花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

糸瓜忌

2007-09-19 21:28:03 | Weblog
 今日は正岡子規の命日にあたる糸瓜忌です。子規の短い人生の後半部分は、必敗確実な中での退却戦でした。当時、不治の病であった結核を病み、晩年は背中に開いた穴から膿が沁みだし、寝返りすら打てず、激痛に身体を締め上げられる日々を送っていました。そんな夢も希望もないような状態にありながら、子規は筆を執り続けました。その子規が「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」らの絶句を詠む前年、次のような文章を綴っています。「人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇はこれを救ひとやいふらん。」(「墨汁一滴」)
 この文章を読んだ時、「子規ってしぶといなぁ」と思いました。私なら肺を冒され大喀血した時点で、「希望の零となる時期」になってしまいます。それが、子規の場合はどうでしょう。「希望の縮小はなおここに止まらず」とも、最後の最後まで「希望の零」となることはありませんでした。自棄のやんぱちになってぶん投げてしまうのではなく、現実から目をそらさず、自分に出来ることは何なのかを見定めようとする姿勢に、子規の精神性の高さを見ます。
 子規が残した随筆、「仰臥漫録」に大好きな箇所があり、そこにはこう書かれています。「理が分かればあきらめつき可申美が分かれば楽み出来申候」 これまた、子規のしぶとさを表している言葉だと思います。あるいは、しぶとさの原点と言っても良いかもしれません。この言葉とともに、及ばずながら、私もしぶとく生きようっと。

おぼつちやま

2007-09-12 22:57:14 | Weblog
 今朝、朝日新聞の天声人語を読んでいたら、世の中が変わるにつれて慣用句の基となっている事象の姿も変わり、その慣用句に誤用がみられるようになった例が紹介してあった。文化庁の国語世論調査によると、「そうは問屋が許さない(卸さないが○)」は24%、「出る釘(杭が○)は打たれる」は19%の人が使っているとか。流通革命で問屋の立場が弱くなったり、最近では杭を打つところを見かけないなど、世の移り変わりを反映しての誤用だそうだ。
 でも、言葉の誤用は世の中の変化だけが原因でもなさそうである。今日、辞任を表明した安倍首相が良い例だ。使う人の資質のよっても、言葉は生きたり死んだりする。記者会見に臨んだ安倍首相の弁を夕刊で読んで、そう思った。「全力を尽くして、職を賭していく」の「全力を尽くす」とは党首会談を申込む程度のことであり、「職を賭していく」とは会談を断れたことくらいでくじけてしまうことを言うのか。また、「テロとの戦いはきわめて重要であり、私の約束であり、国際公約であります。それをはたしていく上では、そこで私が職を辞すことで、局面を転換する方がむしろよいだろうと判断しました」とおっしゃるが、誰か他の人に後始末を押しつけるのって、それは約束をはたすとは言わないんじゃないか。
 佐賀県出身の元厚生官僚で内閣官房副長官を8年半も務めた古川貞二郎氏の著書「霞が関半生記」(佐賀新聞社刊)で、氏が次のように述べている箇所がある。「日本で一番重要と思うことは?」との問いに対する答えである。「『権限と権利が乖離している。その結果、言葉が軽くなっているのが一番の問題』と日ごろの考えを述べた。自分が深く心に思い、努力しようという気持ちもなしに、その場に合わせて発言する言葉は軽いということだ。」安倍首相の言葉は何も心に響かないばかりか、「そんな言い方ってあるのか」と後味の悪い違和感が残るが、古川氏の言葉は胸の奥まですぅーっと染み込んでいく。

勝敗の分かれ目は・・・

2007-09-11 01:15:00 | Sports
 7/6のブログでこう書いた。「阪神タイガースは4安打の貧打でスワローズに連敗、借金7の4位に低迷している。でも最近、タイガースの試合を結構楽しんでいる。決して、マゾとか同類相憐れむとかじゃなくて、新顔の選手が続々と出てきているからだ。」 それがどうだろう。2ヶ月かそこらの間に、今や貯金15、週末にはジャイアンツを3タテにして首位に立った。ジャイアンツとの3連戦はすべて1点差、きわどい勝利だった。7本もホームランを打たれた初戦、体調不良でウィリアムスを欠いた第2戦、そして押し気味にゲームを進めながらもなかなか突き放せなかった3戦目、いずれも勝敗の行方は紙一重の差で、3連勝が3連敗になっていたかもしれなかった。しかし、そうはならなかった。思うに、勝利の女神の軍配を分けたのは、両チームの伸びしろの差ではなかったか。この2ヶ月間、どんどん力をつけてきたチームと、開幕から強かった、けれども伸びしろを持っていなかったチーム、その差のような気がする。また言い換えれば、伸びしろがあるということは、裏を返せば盤石の布陣ではないということ。つまり、レギュラー獲りに日々しのぎ削っていて、その毎日の競争の中で培われる気迫、その微妙な気迫の有り無しの差が出たとも言えよう。そういえば、今年の夏の甲子園では、下馬評の高くなかった、それこそ一回戦で負けても誰も驚かなかったであろう佐賀北高が、一戦ごとにたくましさを増し、強豪校たちからきわどく勝ちを拾って最後には頂点に立った。佐賀北高にちなんで言うなら、今年の阪神は「がばい」強くなっている。そして、金土日と「がばい」ビールが美味かった。