花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

縄文展

2018-07-29 17:50:35 | Weblog
 写真家・土門拳はハート型土偶について、次のように語っています。「この土偶を見た人は誰しもピカソの彫刻みたいだという。十分に近代的であるばかりでなく呪文的な縄文土偶にしてはめずらしく明るくあどけない表情をもっているからであろう。縄文時代中期から後期へかけての制作とすれば、今からほぼ四千年前になる。四千年前のわれわれの先祖の造形が、現代の前衛的芸術家ピカソの作品に似ているとは愉快ではないか。」(「強く美しいもの」小学館文庫所収)
 先日、上野の東京国立博物館へ出掛け家族そろって「縄文展」を見て来ました。私はハート型土偶を見た時、岡本太郎さんの「太陽の塔」みたいだと思いました。前衛的芸術家に似ているという点では、土門さんと同じ感想を持った訳です(縄文展の最後のパートは縄文文化から影響を受けた芸術家でしたが、柳宗悦さんらと並んで岡本太郎さんも紹介されていました)。縄文展では土器もたくさん展示されていました。教科書でおなじみの縄目のある土器のほか、取っ手の付いたもの、急須状のもの、漆を塗ったものなどなど、私たちが今使っている器の種類のうちかなりのものが縄文期に出そろっていたことにびっくりしました。土という素材を生かすことに掛けては、縄文人が相当の高みにまで到達していたことに、驚くとともに何だか親近感を覚えました。
 10日ほど前、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産推薦候補にノミネートされましたが、見事世界文化遺産に認定され、世界各地の多くの人々が縄文時代の文化に触れ、どのような感想を抱くのか興味がわいてきました。

■縄文展HP → http://jomon-kodo.jp

滝行

2018-07-24 21:46:33 | Weblog
 ここしばらく、ニュース番組は「どこそこの気温は・・・」などの今日の暑さで始まっています。23日は埼玉県熊谷市で41.1℃を記録し、国内の観測史上における最高気温を更新しました。こう暑くては滝行など涼しげで良いのではないかと思ったりしますが、そんな不真面目な料簡では天罰が下りそうです。滝行とは、一心不乱に滝の水に打たれることで心の迷いから離れ、精神を統一しながら水と一体となり、自分の不浄なものを流し去ってしまうものではないかと思います。そもそもが神聖なる清めの行で、涼を求めるがごとき行為ではありません。
 さて、「滝」の字をよくよく見ると、サンズイに「竜」です。恐ろしげな「竜」を、私たちに身近な「酉」(トリ)に置き換えると「酒」になります。「滝」と「酒」では随分とおもむきが変わります。ここでふと、滝行があれば酒行があってもいいんじゃないかと思ってみました。酒行なら縁なき衆生でも出来そうです。酒を飲んで心の迷いを忘れ、意識が朦朧となることで酒と一体となり、不浄なものを流す(人によっては戻す)という訳です。ただし、滝行と酒行で大きく異なる点は、酒行においては行の後、慙愧に堪えない思いをすることがままあるということです。都合よく考えれば、その反省を糧とすることも、また修行かもしれません。
 決して酷暑で頭がぼーっとしたのでもなく、多分普段からそうなのでしょうが、実にくだらないことを考えてしまいます。出張帰りの新幹線でワンカップを飲んで、仕事の疲れも憂さもすっかり晴れたものでした。

流行っていない立ち食い蕎麦屋

2018-07-14 13:11:00 | Weblog
 立ち食い蕎麦屋と聞けば、駅構内や駅近くにあるものを思い浮かべがちですが、私が気になっていた立ち食い蕎麦屋は駅から遠く、大きな通りにも面しておらず、つまり人通りの少ない場所にあります。開け放された窓からもぁっと湯気が流れ出し、今のような夏、不快指数が高い日などは、前を通るとさらに暑苦しさを感じて、中へ入る気など一向に起きません。通り過ぎながら視線を投げると、いつも店内はがらがらで、こんなに流行ってなくて大丈夫だろうかと、気にはなっていました。
 ある日、お昼を食べに外へ出た時、何の気まぐれか、いつものようにがらがらのお店へ入ってみました。おばあさんがカウンターの中にいて、おじいさんは小さなお椀でお蕎麦を食べていました。店内のテレビでは「科捜研の女」の再放送が流れていたので、お昼と言っても遅いお昼です。老夫婦が交代でお昼ご飯を食べていたのかもしれません。「かき揚げ蕎麦をください」と言うと、おばあさんは「自動券売機の上から3段目の左端のボタンを押してください」と丁寧に教えてくれました。2~3分待って出てきたお蕎麦は、麺はゆるゆる、おつゆは中途半端な温度で、「これじゃ流行らない訳だ」と思いました。値段も430円で駅のお蕎麦屋と大差なく、価格でも勝負出来ません。
 食べ終わり、「ああ、やっぱり」と思いつつ「ご馳走さま」と言ってお店を出ようとしたら、老夫婦揃っての「どうもありがとうございました。またどうぞ」の声には、心がこもっていることがしっかりと感じ取れました。その時、お蕎麦は美味しくないけれども、別に手を抜いているとか、いい加減にやってるのではなく、年老いて若い頃のようには出来なくなっているだけだろうと思いました。老齢になって腕は落ちても、客に対する気持は変わっていないと好意的に受け取ってみたくなりました。味を求めてではなく、心を求めて、湯気の立ち込めるお店へまた足を運ぶ日がありそうです。