花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

おもしろき こともなき世を

2007-08-28 22:55:23 | Weblog
 昨日の朝日新聞朝刊の投書欄に、「口答えせずに、息子よ勉強を」と題した投書が掲載されていました。投書の主は山口市のお母さんです。口答えばかりしてなかなか勉強しない子供に対して、このお母さんは次のように訴えかけています。「結局勉強が嫌いなんだよね。でも、母だって嫌なことを毎日やっているんだぞ。本当は家事なんて好きじゃない。でもアレルギーが心配だから掃除はする。汚い服を着せていてはかわいそうだから洗濯もする。育ち盛りにバランスを考えた食事は欠かせないから炊事もする。だからといってそれが生きがいなんてあり得ない。それでも世の中は好きな物事ばかりで占められているわけではないことは知っている。好きなことはもちろんしたいが嫌いなことだってしなきゃいけない時もある。大人だっていろいろ悩んでいるんだぞ。毎日根を詰めてやれとは言わない。母だって手を抜くこともある。そんな母の子だ、無理は言わない。だから君たち、そこそこには勉強しなさい。」
 私はこれを読んである小説を思い出しました。森鴎外の「カズイスチカ」です。この中に鴎外自身がモデルと思われる主人公が、父に対する思いを述べる箇所があります。「初めは父がつまらない、内容の無い生活をしている」と思っていた主人公だが、ある時熊沢蕃山が「志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである」と書いているのを読んで、父への見方を変えるようになります。「父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の re'signation(諦念)の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながら見えて来た。そしてその時から遽に父を尊敬する念を生じた」、と思うようになります。
 投書のお母さんに、「口答えをしていても、きっとお母さんの背中を見てるって」、そう声を掛けたいです。

藪山

2007-08-15 22:57:38 | 季節/自然
 冷房の効いた部屋からベランダへ出ようとして窓を開けたら、熱波とともに蝉時雨が飛び込んできました。よくもまぁ、こんな暑い中休みなく鳴き続けられるものだと感心しながらも、もし自分が蝉に生まれてきたらきっと喫茶店か何かの観葉植物にとまって表には出ないだろうなぁ、と変な想像をしてみました。変な想像のしついでに、この暑さの中御免蒙りたいことを思い浮かべてみました。時節柄ということで挙げてみるなら、甲子園の審判でしょうか。選手は表裏でベンチに帰れますが審判はずっと立ちっ放しです。昨日の佐賀北-宇治山田商戦のように延長15回の試合に当たったら、身体の中の水分が全部入れ替わるくらい汗をかくかもしれません。また、引越しとかディズニーランドでミッキーの被り物を被るなんてのも無理でしょう。暑さ嫌いの私には、引越し屋さんや遊園地のアトラクション係りなどは絶対務まらないと思います。
 そんなくだらないことを考えていた時、たまたま思い出したのが川崎精雄著の「雪山・藪山」(中公文庫)です。川崎さんの本によると、冬にあえて寒くて大変な雪山へ行くことの夏ヴァージョンは、暑い夏にあえて大変な藪こぎをすることだそうです。確かに、夏の低山の藪こぎなんて考えただけでも嫌になりますが、雪山と藪こぎを同列に扱ってよいものかどうかは疑問です。雪山は大変ですし危なくもありますが、困難を上回る神々しい山の姿があります。腰までもぐるような雪の中ラッセルをするのは相当しんどいものです。氷点下、汗だくになるまでラッセルしてふと振り返ると、たった数十メートルしか進んでいなくて、がくっとなり立ち尽くしていると、汗が急速に冷え全身が凍りつきそうになります。「八甲田山死の彷徨」の神田大尉になっちゃうよぉ、とゼーゼー喘ぎながら必死でラッセルをし続けることになります。でも、白銀の凍てつく孤絶感が全てを償ってくれます。そして、雪山で見る空の青さは天上的なものを感じさせてくれます。
 ところが、藪を漕いだ後にそのような感覚を経験しそうにありません。昔、四国の山でもの凄い竹薮を何時間も漕いだことがあります。竹が身体のあちこちに突き刺さりプチ・ゴルゴダの丘になってしまい、Tシャツのところどころに血がにじんでいました。隙間なく生い茂った竹薮で、腰を下ろすスペースもなく、ひたすら藪を漕ぐしかありませんでした。四国のその山自体は山頂からの眺めをはじめとっても素晴らしい山でしたが、その素晴らしさは藪を漕がなくても味わえる素晴らしさだったと思います。やっぱり、川崎さんの説はちょっと無理があるんじゃないかと思います。それはさて置いて、うだるような暑さで脳が揮発してしまったのか、蝉時雨からいつの間にかとりとめもなく藪山の話になってしまいました。
 余談になりますが、雪山・藪山カウンターパート論には異議がありますが、川崎さんの本に収められたそれぞれの文章は、渋い山行が綴ってあって面白いです。川崎さん自身は、アルプスのような華やかなエリアではなく、会津や尾瀬あたりの山をスキーでよく歩いた方のようです。

粗粒子

2007-08-10 23:24:30 | Weblog
 今日の朝日新聞夕刊一面の素粒子は、夏休みの読書の課題図書を模したものでした。曰く。
●『暗夜行路』 選挙の歴史的惨敗にもめげず居座りを図るが、党内批判の収まらぬ安倍首相に。
●『罪と罰』 「どうしてこうなったのか」などと言い、処分の弁明会見すらできない朝青龍に。
●『何をなすべきか』 更迭に際して、首相からも「あなたは若い。一から出直したらどうか」と言われたという赤城前農水相に。
 屋上屋を架して、わたくしも一冊。
●『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著 岩波文庫) 見苦しい人たちを見て、さぁ私たち自身はどうすべきなのでしょうか。自分に甘く、人に厳しい、そしてゴシップ的見方が好きで、でも忘れっぽい方々に。
 <人をそしる心をすて豆の皮むく> 尾崎放哉

しばし馬鹿になる

2007-08-01 23:01:52 | Weblog
 「たまには馬鹿になんなきゃ。さっ、飲んで、飲んで。」若い頃酒の席でよく言われたものです。酒の席での馬鹿はあまり歓迎できませんが、稚気という意味の馬鹿になることはたまには必要かもしれません。昨日、仕事が6時過ぎに終わったので、まだ観ていなかった「ダイハード4.0」を観ました。シリーズを重ねるごとに映像の迫力はエスカレートしています。どうやって撮ったんだろうと、感心させられます。また、なかなか死なない(die hard)というより、絶対死なないマクレーン刑事も相変わらずの肉体派で、話の筋立ては基本的に一緒です。話の設定や展開は無茶苦茶ですが、映像の凄さに一気に押し流されてしまいます。昨晩も、「あり得ねぇ」とか「そんなに街中を壊しちゃっていいのかぁ」などと思いながらも、約2時間半があっという間に過ぎていきました。脳に麻薬を注入されたかの如く、どっぷりお子さまの世界にトリップできました。おそらく、精神年齢的には中学生くらいまで戻ってたんじゃないでしょうか(中学生には失礼かも)。二日酔いの心配も無いし、人に迷惑を掛けるわけでもないので、酒席と違って映画で馬鹿になるのは害が無くていいなぁと思います。ところでこの日、バーチャルな世界ですっかり馬鹿になった後、流れるエンドロールの一番最後で「字幕 戸田奈津子」を見た時、何だかとてもリアルな感覚を覚え、こっち側の世界にぐっと引き戻されたように感じました。