花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

大掃除

2012-12-31 19:41:37 | Weblog
 今年の年の瀬は特に忙しく、家族が寝静まってから帰宅する日が続いていました。そんなこともあり、大掃除はじめ新年を迎えるための準備に全く手をつけられないまま御用納めに至りました。そのため、29日から短期決戦であれやこれやをすることになりました。それでも、ママと子どもが少しずつ掃除などを進めてくれたおかげで、もっぱらパパの役割は力仕事系と年賀状作りのIT系でした。3日間は慌ただしく、あっという間に過ぎましたが、その甲斐あってだいぶこざっぱりした感じになりました。「年末年始の休みと言ったって、所詮6連休でしょ」と、単なる連休であるに過ぎないと強調する向きは、日頃から家中をピカピカにしている勤勉家か、ただの怠け心のどっちかでしょう。私はお正月を迎えるためにせわしなく過ごす数日は、家族がひとつのことに手分けしてあたる良い機会だと思います。それぞれが忙しくしているが故に、普段はバラバラになりがちなのが、ここでは忙しさの故に心がひとつになります。冷たい中、窓ふきをしている横で子どもが雑巾を絞ったり、バッグから買い出した荷物を出したのを、ママが冷蔵庫にどう入れようかと思案顔しているのも、ある意味平和な光景だと思います。

 煤落ちて 憂き晴れるほど 喜ばし

主権者の役目

2012-12-17 23:29:04 | Weblog
 選挙の結果が出ることを「国民の審判が下る」と言うことがあります。野田総理の民主党代表辞任の挨拶でも、「国民の審判を厳粛に受け止める」と言っていました。ところで、私はここで言う審判は結審ではないと思っています。ここが終わりではなく、ここから新しい政治が始まるからです。選挙を経て国民から権限の預託を得た議員が国民に訴えた政策の実現に向けて頑張るのは当然ですが、一方で私たちは預託に応えた働きをしているかチェックしていかなければなりません。またそれと同時に、自分らが正しい選択をしたかどうかも検証しなければなりません。選んだ政党や議員が思わしい成果を上げられない時、ややもすると、「どこの誰それには失望した」とか「せっかく期待したのに」と口にすることがあります。しかし、それは自分に見る目がなかったことをも意味しています。人の振り見て我が振り直せではありませんが、政治家をウォッチすると共に、自身の政治を見る目を鍛える必要があるでしょう。生きている限り、政治と無縁ではいられません。選挙は何度も何度もやってきます。今日から次の選挙に向けての準備が始まるとすれば、永遠に結審の来ない裁判に付き合っていくことになります。国民の一人一人が倦まず弛まず、政治家そして自らをチェックしていくことは、政治家一人一人に倦まず弛まず働いてもらうことにつながると思います。主権者の大切な役目を、私は厳粛に受け止めたいと思います。

嵐のチケットを譲ってください

2012-12-16 17:06:00 | Weblog
 師走の雨の土曜日、東京ドームを歩いていたら後楽園駅と水道橋駅に近いあたりに、「嵐のチケットを譲ってください」と書いた紙を持った少女が、そこここに立っていました。東京ドームとラクーアを結ぶ陸橋付近に少女たちの長い列が出来ていることからすると、この日はドームで嵐のコンサートがあるのでしょう。チケットを入手出来ず紙を持って立っている人たちを見て気づいたのは、だいたいが一人ぼっちだということでした。ファン仲間のネットワークがなく、情報収集力もなくて、チケット発売の際に出遅れたものと思われます。折しも、街頭では選挙カーから道行く人々への呼びかけが喧しく聞こえてきます。それとは対照的に、雨の中、弱々しいまなざしでじっと黙ってたたずむ少女たちの姿は印象的でした。ネットワークからはみ出し、情報を集める力もなければ、弱者の常として頼るは忍耐力しかないのかもしれません。ダフ屋から割高のチケットを買えた人はまだしも、ドームの外で寒さをこらえながら、中から響いてくる音楽や歓声を聞くことで我慢しなければならない人にとっては、つらい週末だったことでしょう。

国防軍は何を守るのでしょうか

2012-12-06 01:32:28 | Weblog
 「憲法を改正して自衛隊を国防軍に」と言われると、戸惑いを覚えます。何となく「国防軍」からは「地球防衛軍」が連想され、「地球防衛軍」からは「侵略」が連想されます。そこで、「果たして日本に誰が侵略してくるのだろう」と思ってしまいます。遠い遠い将来はさておき、ここ10年、20年の間に、日本国民が普通に生活している土地で、どこかよその国から攻めてきた兵隊たちの軍靴の音が響くなんて、どうしても想像出来ません。秋田県でも愛媛県でもどこでも良いですが、一般の人が生活している場所に侵略してくる者がいるとは思えませんし、そんなことをしても何の得もないと思います。では誰も攻めてこないとなると、国防軍が活躍する場所はどこでしょうか。それは、今で言えば尖閣諸島や竹島のように領有権を他国と争っている地帯であり、昔なら満州のように日本が海を越え、出張って行って自分のものにした地域でしょう。自分たちの住む町が攻められたら国防軍に守ってもらいたいと思いますが、率直なところ、「人も住んでいない島のために軍隊が必要かな」、と首をかしげざるを得ません。
 国家による暴力が「最後の理性」」(ultima ratio)と呼ばれると聞いたことがあります。どうやって問題を解決するかを考えに考え抜いて、いよいよ最後のところで訴えるのが暴力だという意味だったような気がします。それからすると、国防軍の登場はやけに早過ぎます。領有権の問題に臨むに当たって、国防軍より前に検討すべき対応策はいっぱいあるように思います。また、そもそも論として、国防軍の問題よりもっと優先度の高い政治的課題は、原発やら社会保障やら景気やら、いくらでもあるのではないでしょうか。「国防軍」に対する戸惑いを掘り下げていくと、「最後の理性」の「最後」の意味が変わって、「国家による暴力とは理性から最もかけ離れたものである」という意味に行き着きそうです。だって、経済力世界第2位の国と第3位の国が武力で問題を解決するなんて、理性的な判断ではあり得ない選択肢だからです。