9月、第1回目の3連休初日、家族で日比谷のスカラ座へ宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観に行きました。観ていて思ったのは、良く言えば「スクリーンの透明感」、悪く言えば「迫ってくるもののなさ」でした。「千と千尋」などとは違って実在の人物がモデルなだけに、虚構性ゆえのキャラクターの存在感みたいなものが薄かったのかと思いました。また、これは思い過ごしかもしれませんが、宮崎監督は最後の作品で自分が描きたかったシーンにこだわったのではないかとも思いました。ストーリー展開よりも、スクリーンに映し出される映像の美しさを追求したように感じました。それが、この作品の叙情性であり、透明感につながっているような気がしました。
さて、9/21付朝日新聞夕刊に「風立ちぬ」の主人公のモデルである堀越二郎さんとゼロ戦の開発にまつわる記事が出ていました。その中で、作家・森史朗さんが語っている「ゼロ戦がなければ、海軍は日米開戦に二の足を踏んだかもしれません」の言葉は、「そういうこともあるのか」と重いものを感じました。少なくとも初期におけるゼロ戦の活躍がなければ、アメリカとの戦力差ともっと早く向き合わざるを得なかったでしょう。優れた戦闘機を持ったことが、皮肉にも多くの犠牲者を出すことになったのかもしれません。また、9/24付の同じく朝日新聞夕刊では、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーへのインタビュー記事が掲載されています。「風立ちぬ」の反戦メッセージについて宮崎監督と話したことを鈴木さんは、次のように語っています。「国がある方向へ向かっている時、人はその流れに身を任せながら、目の前のことに対処して生きていく。きっと今もそうでしょう。そんな人間の一人を描くことに意味があった。戦争反対を声高に叫ぶわけじゃない。でも反戦映画になっている。宮さんにそう言ったら、すごく喜んでいた。」そして、「人間は一体何をやってるんだ。生きるって何なんだ。そんなことを『風立ちぬ』は問いかける映画でもあるんです」と結んでいます。
「風立ちぬ」の問いかけに対する模範解答は、おそらくないように思えます。しかし、問いかけることに意味がある、そんな問いなのかもしれません。もう一度、劇場に足を運んでみたくなりました。
さて、9/21付朝日新聞夕刊に「風立ちぬ」の主人公のモデルである堀越二郎さんとゼロ戦の開発にまつわる記事が出ていました。その中で、作家・森史朗さんが語っている「ゼロ戦がなければ、海軍は日米開戦に二の足を踏んだかもしれません」の言葉は、「そういうこともあるのか」と重いものを感じました。少なくとも初期におけるゼロ戦の活躍がなければ、アメリカとの戦力差ともっと早く向き合わざるを得なかったでしょう。優れた戦闘機を持ったことが、皮肉にも多くの犠牲者を出すことになったのかもしれません。また、9/24付の同じく朝日新聞夕刊では、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーへのインタビュー記事が掲載されています。「風立ちぬ」の反戦メッセージについて宮崎監督と話したことを鈴木さんは、次のように語っています。「国がある方向へ向かっている時、人はその流れに身を任せながら、目の前のことに対処して生きていく。きっと今もそうでしょう。そんな人間の一人を描くことに意味があった。戦争反対を声高に叫ぶわけじゃない。でも反戦映画になっている。宮さんにそう言ったら、すごく喜んでいた。」そして、「人間は一体何をやってるんだ。生きるって何なんだ。そんなことを『風立ちぬ』は問いかける映画でもあるんです」と結んでいます。
「風立ちぬ」の問いかけに対する模範解答は、おそらくないように思えます。しかし、問いかけることに意味がある、そんな問いなのかもしれません。もう一度、劇場に足を運んでみたくなりました。