花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

変わらない使命

2020-08-29 20:27:11 | Weblog
 昨日(8/28)の朝日新聞朝刊にJR東日本の広告が載っていました。広告のメッセージは次のようなものでした。

 日常が変わっても、私たちには変わらない使命があります。
 それはお客さまの思い出に残る旅をお手伝いすること。
 お客さまが日々の暮らしを快適に過ごすチカラになること。
 この新しい日常を少しでも安心して楽しむために。
 私たちは旅と暮らしの新しいカタチをつくっていきます。
 これからもお客さまとともに走り続ける、JR東日本グループです。

 コロナの影響を受けて休業を強いられたり、客足が減ったりして深刻な打撃を受けている会社やお店があります。そのような中、社会のインフラを担う鉄道会社は、生産調整が出来る製造業と違って活動規模の縮小もままならず、コストと売上のアンバランスに悩まされていることと思います。公的な支援があったとしても、そこで働く従業員の大きな精神的負担は大きいでしょう。この広告は頑張る社員に向けたエールではないかと思いました。

武器としての「資本論」

2020-08-17 22:29:31 | Book
 世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。そういう問題ではない。マルクスに立ち戻って言えば、スキルアップによって高まるのは労働力の使用価値の次元です。
 人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。
(中略)
 資本の側の包摂の攻勢に対して何も反撃しなければ、人間の基礎価値はどんどん下がってしまう。ネオリベラリズムが世界を席巻した過去数十年で進行したのは、まさにそれでした。人間の基礎的価値を切り下げ、資本に奉仕する能力によって人の価値を決めていく。そして「スキルがないんだから、君の賃金はこれだけね。これで価値どおりの等価交換ということで、文句ありませんね」と迫る。

 これは、思想史家で政治学者の白井聡さんの「武器としての『資本論』」(東洋経済新報社刊)の最後のまとめの箇所からの抜き書きです。剰余価値を生み出すため労働コストを切り下げようとする資本は、海外に安い労働力を求め、国内では非正規労働者を産み出しました。低い賃金でもそれを受けざるを得ない状況を作っておきながら、賃金が低いのはスキルが低いからというイデオロギーで労働者を飼い慣らそうとしているのではないか。それに対して、白井さんは「人間の思考・感性に至るまでの全存在の資本のもとへの実質的包摂」に警鐘を鳴らし、資本の欺瞞を暴く武器として資本論を読もうと言っています。そして、根源的な感性の部分から人間の尊厳を取り戻すことを訴え掛けています。それが先の引用の「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」につながっています。

 しかしながら、実際にギリギリの生活を強いられている人たちに「感性の部分から人間の尊厳を取り戻そう」と言うのは酷かもしれません。気持ちの上ではやせ我慢が出来ても、「腹が減っては戦は出来ない」の言葉があるようにひもじさは我慢できません。私はベーシックインカムの議論がもっと高まってくれることに期待しています。衣食足りてこそ頭の働きようも変わってくると思うのですが。

Go To キャンペーン

2020-08-10 10:11:18 | Weblog
 先日、よんどころない事情があり他県へ出掛けざるを得なくなりました。かなりの時間、高速道路で車を走らせたのですが、その間、ついぞ1台の観光バスも見掛けませんでした。観光業を支援するため政府は“Go To キャンペーン”を実施しています。目先のお得感で釣って感染リスクに人々をさらすこの政策に、「もっと他のやり方があるんじゃないか」と、ニュースで話題になるたび懐疑の目を向けていました。観光バスが走っていない道路を見て、世間がそれほどキャンペーンに踊らされていないことに安心すると同時に、アベノマスクと同様に「ムダ玉を打ったなぁ」の感が強まりました。全国規模でやるべきことと、予算を各地に落としてそれぞれの実情に合わせた使い方を考えることの、棲み分けが上手くいってないような気がします。