花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

春へいざなうお酒

2009-01-26 23:19:59 | Weblog
 作家・村上春樹さんは、エッセーの中で時々「小確幸」という言葉を使っています。これは、「個人レベルの小さな、でもその人にとっては確かに感じ取れる幸せ」のことを指しています。私にとって、大相撲を見ながらお酒をちびりちびりと飲む、あるいはお酒をちびりちびりと飲みながら大相撲を見ることは小確幸のひとつです。大相撲を見ることとお酒を飲むことの、どちらが主でありどちらが従であるかは定かでありませんが、昨日の日曜日に限って言えば、確実にお酒が主でした。それは、大相撲の千秋楽がダースベイダー降臨を思わせる朝青龍の優勝で終わったからではなく、この日のお酒が、悪役復活の後味の悪さをも圧倒するような爽やかな飲み口だったからです。そのお酒とは、あるご厚意で頂いたもので、佐賀県の蔵元「瀬頭酒造」が造っている季節限定の「東長搾りたて2009」です。地元紙によると、佐賀県内で「東長」を扱う酒店の主人が、「ぴりぴりしてうまい。季節感を出せる」と言う通り、売れ行きも上々だそうです。この「搾りたて2009」は熱処理をしていない生酒で、一般的に生酒はフレッシュな味わいや香りが特徴とされています。私が味わったこのお酒も口当たりは軽く、いやもう少し慎重に言葉を選ぶならば、口当たりは軽やかで、喉ごしもすっきりとしたものでした。ひとくち飲んで、「ヤバイ」と思わせられるお酒にたまに出会うことがあります。つい自分の適量を過ぎてしまうほど美味しいという意味ですが、日曜の夕方、ひとりこころの中で、「ヤバイよぉ」と思ったものでした。どちらかと言うと辛口が好まれる巷の嗜好にありながら、「東長搾りたて2009」の味わいは上品な甘さが前面に出ているお酒だと思います。柄にもなく気障な表現をしてみるなら、「ほのかに香しい梅の花の匂いを運んでくれる春先の風」といったところでしょうか。梅の花の柔らかでそしてかすかに香る甘さ、そんなたとえをしたくなるお酒でした。梅林を渡ってくる風に、そこはかとない春の訪れを感じるように、この夜は来るべき春(と春場所)を思いながら杯を重ねました。もちろん、適量の範囲内で。今日もそうでしたが、今週はもう一日二日、帰宅の足取りが軽やかになりそうです。

新聞の可能性

2009-01-23 22:38:25 | Weblog
 今日の朝日新聞朝刊に創刊130周年記念特集として(ちなみに創刊記念日は25日とのこと)、作家の池澤夏樹さんと朝日新聞主筆の船橋洋一さんの対談が載っていました。この対談の最後のところでは、新聞の可能性が話題になっています。そこで池澤さんは、「子どもは新聞をのぞいてみて一つでもわかる記事があると、自分が大人になった気がするものです。家族と新聞というのはセットになっているのかもしれませんね。新聞には家族を束ねる機能がある」、と新聞の良さをあげています。これを受けて船橋さんは、ベネディクト・アンダーソンという人の著書の中の言葉を引きながら、こう述べています。「ベネディクト・アンダーソンが『近代人には新聞が朝の礼拝の代わりになった』とのヘーゲルの言葉を引用し、その上で『このセレモニーを行う数百万の人々は、お互いのことは全く知らないが、これは想像の共同体なのだ』と著書『想像の共同体』に書いていますが、そういう新聞は市民・国民の共通項なのでしょう。』 これに応えて池澤さんは次の言葉で対談を締めくくっています。「もう一歩この論を進めると、県単位から全国まで、コミュニティーの束ねの役割も果たしている。新聞を共有することで人と人はつながるという。テレビにその機能があるけれど、インターネットはむしろ逆に人を個人に戻す。新聞は、日本人の自意識に結構つながっているんだなと、今、気づきました。」 この対談は朝日新聞の創刊130周年を記念してのものなので、もちろん「よいしょ」が入っているでしょうし、新聞に束ねの機能があるなんて、ちょっと買いかぶり過ぎじゃないと言いたくなります。でも、新聞で取り上げられている出来事は紛れもなく生身の人間がやっていることなので、活字を通していろいろな思いや思惑を感じることが出来ます。また、自分がそうやって思いや思惑を感じているのと同じように、どこかに新聞から何かを感じている人がいると想像したり、自分と同じように共感したり憤ったりしている人がいることを想像してみると、誰に対してという訳ではありませんが、何だか妙な親近感が湧いてきます。その意味では、新聞のことを「想像の共同体」と呼ぶのは、意外と的を射ているのかもしれません。この日の新聞で、政局優先で玉虫色となってしまった税制改正法案に関する記事や、文京区で地域の子ども育成に参加している「おやじの会」の話、あるいはタカラのヒット商品である「人生銀行」の開発にまつわる話など、それぞれの記事を読みながら、スピルバーグの映画「未知との遭遇」のキャッチコピーの“We are not alone.”が思い出されたのは、きっとこの対談を読んだからだと思います。

メイドさんの気持ちが分かりますか? (下)

2009-01-21 20:44:20 | Weblog
 「メイドさんを使って自分がキャリアディベロップメントする社会」を目指すか、目指さないかについて考える際、もうひとつ気になることがあります。それは、今の世の中では欲望が大々的に解放されていることです。1月7日の朝日新聞朝刊では、「きっと、もっと、ずっと」がアラフォー世代のキーワードとして紹介してありました。「もっとキャリアアップしてきっと幸せな結婚をして、寿命いっぱいまでずっと女を磨きたい」ということだそうです。また、同じ紙面では、アラフォー世代について、「人生は右肩上がりが基本」とか「日本のアラフォー女性は欲望の海を泳いでいる」などとも書いてありました。このような欲望の追求をためらわない傾向は、アラフォー世代に特徴的なのかもしれませんが、おそらくアラフォー世代に特有のものと言うことは出来ないと思います。みんなが程度の差はあれ、アラフォー的なものを共有していると思います。そのような欲望が解放された社会にあって、欲望を追求してひた走る人を眺め続けるしかない人たち、その人たちのことを竹中平蔵さんの言葉を借りて象徴的にメイドさんと呼ぶなら(もちろん派遣さんでも構いませんが)、メイドさんたちのこころのうちはどのようなものとなるでしょうか。自己実現の道が開かれ、その道を邁進することを謳歌している人たちと、一方でその道を閉ざされたメイドさん。しかもカツカツの生活で身動きすらとれないのに、「きっと、もっと、ずっと」と世間が騒いでいるとしたら、メイドさんはそれを良しとするでしょうか。そういった問いは言わずもがなで、こころある人ならメイドさんの胸のうちを思う時、やるせなさが湧き上がってくることでしょう。でも、メイドさんに共感するこころやメイドさんの気持ちへの想像力が欠如した人たちの手によって、力が握られているのが事実です。でなければ、「メイドさんが雇えるような枠組みをつくる必要がある」と言えるはずがありません。これも朝日新聞で読んだのですが、1月20日付け朝刊に作家・大江健三郎さんのエッセーが載っていました。大江さんは今の社会状況を憂慮しながら、次のような言葉で文章を結んでいます。「『閉塞』は『とじふさぐこと。とざされふさがること』です。強権が社会を閉ざす。若者がふさがれた社会を見つめ打ち開く方向に出て行かず、自らを閉じれば、暴発よりほかにないと思い詰める不幸はさらに続くでしょう。」 重ね重ね思うのは、先日、先生がおっしゃった「メイドさんを使って自分がキャリアディベロップメントする社会を目指さな」いこと、このことがサステナブルな社会を築く上で必要だということです。

メイドさんの気持ちが分かりますか? (上)

2009-01-20 21:52:11 | Weblog
 先日、あるところである先生のお話を伺う機会がありました。お話のタイトルは「グローバリゼーションと日本社会の合理性」。そのお話の中で非常に印象に残ったのは、話の導きの糸として紹介された竹中平蔵さんのコメントと、それに対して先生が提示された疑問点でした。竹中さんは雑誌「フィナンシャルジャパン」(08年7月号)のインタビュー記事の中でこう述べているそうです。「日本も今後は、キャリアディベロップメントをしたいという人が増えるでしょう。そういう人たちはメイドさんに家事をしてほしいと思うはずです。しかし、今の日本では雇えません。そのための枠組みをつくる必要があります。」 この竹中発言について示された先生の疑問点は、次のようなものでした。「日本社会の合理性は、竹中さんが言うような道を選んでこなかったのではないか。つまりメイドさんを作らない、あるいはメイドさんを使って自分がキャリアディベロップメントをするような社会を目指さなかった。逆に、メイドさんのような職業や、その職業に就く女性たちを解放してきたのではないか。」 これを聞いた時、私の頭に浮かんだのは、「道徳形而上学原論」でカントが言った「人格は手段ではなく目的だ」という箇所でした。これを読んだ大学の頃以来、「目的とはそれ自体に価値があるように、人もその存在自体に価値がある」と思っています。それからすると、竹中さんの「キャリアディベロップメントのためにはメイドさんをつくる枠組みが必要だ」の立場は、自分の向上のためには人を踏み台にしても構わないと言っているようなもので、それは人を「目的」として扱うカントとは立場を異にするものだろうと思います。しかしながら、メイドさんと奴隷は一緒ではないし、職業形態のひとつであり、メイドさんだってれっきとしたサービス業ではないかとの反論があるかもしれません。でも、竹中さんが推進してきた路線がもたらしたものは、一旦メイドさんになったら最後、もうその人にはキャリアディベロップメントを目指す道は閉ざされてしまう、今の日本の格差社会の現状です。それは、連日新聞やテレビで報じられる派遣労働者に関するニュースを見れば明らかです。人にはそれぞれ能力の差があるだろうとか、努力している人は報われて当然じゃないかとか、競争が無ければ進歩も無いだろうとか、そういった声は充分承知した上で、でもあえて言うならば、そもそもキャリアディベロップメントが許されない人、あるいは澄ました言い方を止めてもっと平たく言うと、ものとして扱われている人、雑巾のような扱いを受けている人、そのような人たちが実際に存在していることを否定しない社会なんて、私には民主的な社会だと思えません。先生がおっしゃる「メイドさんを使って自分がキャリアディベロップメントする社会を目指さなかった」日本社会の合理性にこそ、私はサステナブルな(sustainable:持続可能な)日本の未来があるように思えてなりませんでした。

節酒

2009-01-14 21:04:12 | Weblog
 1月の3連休、ドライブをした先にショッピングセンターがありました。晩ごはんの食材を買って帰ることになり、そこに立ち寄りました。買い物カゴがあらかた商品で埋まった頃、ママから「おのおの好きな物を300円まで買っていいよ」のお触れが出ました。子供はさっとお菓子コーナーへ飛んでいきました。私は「300円ならビールかな」と思い、お酒コーナーへ。そこで目に入ったのが、「円高還元セール」の札とその下に並んだワインと480円の値札でした。普通なら480円のワインには二の足を踏むところですが、何せ円高還元ときているので、本来は1000円くらいのワインかも、とスケベ心が出ました。行き帰りの運転に免じて300円からはみ出したことは大目に見てもらい、その480円のワインを買ってもらいました。家に帰って、コルクを抜いて、じゃなかった、スクリューキャップをギリギリと開けて飲んでみました。そしたら、舌の上に拡がった味は、紛れもなく480円のワインでした。頑張って飲みましたが、結局4分の1程残してしまい、料理酒にすることになりました。年末ジャンボと一緒で、淡い期待の後に残ったものは何もありませんでした。