、ほとんど実感出来ません。ベクレルやマイクロシーベルトといった単位で示される危険度について、どのくらい危険なのか、量的な程度を把握することは素人には出来ないからです。ただ曖昧模糊とした、薄気味の悪い不安感を感じるだけです。まだしも何兆円の赤字と言われる方が、何となく規模感が分かるだけに、「大変だ」と思いつつも、言いようのない不気味さを感じることはありません。
 「影におびえる」という表現がありますが、2011年は「影におびえる」ことが常態化した年だったと言えるように思います。日常化した不安感、あるいは不安感の日常化に囚われ、差し迫った危機に直面している訳ではないけれども、日々、「影におびえ」たことがいつまでも記憶に残りそうです。

ゴースト・プロトコル

2011-12-28 23:42:49 | Weblog
 27日は忘年会のはずでしたが、体調不良者や仕事の都合で来れない人が相継ぎ、流れてしまいました。そこで、急に空いてしまった夜、前から観たい観たいと思っていたMI:4 ゴースト・プロトコルを観ようと、新宿のバルト9へ行きました。お金をふんだんにつぎ込んだハリウッド映画は、やはり迫力が違います。また、観客の喜ばせ方も流石はハリウッド流で、乗せられているのが分かっていても、手に汗握ってしまう映画でした。観終わった後、同い年のトム・クルーズがこれだけ頑張っているんだから、俺も頑張らなきゃと思いました。でも、具体的に何を頑張ればいいのかが分からないので、とりあえず二丁目に行ってワインを飲みました。ワインを飲んで、ラーメンを食べて、もう一軒行ってビールを飲んで、タクシーで帰りました。電車がなくなる時間までのんきにお酒を飲んでいる太平楽、これも世界のどこかでI・M・Fのエージェントが命を懸けて核戦争を防いでくれているお蔭かもしれません。具体的に何をという当てはありませんが、俺も頑張らなきゃとまたまた思いました。

今年出会った3冊

2011-12-27 03:29:22 | Book
 クリスマスの日曜日、朝日新聞朝刊の読書欄では、「この1年間に出会った本」と題して各書評者がお薦めの本を3冊紹介していました。取り上げられていたたくさんの本の中で、私が読んでいたのはディヴィッド・レムニック著「レーニンの墓 上・下」(白水社刊)くらいでした。殆どの本はそのタイトルさえ知らず、当たり前のことながら、新聞で書評を書く人がいかに幅広く本を読んでいるかと思いました。
 ところで、この日の読書欄を真似して、私も今年読んだ本から3冊を選んでみました。(新刊は③のみですが)
 ①ジョン・ハイルマン、マーク・ハルペリン著「大統領オバマは、こうしてつくられた」(朝日新聞社刊)
 ②スティーヴン・キャラハン著「大西洋漂流76日間」(早川文庫NF)
 ③池上俊一著「パスタでたどるイタリア史」(岩波ジュニア新書)

 ①はプラグマティックかつシステマチックな大統領選の候補者運動の様子に、いかにもアメリカ的だなと感じさせられるとともに、やはり人間くさい部分がことの成り行きを大きく左右するところが面白かった。ビル・クリントンはかなり道化的に描かれていた。②は単独のヨット航海中に鯨と衝突してヨットが沈没し、救命ボートで76日間漂流する実話です。著者のサバイバルに関する知識が生還に大きく寄与し、「知は力なり」を如実に示します。また、知を支えるにはタフで冷静な精神力が不可欠であることも、強く感じました。(JR大塚駅近くの書店で時間をつぶしている時に手にした本で、日光の山を登った時の往き帰りの東武電車で一気に読みました。)③パスタはイタリアの国民食ですが、かつては祝祭日のご馳走で、日常的に食べるようになったのが比較的最近のこととは知りませんでした。パスタがイタリアの食生活に浸透していく歴史的な過程を通して、イタリアとアラブやヨーロッパ諸国、新大陸などとの交渉史が見えてきます。「パスタはマンマ(おふくろ)の味」という観念を、女性の社会進出を阻み家庭に閉じこめておくためのイデオロギーとする見方は新鮮でした。

若者論

2011-12-16 01:54:26 | Weblog
 12月14日の朝日新聞朝刊に、「いまどきの20代は不遇? 幸せですけど」と題して社会学者・古市憲寿さんのインタビュー記事が掲載されていました。世代論には意味がないと言う古市さんは、その理由を次のように述べています。「若者論はしょせん、居酒屋のコミュニケーションツール程度のものです」、「若者論というのは階層差、地域差、性差を無視して世代だけに注目する乱暴な議論です」、「若者を『異質な他者』として区別しようとする。若者論は大人の自分探しだと思います。若者はこんなだが、我々はこうだ、と。」 なるほど、古市さんの言う「若者を『異質な他者』として区別しようとする」傾向は当たっているように思えます。おそらく、自分が理解出来ないものに何かレッテルを貼って、分かったような気になりたいのかもしれません。確かに、それでは、「今どきの若い者は」といった議論は「乱暴な議論」になり、「居酒屋のコミュニケーションツール」の域を出ません。
 ここでちょっと若者論の是非から離れて、理解できない世代に対する心構えについて考えてみたいと思います。理解出来ないということは、自分の持っている物差しでは測れないということです。では、理解出来ない世代をも測れる新しい物差しを作れば良いのですが、それは頭の善し悪しにも関わることなので、誰にでも出来ることではないでしょう。しかし、誰にでも出来ることではないと言って、諦めてしまっては身も蓋もないので、せめて「異質な他者」と見ることは改めたいものです。そして、私たちが誠実な大人であるならば、寛容に努めれば良いと思います。彼ら/彼女らも社会的な存在である以上、寛容な気持ちで接していれば、何らかの彼ら/彼女らなりの理屈も見えてくることでしょう。その結果、「異質な他者」としてではなく、「自分と同じではないけれども、相通ずる面もなきにしもあらず」と感じられればいいなと思います。もちろん、若者を含めて、誰に対しても。