花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

佐賀 (つづき)

2007-02-28 22:03:44 | Weblog
 今回の佐賀訪問で、佐賀の地に足の着いた実力を感じたことをもうひとつ。それは、武雄温泉にある旅館「扇屋」の料理です。知る人ぞ知るの宿だそうで、美味しい懐石料理に舌鼓を打つことが出来ました。そこはそれ、佐賀ですので、「どうだぁー」みたいな料理が出てくる訳ではもちろんありません(もっとも、懐石で「どうだぁー」もないでしょうが)。厳選された美味しい素材を使い、素材の持つ旨味を十二分に引き立てる味付け、そして料理を前にして背筋をぴしっと伸ばしたくなるような盛りつけと品のある器。目で楽しみ、歯ごたえを楽しみ、当然ながら舌で楽しむ料理の数々が、早過ぎもせず遅すぎもしない、絶妙のタイミングで出てきました。ひとつひとつの料理がそれだけでちゃんと存在感を示しながら、全体のバランスを崩すこともなく、ひと品食べ終わるたびにその余韻を味わいつつも、次への期待で急かれる思いが沸いてきます。海の幸山の幸と言いますが、扇屋の懐石料理を味わって、その日食べたそれぞれが、本当に海や山からの恵みという意味で幸であることが良くわかり、また、それらが本来持つ美味しさが料理人の味付けによってより鮮明に実感出来る、そんな味覚と出会えた幸を感じました。佐賀はいいところです。あなどれない、なかなかのところです。

佐賀

2007-02-26 21:28:20 | Weblog
 1月の数日間、九州の佐賀に滞在する機会を得ました。一般的に佐賀には地味なイメージがあるかと思います。また、「佐賀人の歩いた後には草も生えない」の言葉から、吝嗇である、せこいといった印象を受ける人もあるかもしれません。「佐賀人の歩いた後・・・」の言葉の本来の意味について、司馬遼太郎さんは次のように書いていたと記憶しています。曰く、「昔、山へ行って下草を刈り、それを田んぼや畑に敷き詰めて肥料としていたが、佐賀は一面の平野なので草を刈りに行く適当な山が近くにない。それで、道ばたに生えている草も大事な肥料として摘み取っては、田んぼに敷いていた。」 司馬さんは佐賀人に質朴な倹約家を見ており、そこには我利我利亡者の姿はなかったと思います。
 さて、佐賀に滞在して感じたのは、無理に背伸びしたりするのではなく、自分の背丈をわきまえ、普通のことを普通にする堅実さ、決して威勢が良いとは言えませんが、実直な人が多いお国柄と感じました。例えば、私が大好きな佐賀のお酒、東長(あずまちょう)と東一(あずまいち)。今回の滞在中、何度か東一を飲みました。九州と言えば先ず焼酎を思い浮かべますが、佐賀はなかなかの酒どころ。美味しいお米を作って、美味しい水で、手を抜かずにちゃんと造った日本酒が佐賀にはあります。おそらく、今まで流れては過ぎていった、焼酎、日本酒、ワインなどのいくつものブームに気を取られることもなく、美味しいお米と美味しい水、そして各工程で手間暇を省かず、美味しいお酒を造り続けてきたものと思います。駅近くの居酒屋で、メニューにはありませんでしたが、店員さんの「東一、ありますよ」の声に、にんまりとして一杯頼みました。「おいおい、テーブルにまでそんなにサービスしなくてもいいよ」と言いたくなるくらい、受け桝から溢れるほどの注ぎっぷり。のどをゴクゴクと鳴らすこと数回、早速おかわりをしました。利酒師の舌を持っている訳ではないので、分析的な味の表現はとても出来ませんが、どんな美味しさかと問われれば、「普通の美味しさ」、そして付け加えるなら「毎晩でもOKな飽きない普通の美味しさ」と答えたくなるようなお酒でした。こういったお酒造りにも、鬼面人を威すようなところに走らず、当たり前のことをきちんきちんとこなしていく、佐賀人の美質が表れていると思いました。(つづく)

スキー場1.3倍理論

2007-02-14 20:49:16 | Weblog
 先日のブログと若山牧水つながりで牧水の歌を一首。「旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女みながら美(よ)からぬはなし」
 「瞳痩する」なんて見慣れない言葉ですが、私の勝手な解釈では審美眼が鋭いことを指す「目が肥える」をもじって、逆に品定めが甘くなる意味で使っている言葉の遊びではないかと思っています。漂泊の歌人・牧水が長旅の中で人恋しくなり、通りすがりに目にする女性がみんなめんこく見えたこともあったのかなぁ、などとちょっとユーモラスな想像をしてしまう歌です。
 かつて、スキー場に人がどっと繰り出し、金曜の夜、関越に乗ろうとする車が環七に溢れ、そしてそれが環七につながる幾多の通りにまで及び、銀座で飲んで練馬へタクシーで帰るのに4時間も掛かったといった話が本当にあった頃、私もスキー場へ繁く通っていました。その頃、「スキー場1.3倍理論」について友達と話したことがあります。その理論とは、女性をスキー場で見ると街で見るより3割増くらい可愛く見える、というくだらない理論です。牧水のこの歌を見ると、なぜか「スキー場1.3倍理論」が思い出されます。「1本1缶」と言って、長めのコースを一本滑っては缶ビールを1本飲み、それを繰り返すうちにすっかり酔っ払ってコブ斜面で足の押さえがきかなくなり、地雷を踏んだスタントマンのように派手に吹っ飛んでいた頃の話です。おそらく、牧水のように人恋しくなったとかそういう訳で思いついた理論ではなかったと思います。ただ、単純に若かったのでしょう。

酒飲みの業

2007-02-13 22:00:06 | Weblog
 以下、若山牧水の「みなかみ紀行」(岩波文庫)から抜き書きを。「落葉木の影を踏んで、幸に迷ふことなく白根温泉のとりつきの一軒家になっている宿屋まで辿り着くことが出来た。此処もまた極めて原始的な湯であった。湧き溢れた湯槽には壁の破れから射す月の光が落ちていた。湯から出て、真赤な炭火の山盛りになった囲炉裡端に坐りながら、何はともあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、ないという。驚きあわてて何処か近くから買って来て貰えまいかと頼んだ。宿の子供が兄妹づれで飛び出したが、やがて空手で帰って来た。更に財布から幾粒かの銅貨銀貨をつまみ出して握らせながら、も一つ遠くの店まで走って貰った。心細く待ち焦れていると、急に鋭く屋根を打つ雨の音を聞いた。先程の月の光の浸み込んでいる頭に、この気まぐれな山の時雨がいかにも異様に、佗しく響いた。雨の音と、ツイ縁側のさきを流れている渓川の音とに耳を澄ましているところへぐしょ濡れになって十二と八歳の兄と妹とが帰って来た。そして兄はその濡れた羽織の蔭からさも手柄顔に大きな壜を取り出して私に渡した。」 群馬県の老神温泉から一日掛けて同じく群馬県の白根温泉まで歩いて、やっと草鞋の紐をほどいた宿での出来事です。私なぞは、牧水が一杯やりたくなる気持ちは十分(いや十分以上)分かるけれど、それでもぐしょ濡れになって酒を買いに行かされた子供が可哀想に思えてしまう。しかし、これが酒飲みの業なのか。そう言えば、夜中酒がなくなってみりんを飲んだ人を知っている。また、行楽地からの帰りの車中やはりお酒がなくなって、途中駅で停車している時に仲間を駅前の酒屋へ行かせて、その間電車が発車出来ないようにした人も知っている(結局、電車の発車を阻止した人は駅員に車中へ押し込まれ、酒を買って戻った人はただ茫然と立ちつくすことになったのだが)。かく言う私も、その昔、深夜お酒が尽きてしまい、当時はコンビニなどなく、アルコール類の自動販売機は0時から6時まで販売を中止していたので(多分条例か何かで)、6時が来るのを今か今かと待ちながら夜を明かしたこともあった。酒飲みの業、斯くありなん。ただ、自分で買いに行った私の方が牧水より、幾分業は浅いか。