花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

お洗濯指数100

2006-07-31 08:55:42 | 季節/自然
 7/30にやっと関東地方も梅雨が明けた。その翌日の今朝ベランダに出たら、梅雨明けと言うよりは、秋を思わせる爽やかさであった。陽射しはまぶしく、でも湿度が低いのか肌に感じる風が何とも心地よい。ふと、頭に浮かんだのが、「おねしょ日和」という言葉である。こんな気持ちの良い朝なら、おねしょの布団を干すのもご愛敬だろうし、実際的な話、すぐに乾いて夜にはフカフカの布団で寝ることができる。植物に水やりをしながらそんなことを思った。
 朝顔を揺らす風受け布団干す(もちろんフィクションです)

温暖化のせい?

2006-07-28 22:47:22 | Weblog
 先週の日曜日に銀座へ行った時のことである。ご存知の通り、正午から中央通りは歩行者天国になるが、車の通行が遮断されるやいなや、30代前半らしき母親と子供たちが地べたに座り込んでお弁当を広げだした。日比谷公園ならいざしらず、銀座のミキモトの前、しかも道路に直座りしてお弁当を食べ始めた。以前何かの本で読んだ記憶があるが、東南アジアでは生活の場が住居だけにとどまらず、往来でも営まれている、とあった。私が眼にした光景は、銀座の東南アジア化の走りであろうか。「うーん、地球温暖化の影響がこういうところにも出ているのか」、とは思わなかったが、銀座の歩行者天国にお弁当を持って出掛けて来る感覚には、ちょっと違和感を覚えた。
 自分が古いだけなのかもしれないが、どの街に出掛けるかで、自ずと心持ちまで変わってくるものだと思う。ステレオタイプだけれども、銀座に出る時にはおしゃれに、新宿に出る時には何でもありの気ままさでといったように、自分を街の雰囲気にアジャストさせる楽しさがあると思う。「どこでもかんでも我が家の延長、やりたいようにやるぜ」みたいなのは、如何なものだろう。でも、このところあちこちで子供をめぐる物騒な事件が絶えない中、先の親子は安心してお弁当を広げられる所として銀座を選んだのかもしれない。もし、そうだったら、その気持ちは理解出来る。

マイナス6%

2006-07-25 21:48:06 | Weblog
 昨年秋の健康診断の結果、尿酸値が正常値をはるかに超えて高尿酸血症と判定された。ここ数回の健康診断で尿酸値が上昇傾向にあったので、ひと夏、ビールを控えて臨んだ健康診断だっただけに、ショックは大きかった。食事に関しても、プリン体が多く含まれている食べ物は元々そんなに食べていなかったが、更に意識して摂取を控えていたのに。そこで、次の健康診断の一週間前から、尿酸値を下げると言われているアメリカンチェリーを一日6~8粒食べることにした。もちろん、節酒も継続。そして、結果が出た。まだ危険圏内を脱していないものの、前回より尿酸値が6%下がっていた。ビールを飲まないよりも、アメリカンチェリーの方が効果があるということか。
 その後、アメリカンチェリーは食べなくなったものの、酒量は抑制している。ある時、妻から「もう前の量は飲めなくなったかもね」と言われたので、試しにワインを1本買ってきて飲んでみた。30分後にボトルは空になっていた。ダイエットのリバウンドのようなことにならないよう、油断は禁物だ。

梅雨明けを待ちながら

2006-07-24 22:49:21 | 季節/自然
 もうすぐ8月だというのにまだ梅雨は明けていない。今日も、朝から雨。高校野球の地方大会は、例年になく雨の順延が多い。各地で高校球児たちが待ちぼうけを食わされているようだ。午後、雨があがったので表へ出てみると、梅雨時雨が蝉時雨に変わっていた。彼らには残された時間が少ないので、ちょっとした雨止みも貴重なのだろう。早く梅雨が明けて、ジリジリと刺すような陽射し、カァーっとした暑さの中、思いっきり鳴いてみたいだろうに、と思った。

リベラリストの肖像

2006-07-16 22:19:28 | Book
 「いったいいつから、批判するとかのりこえるとか、精神を継承するとかしないとか、剣呑な言葉でしか、過去の思想は語られなくなってしまったのだろう。」「ひとりの人間が深くものを考え、語った営みは、そんなに簡単にまつりあげたり、限界を論じたりできるほど、安っぽいものではないはずなのに。」「この本でこころみたのは、丸山眞男という稀有な知性がのこした言葉の群れのなかへわけいって、・・・珠玉や棒きれや落とし穴を、できるかぎり克明に記し、それぞれと出あった驚きを、読んでくれる方々とともにすることである。」
 以上は、岩波新書の「丸山眞男」(苅部直著)のあとがきからである。評伝、特に文化人の評伝において、他人の家に土足で上がり込むような品格に欠けるものや、評者の空威張りや人を小ばかにした態度が透けてみえるようなものがあり、後味の悪い思いをすることが時々あったが、この本はそのようなところが全然なく、丸山眞男が思想と真摯な格闘をした人であることを改めて知ることが出来た。
 「漱石という生き方」の著者、秋山豊氏が「漱石に寄り添うように」漱石の文章を読み込んでいったの同様、苅部氏も「丸山眞男に寄り添うように」丸山眞男のメッセージを読み込んでいる。学生運動のさなか、学生につるし上げのようなかたちで糾弾された丸山眞男が、学生たちのルールを無視した追及の仕方を批判して「人生は形式です」と言ったエピソードを紹介するなど、苅部氏は随所で丸山眞男が形にこだわったことに触れているが、氏自身にもきちんとした形が備わっていることが感じられた。
 今年は、丸山眞男没後10年にあたるので、丸山眞男の著作を読み返し、人生に必要な形式とは何かについて考えてみようと思う。