花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

古本の効用

2010-11-28 13:05:35 | Book
 秋の日はつるべ落としと言いますが、すっかり暗くなったある日の夕方、家へ帰る道すがら、ふと足を止めてとある古書店のワゴンセールの本を何の気はなしにのぞき込みました。すると、100円とゴム印の押された紙が貼ってある末川博編著「法学入門」が目に入りまし た。末川先生はとっくの昔に鬼籍に入られていますが、民法学の権威であり、かつては「西の末川、東の我妻(榮)」と言われたほどの 、関西法学界を代表する学者でした。法学とは無縁の私ですら知っている斯界の大家の本が、野ざらし、雨ざらしのワゴンセールに出ているのが、とても忍びなく思え、にわかに買おうという気持ちが起こりました。ただ、100円の本を1冊だけ買うのも、これまた忍びなく、ワゴンに並んだほかの本を眺めていると、いずれ図書館で借りて読もうと思っていた辻邦生著の「安土往還記」がありました。「法学入門」と日焼けした「安土往還記」を手に店の奥に入り、300円を支払い、家路を急ぎました。
 さて、表題にある「古本の効用」についてです。普通、新刊本を買って帰ると、「また本を買ったのぉぉ」と冷ややかな視線を向けられますが、古本の場合、おそらく本棚から持ってきたと思われるのか、「あら、法律の本を読むの?」と、怪訝がられこそすれ、おとがめはありません。パラパラと頁を繰りながら、「末川先生は立命館大学の総長をしていた有名な法学者なんだよね」なんて素知らぬ顔で応えました。

ガンタムと日本人

2010-11-23 15:30:14 | Book
 昨日の朝日新聞朝刊の3面に文春新書の広告が載っていました。「ガンダムと日本人」は今月の新刊の1冊で、書名の横に「永遠の名作アニメと戦後日本の歩み。京大高坂正堯門下生による渾身のガンダム論」と書いてありました。これを見た時、「えっ」と違和感を覚えました。「京大高坂正堯」と言えば、もう故人となられましたが、高名な政治学者です。その門下生がガンダム論を書いたのだなとは分かるのですが、何故広告の中に「高坂正堯門下生」と入れなければならないのか、その理由が全く分からず、また、入れることによる広告的意図が見当もつきませんでした。
 先ず、高坂正堯先生とガンダムの間にどんなつながりがあるか、全然想像出来ません。例えば、「野村克也門下生による配球術」と言えば、誰でもすんなり本の内容をイメージ出来ると思いますが、高坂ゼミで学んだこととガンダムとがどこでどうつながるのでしょうか。
 次に、単に著者のプロフィールのつもりで「高坂正堯門下生」と入れたのであれば、それはあまり意味がなさそうです。「元キャビン・アテンダントによるおもてなし論」とかであれば、経歴と本の中身の親和性が感じられます。あるいは、「ヤンキーあがりによる教育論」なら 、ヤンキーと教育が真反対なので、何か常識破りの面白いことが書いてあるかもと期待感が持てます。ところが、「高坂正堯門下生によるガンダム論」では、木に竹を接いだと言うか、「ガンダム論」に対して「高坂正堯門下生」が何のスパイスにもなっていません。ひょっとすると、高坂ゼミ出身者には刺さるかもしれませんが、それで部数が飛躍的に伸びるものでもないでしょう。
 相当昔のことですが、芥川賞を獲った庄司薫さんは、やはり高名な政治学者である丸山眞男先生の門下生であることが話題になりました。この場合、庄司さんの芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、学生運動が時代背景にある小説で、丸山眞男先生の門下生が、東大紛争のあおりで東大を受けられなくなった受験生の話を書けば、それはかなり興味津々となります。でも、ガンダムは、どちらかと言えば、ガンダムのメカ、メカしたところにファンが惹かれた訳で、政治学的な要素によってではないので、高坂先生の名前が出てきても、読者を刺激するところはほとんどないと思われます。
 新聞に広告を出すとなれば、それ相応の掲載料が掛かると思います。その意味では、広告中のほんの1行と言えども、そのスペースにはお金が掛かっています。同じお金を使うのなら、そして本の部数を伸ばしたいと思うのなら、もっと本の内容を訴求する表現にしたら良いのにと思いました。

国のためは自分のため

2010-11-15 21:57:05 | Book
 先週、APECの物々しい警備に、かつての大喪の礼を思い出しました。その連鎖反応で、大喪の礼に至るまで日本中を覆った自粛ムードも思い出しました。これらの連鎖反応の勢いで、ノーマ・フィールド著「天皇の逝く国で」(みすず書房刊)へ行き着き、図書館で借りて読み始め、そしてAPECが終わる一日前に読み終わりました。
 この本には、世間の暗黙の了解を破ったため、精神的、肉体的な危害を加えられた三人の方々が登場しますが、そのうちの一人は元長崎市長の本島等さんです。1988年、昭和天皇が倒れられたちょうど同じ頃、当時の本島市長は、「天皇に戦争責任があると思うか?」と市議会で質問を受け、それに対して「あると思う」と答えたため、右翼に命を狙われ、またそれまでは支持者だった人たちからも猛烈な反発を受けます。本島市長は、それにも関わらず発言を撤回することはなく、その後も折あるごとに、自らの考えを、決して感情的にならず、淡々と語っていき、ついにはその代償として、一命は取り止めたものの、銃弾に貫かれることになりました。
 少数派が自分の意見を述べる時、しかもその意見が多数派から見てタブーに触れるものであった場合、少数派は排除されたり、非難、嫌がらせ、暴力などの仕打ちを受けることがあります。多数派が少数派の口を塞ごうとすることは、日本に限ったことではありません。例えば、ミャンマーには、つい先だって軟禁を解かれたアウン・サン・スー・チーさんがいます。アメリカにも公民権運動の血なまぐさい歴史があります。また、国内外を問わず、国家が少数派の前に立ち塞がることも少なくありませんでした。しかしながら、国家と言っても、それは私たちから遠く離れたところからやってきた何か得体のしれないものではなく、実際のところは、国家を支えている人間自身が立ち塞がっているのです。
 日本国憲法では、基本的人権の尊重が謳われています。私たちが国家を支えるのは、憲法の下、国家が私たちを護ってくれるからです。その意味では、私たちは国家を支えることを通じて、自分の人権を護っていると言えるでしょう。となれば、国家の名を借りて、少数派の意見を封殺しようとする行為は、国民を護らない存在に国家を変えようとしていることにほかなりません。国家が国民を護らないことがまかり通るようになれば、そのような流れに加担した人たちも、一旦少数派になるやいなや、今度は自分たちが排除される側になるということです。少数派の意見を尊重することは、国家の健全性を保ち、ひいては自分が尊重されることにつながることを忘れてはならないと思います。

主よ、どこへ行きたもう

2010-11-08 22:33:46 | Book
 先日、娘とママが本屋へ行きたいと言うので、揃って神保町へ出掛けました。私は特に見たい本はなかったのですが、時間つぶしに岩波文庫の棚を眺めていました。その時、目に止まったのがシェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」でした。この本は上中下の3巻本で 、学生の頃に上と中を読みました。この小説の舞台は古代ローマ帝国、話は暴君ネロによるキリスト教徒迫害の物語です。テーマの重たさに、中巻まで読んだところで、少し息抜きをしようと違う本に移り、そのままずっと下巻を読まずにいました。神保町の書店で、「クオ・ワディス」の背表紙を見た時、随分長いこと下巻を読まずにいたこと、そして、アラバスター(石花石膏)のような肌を持つリギイ族の王女・リギアが囚われの身となるところで中巻は終わりましたが、下巻でその運命がどうなるのだろうか、といったことが頭に浮かびました。そう言えば、自分が持っている上中巻は今はなきセロファン紙のカバーがついた岩波文庫だなぁなどと、どうでもいいことも思い出されました。この日は、娘とママの本探しが目的であったこともあり、すっかり忘れてしまっていたことを思い出しただけで、「じゃぁ、下巻を読んでみるか」という気は起こりませんでした。しかし、それから数日したある日、会社の帰りに何となく書店に立ち寄り、「クオ・ワディス 下」を手にしてレジに並んでいました。店員さんに、「下巻ですがよろしいですか?」と聞かれ、「ええ、大丈夫です」と答え、代金を払いました。下巻を読み始めると、自分が思っていた以上にそれまでのあらすじを覚えていて、すんなり物語の世界に戻っていけました。テーマの重たさは相変わらずで、迫害の描写は酸鼻を極めていましたが、途中他の本で息抜きすることなく、一大絵巻を読み切りました。最後の最後に、邪知暴虐のネロが死に、ネロと対照的な人物として描かれていた冷静かつ明晰な審美家であるペトロニウスも自ら命を絶ちますが、アラバスター(石花石膏)のような肌を持つリギイ族の王女・リギアは絶体絶命のところを救われ、ローマから離れた地で安息を得ます。あまりにも多くの人が殺されたり死んでいったので、ハッピーエンドといった明るい感じはないものの、物語の終わりで救いの光が射しました。 私の読後感は、上中巻と下巻の間が相当空いたので「読み終わったぞ」といった達成感はないものの、読債を返したせいか、心の中の黒雲がひとつ流れ過ぎていったように感じました。