花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

もうすぐ新学期

2010-08-30 23:10:25 | Weblog
 今朝、朝日新聞朝刊で読者からの投稿欄を見ていたら、この時期ならではの投稿が載っていました。『夏休み最終日は「魔の一日」』のタイトルから想像できる通り、夏休みの宿題に関する苦い思い出が、その内容でした。新学期を目前にして、たくさんのやり残した宿題を片付けるのに悪戦苦闘した経験を持つ人は、私をはじめ、決して少なくないと思いますが、この投稿者もそうだったようです。曰く、『ハッと気付けば8月31日。夏休みが終わる日だ。宿題の大半は残ったまま。毎年のように、泣き泣き姉に助けを乞うた。(中略)遊びたくて尻がジリジリするが、この日ばかりはどうにもならない。まさに「魔の一日」だった』、とあります。さらには、『その魔の一日が私の誕生日。だが、誕生祝いどころではない』、との落ちまでついています。
 さて、我が家でも、子どもの宿題の仕上げが佳境を迎えています。この前の土日は、自由研究をまとめあげるようせかしましたが、ママが気を遣って、これまで少しずつ尻を叩いてきたのが良かったのか、日曜の午前中にはだいたいメドが立ちました。おかげで、「泣き泣き助けを乞う」こともなく、午後からはプールに出掛けることができました。毎年やってくる夏休みの自由研究。子どもを持つ家では、それぞれ大変なようで、会社の同僚と、「結構、大変なんだよね」と苦労話を交換することもあります。幸い、うちは概ね問題なく終わりそうですが、子どもには、宿題が終わった開放感に浸るだけでなく、願わくば、新しい知識が身についた時のワクワク感を味わってほしいと思います。宿題が片付いた後に、「やらされた感」が残ってないと良いのですが。

きょうは処暑、暑さが収まるころ

2010-08-23 22:27:01 | 季節/自然
 「きょうは二十四節気の処暑。暑さが収まる意味だが、夏の『炎帝』は暴君のうえ長逗留を決め込んでいる。」 今朝、郵便受けから新聞を取り出し、部屋へ戻りながら一面の天声人語に目を通していると、そう書いてありました。炎帝の長逗留さながら、暑さが収まる気配は一向になく、植物に水をやるためにベランダに出ると、むぅぅあっとした熱波に包まれて、「きょうも・・・」と思わせられる日が続いています。天声人語では、涼やかな言葉とか緑のカーテンなどに触れた後、「空調一辺倒で『消夏法』を死語にするのは勿体ない」と結んでいます。
 ところで、随分昔、司馬遼太郎の「花神」を読んだことがありますが、この主人公である村田蔵六(のちの大村益次郎・長州藩と明治政府の軍司令官)は消夏法など無用の人でした。「暑いですね」と挨拶する人に対して、「夏は暑いのが当たり前です」と、にべもなく答える人物として描かれています。「夏は暑いのが当たり前」と思っていれば、それは強いです。そういうものだと思えれば、暑さはもう気にならなくなるからです。私は学生の頃、炎天下でスポーツの練習をしている時、暑さが我慢できなくなり、ちょっと木陰で涼もうものなら、「暑いと思うから暑いんだ!」と、どやしつけられることがありました。暑いのに暑いと思うなと言うのは、無理がありますが、暑いのは当たり前と思うのは、理屈の上では無理がありません。でも、理屈の上で無理がなくても、身体からすれば当たり前では済まされはしません。秋が訪れるまで、空調やらプールやら水分補給やら梅肉エキスやら、何やかやに頼って、身体を案じつつ辛抱の日々です。また、懐具合や妻の目を気にしながら、プシッ、ゴクゴク、プハーと、ビールの日々です。
 「先日郊外を訪ねたら、薄の穂が伸び赤トンボが里を舞っていた。もうひと辛抱、だといいのだが」と、これまた天声人語にありましたが、私は死んだ油蝉が増えてくると、「そろそろ夏も終わりか」と思います。本当に、もうひと辛抱、だといいのですが。

朝顔の思い出

2010-08-11 20:39:26 | 季節/自然
 7月から我が家のベランダを彩ってきた朝顔も、さすがに立秋を過ぎると、花より種子の方が目に付くようになってきました。ところで、朝顔の季節になると思い出すことがあります。今年はうちの子どもが朝顔の観察を行なっていましたが、思い出すこととは、その昔、私自身が朝顔の観察記録をつけていた頃のことです。ある朝、私の父がまだ赤ちゃんだった弟におしっこをさせていました。それも、私の朝顔の鉢にです。「おしっこを掛けちゃ、ダメじゃないか」と言うと、父は、「赤ちゃんのおしっこはきれいだから大丈夫」と、そのまま、弟に用を足させました。その時は、「本当に赤ちゃんのおしっこは汚くないかも」と思いましたが、数日して朝顔は枯れてしまいました。そのため、夏休みの宿題である朝顔の観察記録は、後半の部分に創作を入れる羽目となりました。以来、朝顔の季節になると、赤ちゃんのおしっこが朝顔の根元にしーっと掛かっていた様子が思い出されます。今、子どもが妻の実家に遊びに行っているので、私が朝顔に水をあげています。私は、毎朝、水道の水を掛けています。

葬式で人間の本性を暴かれないために

2010-08-01 10:59:23 | Book
 7月のとある日、朝日新聞の読書面を読んだ妻が、宮部みゆきさんの書き下ろし長編小説「小暮写眞館」(講談社刊)を読んでみたいと言いました。そこで、翌日だか翌々日に、会社の帰りに本屋へ立ち寄ってみました。最初、私は読むつもりはありませんでしたが、本屋で手にした700頁の厚みと重みに、何かそそられるものがあり、にわかに心変わりして、読んでみることにしました。朝日新聞の書評で、日本のスティーブン・キングに例えられるだけあって、宮部さんの新作はぐいぐい読ませる力を持った作品でした。英語でいうところの、page-turner とはこのような小説のことを指しているのでしょう。
 さて、その「小暮写眞館」を読んでいて、私がドキッとした文章がありました。それは、残り頁がかなり少なくなった頃、主人公家族が葬儀における血縁者の不人情について語り合う箇所で、「葬式ってのは、故人の生き方にはまるで関係ない。残された人間の本性を暴く場なんだ」、という文章でした。このくだりを読んで、すぐに思い出したのは、夏目漱石の「こころ」の中で、「先生」と「私」が、「私」の父親の財産について話している場面でした。「お父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰っておくように」と勧める「先生」に対して、「私」は、兄弟、親類に「別に悪い人間というほどのものもいないようです」と答えますが、「先生」は、これまたドキッとするようなことを言って反論します。「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 私は、そういうものなのか、と思いました。稀代のストーリー・テラーである宮部さんの世界に入ると、リアリティが有り有りで、お話の中でのことでありながら、これが世の常なのだろうという気になってきます。さらには、文豪夏目漱石まで、そうおっしゃっているのであれば、なおさらです。でも、ドキッとした半面、何だか釈然としないものがありました。と言うのは、きちんとした家庭であれば、葬式でゴタゴタしたりはしないだろうと思うからです。あるいは、そう思いたいからです。仮に性悪説に立つとしても、本性の悪が悪い行動となって現われないようにするのが、家庭での躾ではないでしょうか。存在と当為という言葉がありますが、存在が当為に必ずしも勝るはずはありません。子供が、存在にズルズルと引きずられずに、当為に向けて自分を律する力を育めるよう、親はモデルを示す責務があります。葬式でゴタゴタもめるということは、第一番目の責任はもめる当事者にありますが、二番目の責任はそんな子供にした親にあるのじゃないかと思います。
 小説の本筋とは関係のないところで、そんなことを考えたりしたものの、ともあれ、繰り返しになりますが、「小暮写眞館」自体はとても面白い小説です。朝日新聞の書評を読んで、面白そうだと思った妻のアンテナは、なかなか感度良好だったと思います。