花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

駱駝祥子

2014-12-29 14:50:00 | Book
 開高健の短編小説「玉、砕ける」の中に、作者自身と思しき主人公と香港に住む中国人、張立人が中国を代表する作家の老舎について語る場面があります。張立人は老舎の作品では「四世同堂」よりも「駱駝祥子」が好きと言い、「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」を「駱駝祥子」の魅力に挙げています。「玉、砕ける」を読んで以来、「駱駝祥子」はずっと気になっていた一冊でしたが、長らく気になる一冊のままでありました。
 最近、近所の書店で岩波文庫の棚に「駱駝祥子」があるのが目に留まりました。その時は買いませんでしたが、岩波書店のホームページで絶版になっていると知り、あの「駱駝祥子」が売れてしまうともう入荷しないので、日を経ずして求めました。頁を繰ってみるや、張立人が言う「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」で人力車夫である祥子の姿が、彼を取り巻く登場人物諸氏とともに生き生きと描かれており、師走のひと時、読書の楽しさを味あわせてもらいました。
 祥子の生きざまを私なりに一言で言い表すなら、それは「七転び八起き」の人生であったろうかと思われます。しかし、「八起き」目はありませんでした。田舎から一旗揚げようと都会へ出て来たものの、苦労して手に入れた人力車を奪われる、爪に火を灯すようにして貯めたお金を取り上げられる、妻が出産の時に妻子とも死んでしまう、一緒に人生をやり直そうと思った女性は首を吊って死んでしまう、と転んでは起き、転んでは起きを繰り返す中、ついに祥子の心は折れてしまいます。そして、心が折れた祥子は次のような言葉を吐きます。「食わんがために稼ぎ、腹がくちくなれば寝るだけのこと、考えたり、望んだりしたところでいまさらなんになるものでもない。骨が見えるまでにやせこけた犬が焼芋売りのわきで芋の皮やしっぽをあさっているのを見て、ああ、おれはこの犬とおなじだ。芋の皮としっぽをあさるためだけに一日あくせくしているのだ、としみじみ思った。その日その日を生きてゆければいいので、それ以上、なにを思いわずらうことがあるものか」
 都会へ出て来た時、祥子は刻苦を厭わず、転んでも前向きな姿勢を失いませんでしたが、心が折れた後は、返すつもりもないのにお金を借り、「食い、飲み、女を買い、ばくちを打ち、怠け、ずるがしこくたちまわ」ります。しまいには、お金のために人を売り、売られた人は銃殺刑に処せられます。祥子がタバコの吸い差しが落ちていないか、懸命に地面を見つめるまでに落ちぶれるところでこの小説は終わります。もし、「駱駝祥子」に短い続編があったとするなら、それは芥川龍之介の「羅生門」ではないかという気がしました。

12月14日の日記(予定稿)

2014-12-12 21:54:48 | Weblog
 ここ2週間近くの間、「○○党の○○です」は朝8時の時報代わりだった。8時きっかりに窓の外から聞こえてきた。それも今日は聞こえてこない。今日が投票日だから。朝、家族揃って近くの小学校へ行き投票を済ます。部屋にいた時の温もりが冷めぬ間に小学校へ着き、受付で投票用紙をもらい、小選挙区、比例区、最高裁判事国民審査の投票をものの5分で終えて体育館を出た。その足でいつもの日曜同様にスーパーへ向かう。今日は家族忘年会なので食材を買い出しした。

幽霊、怖い

2014-12-06 11:24:13 | Weblog
 ある晩、子どもが心霊現象に関するTV番組を見ていました。「怖いけど見たい」、「見たいけど怖い」といった様子でTVに釘付けになっていました。その姿を見て思いました。幽霊を信じない人は心霊写真や映像を見ても、「トリックがあるのだろう」と一顧だにしないでしょう。サンタを信じない人がプレゼントをもらっても、「親か誰かが置いたに違いない」と思い、サンタがやって来たとは思わないのと一緒です。一方、幽霊を信じる人はどうでしょうか。サンタの例を使うなら、「やっぱりサンタはいたんだ」とプレゼントに喜ぶことはあっても、仰天する人はいないように思います。しかるに、幽霊の存在を信じているということは、写真や映像に幽霊が映っていても当たり前のこと、別に驚くほどのことでもないはずです。しかし、幽霊を信じると同時に怖いと思うのは、幽霊の祟りが怖いのだろうと思います。「幽霊はいるかも」と思っている人が心霊現象(と言われるもの)を見た場合は、「いた!」という驚きと、「祟りが怖い」が重なってより怖く感じるのかもしれません。そして、心霊現象の番組を見たがる「怖いもの見たさ」の心理は精神的なMの表れ、と言えば言いすぎでしょうか。