花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

無理やりつなげてみました

2015-09-28 20:11:09 | Weblog
 9/28付朝日新聞朝刊の文化欄に種田山頭火の記事が載っていました。記事では山頭火をこう評しています。「弱さを隠さない、強がらない。後悔しながらもありのままをさらけ出し、書きつづった。自らは弱い状態で世の中をせせら笑い、そういう形で社会に抵抗した。」漂蕩の俳人である山頭火はただの風来坊ではなく、「一人になりたいけれど一人では生きられず、人恋しくて酒に酔う。その弱さ、人間くささ」を持つ人でした。その山頭火のこころを表すかのような「行乞記」からの言葉が紹介されていました。「歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作つてゐることはさみしくない。」
 さて、先の土曜日、あるウォーキング・イベントに参加して20キロを歩いてきました。運営側の行き届いた準備、有志の皆さんによるコース沿いでの温かな励ましやサポート、また、工場群を見ながら歩いたり、潮の香りと涼風が心地よい海辺の公園、日射しをさえぎってくれる森の遊歩道など、コースは変化に富み、これらの好要素のおかげでウォーキングの魅力を存分に味合うことが出来ました。山頭火は、ひとりでいると寂しいけれど、歩くことが出来れば寂しくないと言っています。それに比べると、私は寂しくないどころか、大いに楽しめたので、山頭火より相当に恵まれていることになります。
 同じ日の朝日新聞朝刊には、こんな記事もありました。酒場詩人の吉田類さんに関する記事です。こちらの記事では吉田さんが、「酒を飲んでいられるのは平和の証しです。戦争をやっている国なら、僕のような呑兵衛詩人が一番先に粛清されちゃうかもしれません」、と語っています。「そうです、そうなんです。平和の証しなんです」と思いました。楽しく歩けて、美味しくお酒が呑めるだけで、どんなに恵まれていることか。折しも、今晩は月がひと際大きく見えるスーパームーンとやら。名月を眺めつつ、歩けて呑める幸せを感じつつ、若竹屋酒造場の「渓」を傾けてみました。端麗な味わいが、薄口のダシで頂いた湯豆腐と大変マッチしていました。
 余談ですが、週が始まる月曜日はブルー・マンデーと言って、会社へ行きたくなくなる人が増えるそうですが、その月曜日に人を力づける記事が重なったのは偶然だったのでしょうか。

シルバー・ウィーク寸景

2015-09-24 20:24:01 | Weblog
 シルバー・ウィークのある日、新幹線のホームで列車を待っていた時のことです。私が待つこだま号の隣のホームに先発の列車が入ってきました。アナウンスがこう告げていました。「○○番線は何時何分発のどこそこ行きのぞみ何号です。隣の△△番線には間もなく何時何分発どこそこ行きのこだま何号が到着します。合わせてご利用ください。」「合わせてご利用?」、「どうやって」と私は思いました。先発で行って、途中駅で後発に乗り換えれば、合わせて利用したことになりますが、それならホームのアナウンスだけでなく、車内でも「合わせてご利用ください」とアナウンスするのでしょうか。いやいや、ミスター・インクレディブルの奥さんなら身体がゴムのように伸びるから、ふたつの列車に同時に乗れるかもしれない。そんなくだらない想像をしながら、のぞみ号を見送りました。「合わせて」と、つい口を衝いて出ただけなのは分かりますが、こだま号に乗ってからも、しばらくは気になって仕方がありませんでした。

「しょうがない」に流されない

2015-09-16 21:08:17 | Weblog
 9/15付朝日新聞朝刊には、政治家の発する言葉のあいまいさ、虚と実に関する識者の見方が載っていました。思想史研究者・片山杜秀さんは、「政治家は何か魅力的な言葉を振りまかないといけません。虚構を掲げてでも人々に夢を見させ、刹那的でもいいから人気を集めないといけない。でないと政治は回りません」としつつも、阿倍政権については次のように危惧感を述べています。「安倍政権はあいまいな言葉を連発しています。原発再稼働もそう。いかにあいまいなゾーンを広げ、いかにごまかして政策を押し通すか、ということで政治が回っている。怖いのは、みんないつの間にか、飛び交うインチキな言葉に慣れっこになり、状況に流されて、『しょうがない』と現実をどんどん肯定し始めることです。そうなると少数意見は排除され、世の中は一色に染まっていく。これは一種のファシズムです。民衆自らが、それでいいと思ってしまうのですから、民主主義とも矛盾しません。みんなが、それでいいと思うとき、民主主義は容易にファシズムに転化するのです。」
 この記事を読んで、丸山眞男さんの「『現実』主義の陥穽」(未来社刊「現代政治の思想と行動」所収)を思い出しました。片山さんの言う「状況に流されて、『しょうがない』と現実をどんどん肯定し始めること」は、丸山さんの「既成事実への屈服」に符合しています。「既成事実への屈服」は、現実に抗おうとせず、ただ受け入れるだけ、そして、現実の多面性に目を向けるのではなく、一面だけをクローズアップして見ようとする特徴を持っています。そういった精神的態度が帰結するものは、「その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて『現実的』と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に『観念的』『非現実的』というレッテルを貼られがち」になることです。
 丸山さん思考停止に陥り、現実に押し流されてしまわないよう、こう訴えかけています。「既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした『拒絶』がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。」丸山さんが半世紀以上も前に鳴らした警鐘が、今もまだ響き続けているかのように思えます。

Not member but number

2015-09-08 20:43:11 | Weblog
 安全保障関連法案を巡っては自民党内でも県議や市議の間から異論が出ていると、9/8付朝日新聞朝刊は報じていました。その記事の中では谷垣幹事長の次のようなコメントが紹介されていました。「色々な議論が党内でもあるだろう。しかし、それが燎原(りょうげん)の火のごとく広がっている状況ではない。現在の安全保障環境の変化を丁寧に説明していく」
木で鼻を括ったような言い方とは、このような言い方を指すのでしょうか。「燎原の火のごとく広がっている状況ではない」とは、「少数意見に耳を傾ける必要はない」と言っているのでしょうか。また、「説明していく」とは、「自分の言いたいことは言うけど、話し合いはしない」と言っているのでしょうか。
 先日、安全保障関連法案への反対デモに対して、橋下大阪市長は「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう。こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」とつぶやいたそうです。
 谷垣さんや橋下さんは国民のことを、この国の行方を一緒考えていくひとりひとりが大切な仲間であると見るのではなく、自分の意思を通すために手続き上必要な単なる数である、と考えているのかもしれません。ふたりの言葉からそんな印象を受けました。