花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

風立ちぬ

2013-09-24 21:07:35 | Weblog
 9月、第1回目の3連休初日、家族で日比谷のスカラ座へ宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観に行きました。観ていて思ったのは、良く言えば「スクリーンの透明感」、悪く言えば「迫ってくるもののなさ」でした。「千と千尋」などとは違って実在の人物がモデルなだけに、虚構性ゆえのキャラクターの存在感みたいなものが薄かったのかと思いました。また、これは思い過ごしかもしれませんが、宮崎監督は最後の作品で自分が描きたかったシーンにこだわったのではないかとも思いました。ストーリー展開よりも、スクリーンに映し出される映像の美しさを追求したように感じました。それが、この作品の叙情性であり、透明感につながっているような気がしました。
 さて、9/21付朝日新聞夕刊に「風立ちぬ」の主人公のモデルである堀越二郎さんとゼロ戦の開発にまつわる記事が出ていました。その中で、作家・森史朗さんが語っている「ゼロ戦がなければ、海軍は日米開戦に二の足を踏んだかもしれません」の言葉は、「そういうこともあるのか」と重いものを感じました。少なくとも初期におけるゼロ戦の活躍がなければ、アメリカとの戦力差ともっと早く向き合わざるを得なかったでしょう。優れた戦闘機を持ったことが、皮肉にも多くの犠牲者を出すことになったのかもしれません。また、9/24付の同じく朝日新聞夕刊では、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーへのインタビュー記事が掲載されています。「風立ちぬ」の反戦メッセージについて宮崎監督と話したことを鈴木さんは、次のように語っています。「国がある方向へ向かっている時、人はその流れに身を任せながら、目の前のことに対処して生きていく。きっと今もそうでしょう。そんな人間の一人を描くことに意味があった。戦争反対を声高に叫ぶわけじゃない。でも反戦映画になっている。宮さんにそう言ったら、すごく喜んでいた。」そして、「人間は一体何をやってるんだ。生きるって何なんだ。そんなことを『風立ちぬ』は問いかける映画でもあるんです」と結んでいます。
 「風立ちぬ」の問いかけに対する模範解答は、おそらくないように思えます。しかし、問いかけることに意味がある、そんな問いなのかもしれません。もう一度、劇場に足を運んでみたくなりました。

批判的合理主義

2013-09-04 22:14:55 | Weblog
 昨日の朝日新聞夕刊に法哲学者・碧海純一さんの死亡記事が出ていました。7月18日に脳梗塞で亡くなられ、享年は89だったそうです。碧海さんの紹介として、『カール・ポパーやバートランド・ラッセルらの影響を受け、批判的合理主義を提唱した。著書に「法と社会」「合理主義の復権」「法哲学概論」など。』とありました。ここで紹介されている著書のうち、「法と社会」(中公新書)、「合理主義の復権」(木鐸社刊)を学生の頃に読みました。「法と社会」では、ロスコウ・パウンド取り上げながら法律の社会工学的な働きを説明する箇所に、法律のアクティブな面を知り、それまで法律学は訓詁の学と思っていた私は、蒙を啓かれた思いがしたのを思い出します。また「合理主義の復権」では、「酩酊しない」認識とは何たるかをバートランド・ラッセルやエルンスト・トーピチュの考えに則しながら説いてあり、私はマックス・ヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』と関連付けながら、認識におけるどのような態度が誤謬に陥りやすいかについて、非常に興味を持って読んだことを記憶しています。故人のご冥福を謹んでお祈りしたいと思います。

老境 おまけ

2013-09-01 14:18:11 | Book
 「山の音」の一場面です。主人公信吾の息子である修一が不倫相手の家でお酒を飲み、深夜、泥酔して帰ってきます。その物音で目覚めた信吾は、修一の妻菊子が酔った夫を介抱するのを寝床で聞きながら、次のような思いを持ちます。「夫婦というものはおたがいの悪行を果てしなく吸いこんでしまう、不気味な沼のようでもある。」 長く一緒に住んでいれば、多少のことには慣れてしまい、いちいち目くじらを立てるようなこともなくなってくると思うのですが、「果てしなく吸いこんでしまう、不気味な沼」と言われれば、潔癖症と言うか、観念的に過ぎる表現ではないかと思いました。