花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

タイムトラベル

2016-08-29 23:27:01 | 季節/自然
 8月がそろそろ終わりに近づいた某日、山登りに出掛けました。普段会社へ行く時間より3時間早く家を出ました。電車は空いてるどころか、それなりに混んでいて、皆さん朝早くからご苦労なことだと思いました。JRとバスを乗り継いで登山口に着いたのは10時過ぎ、10時半頃から歩き始めました。今回の山は2000メートルを超える山で、登山口の標高は1500メートルくらいです。歩き出してほどなく、「この辺りはだいぶ季節が進んでるなぁ」と感じました。ナナカマドが赤い実をつけていたり、アザミはもう盛りを過ぎています。巷ではまだセミがジージー鳴いているのに、ここでは赤トンボが飛んでいます。標高が高くなるにつれ身体に当たる風は涼しさを増し、2000メートルを超えると立ち止まった時など肌寒く感じるくらいです。「すっかり秋の風だな」、そう思いました。季節はひと月ほど先を行っているようです。頂上を踏んで下山し、バスの時間までビールを飲みました。登山の後のビールの美味しさに季節は関係ありませんでした。バスとJRを乗り継いで街に戻りました。ちょうど帰宅の時間帯で、電車は朝よりさらに混んでおり、つい数時間前までの山の清涼な空気が嘘のようです。電車を降りるとむっとする熱気に包まれ、いつまで残暑が続くのだろうとうんざりしましたが、それでも駅から家へ歩く途中、どこかでコオロギが鳴いています。じとっと汗ばむ暑さの中でも、季節は配役を少しずつ変えつつあるようです。

足し算の人生と引き算の人生

2016-08-17 20:22:36 | Book

 子どもに「読んでみたら」と薦められ大崎善生著「聖の青春」(角川文庫)を読みました。「聖」は西本聖の「たかし」ではなく「さとし」と読みます。この本の主人公である村山聖さんは、幼くしてネフローゼという腎臓の病を得、生涯病気と闘うことになります。作者の表現を借りれば、その村山少年の心の翼となったのが将棋であり、舞い上がるべき大空が名人位でありました。村山少年は入退院を繰り返しながらも将棋の研鑽を積み、青年になった頃には「東に天才羽生善治あらば、西に怪童村山聖あり」と称されるまでになります。ところが、翼を折らんとする病魔は彼のからだを徐々に蝕み、将棋界のトップテンであるA級棋士まで登り上がり、名人への挑戦権が射程内に入ったところで夭逝してしまいます。享年は二十九でした。最後の最後まで将棋への執念を失わず、がんの手術をしてひと月くらいのとき、医師の止めるのも聞かず対局に赴くあたりは、「あしたのジョー」思わせるものがありました。
 ひとの一生をみるとき、ふたつの見方があると思います。与えられた天命から毎年ひとつずつ引き算をして、零になった時が死であるという見方。かたや、毎年ひとつずつ足し算をしていき、死んだ時が天命とも考えられます。前者の場合、ひとは土に還り、後者では天に昇ると見ることができるかもしれません。村山さんは、自分がそう長くは生きられないだろうと感じ、「早く名人にならねば」と自分の持ち時間を常に意識しながら将棋に打ち込んでいました。それからすると村山さんは土に還ったと言えるでしょうし、自身も意味は違うかもしれませんが「自分は土に還る」と言っていました。しかし、村山さんが生きた密度の濃い時間を思うと、一年で足し上げる数は普通人の何倍もあり、29年間ではありますがはるかな高みに至ったと考えたくもなります。私は、「天に昇っていった」というイメージが、この本に描かれた村山聖さんの姿にふさわしいと思います。

物語喪失の時代

2016-08-15 21:46:25 | Weblog
 少し前になりますが8/8の朝日新聞朝刊の文化欄に写真家・星野道夫さんに関する記事が載っていました。アラスカで写真を撮るうち先住民たちに伝わる神話に惹かれていった星野さんが、著書「長い旅の途上」の中で語っている次の言葉が紹介されています。「風景を自分のものとし、その土地に深くかかわってゆくために、人間は神話の力を必要としていたのだ。それは私たちが、近代社会の中で失った力でもある。」
 ここで言う「神話」は「物語」に置き換えても良いかもしれません。アラスカの先住民が環境に溶け込んでいくために神話を必要としたのと同様、私たちも日々の暮らしの中で自分を見失わないために物語が必要なのではないかと思います。もちろん、物語とは全くの作為によるフィクションを指すのではなく、毎日考え行動してきた積み重ねからだんだん形となった自画像を意味しています。
 星野さんが「近代社会の中で失った力でもある」と言ったことは、今の時代にも当てはまります。いや、星野さんの時代以上に力を失っているのかもしれません。それは私たちがかつてない激しい変化にさらされていることに起因しています。目まぐるしい変化に次々と対応しつつ、短期的な結果を求められる現在の社会では、自分自身と自分を取り巻く環境との関係をじっくり練り上げていくことや、時間を掛けて自らを磨き上げていくことが難しくなっていると思います。将棋に例えるなら、追いまくられるように早指しばかり求められ、長考する余裕が与えられない、そんなバランスを欠いた状況が今ではないでしょうか。これまでの人生の積み重ねに糸口を探すことが許されず、間髪いれない迅速な対応、そして常に新しいこと、その内容や意味よりも今までと違っているかどうかの新しさが求められるあまり、ややもすると変わり身の早さのために過去とのつながりを切り捨てることが時代の要請であるかのような観があります。連続性を持たない条件反射的な営みからは、自画像も物語も生まれようはずもありません。人生は断片化されたリアクションとなり、物語が生まれる土壌がなくなっています。うたかただけが肥大し、当然うたかただけに次の瞬間には消え去る、結果として、そんな時代の相の下に生きていることが私たちに捉えようのない不安感をもたらしているような気がします。
 朝日新聞の記事には、星野さんのこんな言葉もありました。「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。」(「旅をする木」から) 時の流れの中でこころの錨を下し、何かに深くかかわり、かけがえのなさを感じることが大切であると星野さんは教えてくれていますが、ではそのためにどうすれば良いかは私たちひとりひとりに与えられた宿題になるかと思います。