開高健の短編小説「玉、砕ける」の中に、作者自身と思しき主人公と香港に住む中国人、張立人が中国を代表する作家の老舎について語る場面があります。張立人は老舎の作品では「四世同堂」よりも「駱駝祥子」が好きと言い、「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」を「駱駝祥子」の魅力に挙げています。「玉、砕ける」を読んで以来、「駱駝祥子」はずっと気になっていた一冊でしたが、長らく気になる一冊のままでありました。
最近、近所の書店で岩波文庫の棚に「駱駝祥子」があるのが目に留まりました。その時は買いませんでしたが、岩波書店のホームページで絶版になっていると知り、あの「駱駝祥子」が売れてしまうともう入荷しないので、日を経ずして求めました。頁を繰ってみるや、張立人が言う「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」で人力車夫である祥子の姿が、彼を取り巻く登場人物諸氏とともに生き生きと描かれており、師走のひと時、読書の楽しさを味あわせてもらいました。
祥子の生きざまを私なりに一言で言い表すなら、それは「七転び八起き」の人生であったろうかと思われます。しかし、「八起き」目はありませんでした。田舎から一旗揚げようと都会へ出て来たものの、苦労して手に入れた人力車を奪われる、爪に火を灯すようにして貯めたお金を取り上げられる、妻が出産の時に妻子とも死んでしまう、一緒に人生をやり直そうと思った女性は首を吊って死んでしまう、と転んでは起き、転んでは起きを繰り返す中、ついに祥子の心は折れてしまいます。そして、心が折れた祥子は次のような言葉を吐きます。「食わんがために稼ぎ、腹がくちくなれば寝るだけのこと、考えたり、望んだりしたところでいまさらなんになるものでもない。骨が見えるまでにやせこけた犬が焼芋売りのわきで芋の皮やしっぽをあさっているのを見て、ああ、おれはこの犬とおなじだ。芋の皮としっぽをあさるためだけに一日あくせくしているのだ、としみじみ思った。その日その日を生きてゆければいいので、それ以上、なにを思いわずらうことがあるものか」
都会へ出て来た時、祥子は刻苦を厭わず、転んでも前向きな姿勢を失いませんでしたが、心が折れた後は、返すつもりもないのにお金を借り、「食い、飲み、女を買い、ばくちを打ち、怠け、ずるがしこくたちまわ」ります。しまいには、お金のために人を売り、売られた人は銃殺刑に処せられます。祥子がタバコの吸い差しが落ちていないか、懸命に地面を見つめるまでに落ちぶれるところでこの小説は終わります。もし、「駱駝祥子」に短い続編があったとするなら、それは芥川龍之介の「羅生門」ではないかという気がしました。
最近、近所の書店で岩波文庫の棚に「駱駝祥子」があるのが目に留まりました。その時は買いませんでしたが、岩波書店のホームページで絶版になっていると知り、あの「駱駝祥子」が売れてしまうともう入荷しないので、日を経ずして求めました。頁を繰ってみるや、張立人が言う「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」で人力車夫である祥子の姿が、彼を取り巻く登場人物諸氏とともに生き生きと描かれており、師走のひと時、読書の楽しさを味あわせてもらいました。
祥子の生きざまを私なりに一言で言い表すなら、それは「七転び八起き」の人生であったろうかと思われます。しかし、「八起き」目はありませんでした。田舎から一旗揚げようと都会へ出て来たものの、苦労して手に入れた人力車を奪われる、爪に火を灯すようにして貯めたお金を取り上げられる、妻が出産の時に妻子とも死んでしまう、一緒に人生をやり直そうと思った女性は首を吊って死んでしまう、と転んでは起き、転んでは起きを繰り返す中、ついに祥子の心は折れてしまいます。そして、心が折れた祥子は次のような言葉を吐きます。「食わんがために稼ぎ、腹がくちくなれば寝るだけのこと、考えたり、望んだりしたところでいまさらなんになるものでもない。骨が見えるまでにやせこけた犬が焼芋売りのわきで芋の皮やしっぽをあさっているのを見て、ああ、おれはこの犬とおなじだ。芋の皮としっぽをあさるためだけに一日あくせくしているのだ、としみじみ思った。その日その日を生きてゆければいいので、それ以上、なにを思いわずらうことがあるものか」
都会へ出て来た時、祥子は刻苦を厭わず、転んでも前向きな姿勢を失いませんでしたが、心が折れた後は、返すつもりもないのにお金を借り、「食い、飲み、女を買い、ばくちを打ち、怠け、ずるがしこくたちまわ」ります。しまいには、お金のために人を売り、売られた人は銃殺刑に処せられます。祥子がタバコの吸い差しが落ちていないか、懸命に地面を見つめるまでに落ちぶれるところでこの小説は終わります。もし、「駱駝祥子」に短い続編があったとするなら、それは芥川龍之介の「羅生門」ではないかという気がしました。