花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

夜ピク

2006-09-30 00:58:25 | Book
 文庫本になったら読もうと思っていた「夜のピクニック」(恩田陸著・新潮文庫)を読んだ。「チューボーですよ!」風に言えば、「星2つ」といったところだった。星1つマイナスになった理由は、ちょうど「夜ピク」の中にどんぴしゃの箇所があったので、先ずそれを引用してみたい。主人公のひとり西脇融の友人、戸田忍が従兄弟に薦められた本を随分年月が経ってから読んだ時のことを融に語った言葉である。「うん。『しまった、タイミング外した』だよ。なんでこの本をもっと昔、小学校の時に読んでおかなかったんだろうって、ものすごく後悔した。」
 学生の頃、あるいは20代の頃、独り夜中に酒を飲んでいる時など、何かの拍子に過去の自分の失敗や失言、愚行などを思い出して、「わー、わー、わー」とか「ににんがし、にさんがろく、・・・」などと声をだして、頭の中にある恥ずかしい思いをかき消そうと無駄な努力をしたことがたびたびあった。しかし、野生の奔馬のように暴れまわることがあった過去の記憶、それがいつのまにか、おとなしく草を食むどんよりとした老馬になってしまった。今は、夜、掛け算九九を言いそうになることはない。思うに、夜中に掛け算九九をしていた頃に「夜のピクニック」を読んでいれば、心に残るものがもっと違っていたに違いない。高校の頃の思い出がまだ十分に熱を発していた間に読んでいたらなぁ、とやや惜しい思いがする。
 日々の生活の中で具体的な事柄に追われ続けているうちに、心の中のある部分が冷たくて固いものになったのか、または心の中の受容器(レセプター)の一部が摩滅したのかもしれない。そして、「文庫本になるまで待とう」と考える人間になったと思う。そして、その変化の間に星がひとつ流れていった。

‘on demand’化と象徴の貧困

2006-09-25 21:32:13 | Weblog
 先日のブログで引用した『「安楽」への全体主義』の続きの文章はこうなっている。「それに対して、ただ一つの効用のためにだけ使われる場合の物は、平ぺったい単一の相貌とたった一つの性質だけを私たちに示すに過ぎない。それは一切の包含性を欠いている。「使用価値」の極限の形が恐らくそこにあり、私たちはそれに対しては使いそして捨てる他ない。それと相互的な交渉をする余地はもはやない。完成された製品によって営まれる生活圏が経験を生まないのはその事に由来する。そうして、そういう単一の効用をもたらす「物」を手に入れた時、その事が私たちにもたらす感情は、或る種の「享受」の楽しみである。(中略)しかし、次々と使い捨てていく単一効用を「享受」する楽しみは、そういう自然な接続の内にあるものではない。事の性質から見て当然のことであるが、それはただ一回的な「享受」に過ぎない。次の瞬間にはまた別の一回的な「享受」がやって来るだけである。時間は分断されて何の継続も何の結実ももたらさない。かくて苦しみとも喜びとも結
合しない享受の楽しみは、空しい同一感情の分断された反復にしか過ぎない。その分断された反復が、激しく繰り返されればされる程空しさも又激しい空しさとなってますます平静な落着きから遠ざかっていく。」
 さて、随分長く引用してしまったが、最近この文章に似た文章を読んだので、懲りずにそちらも抜書きしてみたい。「工業大国の都市部に住む人々の大多数は、ますます耐え難くなる一方の状態で暮らしています。それらの人々の果たす仕事はますますやりがいのない、働く人にとって何の意味のないものとなっています。それは意義とはかけ離れたもので、彼らの仕事の目的はたいていは極めて俗悪なものです。労働によって得る収入で彼らは消費という行動を取り入れるのですが、それらの行動はますます規格統一されたもので、消費されたものは消費者にほとんど何の存在感ももたらさないため、そこから生じるのはつねに深まるばかりの底なしの欲求不満であり、その結果つねにもっと消費に熱中することになるのです。つまり募る一方の欲求不満は失墜そのものに加速度的に向かっている傾斜のようなもので、問題はしたがって、いつどこでそれが止まるのかを知ることなのです。「自分自身の自己生産」とは程遠い状態です。」 これは、ベルナール・スティグレール著「象徴の貧困」(新評論刊)からの引用である。スティグレールは、『「安楽」への全体主義』で言うところの成就の「喜び」から遠ざけられる現在の状況を、「象徴の貧困」と呼んでいる。ここでの象徴とは、私たちが作り出す「意味」のことを指しており、私たちは与えられたものを消費するだけの存在に過ぎないと危ぶみ、そんな時代状況に対して警鐘を鳴らしている。
 二人とも、思想的バックボーンが全然異なるにも関わらず、同じようなことを危惧し、文章を著している。このような発見をすることは、読書の楽しみのひとつであり、決して‘on demand’で得られるものではない。

‘on demand’化と「安楽」への全体主義

2006-09-23 22:28:37 | Weblog
 先日の「‘on demand’化と自分探し」のブログを打っていて、以前読んだ、ある文章のことを思い出した。その文章とは、「藤田省三著作集6 全体主義の時代経験」(みすず書房刊)に収められている『「安楽」への全体主義』である。その中に、‘on demand’的なお手軽欲求充足の対極の姿として、次のようなことが書いてある。「必要物の獲得とか課題や目標の達成とかのためには、もともと避けることの出来ない道筋があって、その道筋を歩む過程は、多少なりとも不快な事や苦しい事や痛い事などの試練を含んでいるものである。そしてそれら一定の不快・苦痛の試練を潜り抜けた時、すなわちその試練に耐え克服して道筋を歩み切った時、その時に獲得された物は、単なる物それ自体だけではなくて、成就の「喜び」を伴った物なのである。そうして物はその時十分な意味で私たちに関係する物として自覚される。すなわち相互的な交渉の相手として、経験を生む物となる。「大物主の神」とも呼ばれ、「物語り」とも称せられて来た、そういう「物」は、明らかに唯の単一な物品それ自体ではなくて、様々な相貌と幾つもの質を持って私たちの精神に動きを与える物なのであった。そして成就の「喜び」はそうした精神の働きの一つの極致であった。」 藤田さんの言を私なりに敷衍すれば、‘on demand’化とは成就の「喜び」の放棄であり、「自分探し」とは「経験」の無さを穴埋めするための悪あがき、となるのかもしれない。

‘on demand’化と自分探し

2006-09-17 22:44:55 | Weblog
 9/15付け朝日新聞夕刊の連載小説「悪人」(吉田修一)に次のような文章があった。ドライブをしている男女の男の方が、助手席に座る女性について心の中で語る言葉である。「本当の自分は・・・、本当の自分は・・・、というのが口癖で、三年も働けば、思い描いていた本当の自分が、実は本当の自分なんかじゃなかったことにやっと気がつく。(中略)、いつしか仲良しグループを作っては、誰かの悪口。自分では気づいていないが、仲間だけで身を寄せ合って、気に入らない誰かの悪口を言っているその姿は、中学、高校、短大と、ずっと過ごしてきた自分の姿とまるで同じ。」 今とは違う自分が本当の自分と思い続けても、結局、いつになっても自分の中身は薄っぺらいままで何も変わっていない、となかなか手厳しい言葉だ。小説の話は一先ず離れて、今とは違う本当の自分を追い求める、所謂「自分探し」について考えてみたい。先日のブログで、欲求をお手軽に満たしてくれる‘on demand’化に慣れきってしまうと、内なる要求の実現を図るよりも、だんだん、自分の好みに合ったものを見つけることが自己実現であると思うようになる、と述べた。「自分探し」は、この‘on demand’化と関係があるように思う。‘on demand’化では、欲求の実現に向かうプロセスよりも、手っ取り早くもたらされる結果が重視される。(と言うよりも、結果のみに執着する傾向が、‘on demand’化の推進力である) おそらく、自分が何者かを知るのに大切なことは、‘on demand’化で困難になった自分との対話であろう。自分の望む目的のために試行錯誤しながら、ある時は自分の力量を図りつつ、またある時は自分に足りない部分を補う努力をしつつ、そして時には目標の再設定を自分に言い聞かせたり、そんな自己との対話を通じて、ひとは己の姿を見極めていくのであろう。ところが、プロセスを軽視する‘on demand’化のもとでは、自己との対話はとりづらく、等身大の自分が見えにくくなってしまう。また、‘on demand’化した状況では、消費者が主役である。ややもすると、自分を見つめることをしないまま、夢のような明日がいつか来る、と思い込まされかねない。ひょっとすると、「自分探し」自体が、‘on demand’の受け皿となる新たな役作りのひとつなのかもしれない。小説の展開とは全く違ったところで、そんなことを考えてしまった。

‘On demand’化と昇華

2006-09-11 23:23:00 | Weblog
 高校の頃、防衛機制について習った憶えがある。「酸っぱい葡萄」で有名な「合理化」は防衛機制として良く知られているが、「昇華」も防衛機制のひとつに含まれている。「昇華」とは、例えば失恋した人が芸術やスポーツに専心するといった、満たされない思いを次元の高い活動の中で解消していくこころの働きである。ところで最近、この「昇華」が防衛機制として働きにくくなるような環境の変化が進行しているように思う。ここで言う環境の変化をはやり言葉を使って表せば、‘on demand’化の進行と言えるかもしれない。ひとそれぞれの欲求に応じて個別に商品やサービスを提供することを‘on demand’と呼んでいるが、この‘on demand’化が進めば進むほど、「昇華」、もっと言えば、自己の内面的価値の実現が難しくなるのではないかと思う。‘on demand’化にどっぷり浸かっていると、自分の欲求の実現は商品やサービスの消費といった形態をとることになり、どんなに‘on demand’(あなたの要求のままに)と言っても、結局商業ベースに乗ったものしか選択肢として与えられない。そして、内なる要求の実現を図るよりも、だんだん、自分の好みに合ったものを見つけることが自己実現であると思うようになる。おのれの頭脳と肉体で何かを生み出そうという姿勢からは遠く隔たり、知らず知らずのうちに「自己実現=消費」の構図の中で飼い慣らされてしまうことになる。さらに、「自己実現=消費」の構図における欲求の実現の可否は、経済力に左右されることになる。そうなると、自分の欲求が満たされない場合、自己実現を阻む要因は経済的な理由に還元され、自分の内面を見つめる契機を失うことになる。結果として、「お金さえあれば」との思いのみ残り、代償行為として芸術やスポーツに打ち込む方向へ意欲を振り向けることにはなりにくい。