花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

エベレスト

2015-11-30 20:26:00 | Weblog
 映画「エベレスト」を観ました。山の景色が見られればくらいに思って、予備知識なしで観たのですが、1996年の大量遭難を基にしたものでした。この遭難では日本の難波康子さんが亡くなられたこともあり、大きく報道されました。その後、ナショナル・ジオグラフィックが出した「エベレスト」では救助の様子が豊富な画像付きで伝えられています。また、私は読んでいませんが「空へ」と題するドキュメンタリーも出版されており、作者であるジョン・クラカワー氏にあたる人物が今回の映画でも雑誌記者として登場しています。遭難自体については、これらの本や当時の報道に譲るとして、この映画で私の印象に残った場面を紹介することにします。ベースキャンプに隊のメンバーが揃ったある夜、ジョン・クラカワー氏役がみんなに「なぜエベレストに登るのか」と問います。しかし、明確な理由を答えられるものはいなくて、促されてやっと登ろうと思った気持ちめいたものがパラパラと出てくるのみでした。また、同じくベースキャンプでどの隊が先に登るのかについて交わされる会話の中に、「決定権は山が持っている」という言葉がありました。映画を観終わった時、エベレストに登る強い意志の有無、あるいは山との関係をしっかり築けたかどうかが、山の持つ決定権による裁定を左右したのではないかと思いました。話は少しそれますが、山野井泰史さんが冬の利尻岳に登った際に悪天候に見舞われ、遭難を心配したパートナーが下山の相談をした時、「1万円以上の費用を掛けた山を登らないことはありえない」と答えます。「1万円以上」云々は何もケチくさいことを言っているのではなく言葉の綾だと思うのですが、山野井さんの強い意志が現れています。さらには己を知り山を知った上に築いた関係性が窺えます。1996年5月10日の遭難では、商業的な公募登山隊からたくさんの犠牲者が出ました。不幸にして、連れて行ってもらう弱さに山の非情が牙をむいたのかもしれません。

国立大学改革について(補)

2015-11-29 17:24:15 | Weblog
 日本の成長戦略のひとつに「クール・ジャパン」があります。マンガ、アニメをはじめ、日本が生み出すコンテンツやソフトをビジネスにつなげていこうというものです。では、日本のクリエイティビティを高めていくことに、国立大学改革の内容はどう影響していくのでしょうか。教育現場を知らず、ましてクリエイティブな資質もない人間ですが、素人目には「役に立つ」勉強が創造性を育てるような気はしません。役に立つ、立たないといった物差しとは別次元で、自分の興味ある分野に打ち込む過程で人間性が深められ、それが創造的な仕事につながっていくのではないかと思います。一見無駄と思えるようなものを許容しない社会からは、人々を魅了する新しい発想は生まれないと思うのですが、やはりこれは素人考えなのでしょうか。

国立大学改革について

2015-11-23 15:04:30 | Weblog
 「(日本人は)一八六八年に国ぐるみ、近代ヨーロッパの学問を取りいれることに踏みきった。その線上で全国民の教育制度を組み立て、頂点に一つの大学を置いた。この大学は、国家のつくった大学であり、学校は、大学をふくめて国家のつくったものである。それから百五十年、日本の知識人は、国家と対立しても、やがては国家のきめた方針に従う道をとってきて、あやしむところがない。(中略)敗戦後、手本はアメリカ合衆国にかわったが、今日も知識人の考えかたの型はかわらない。今でも無意識の領域に繰りこまれて表面に出さない日本の知識人の価値基準は、それは国家の決めたことか(肯定の規準)、なになにはもう古い(否定の規準)、の二つである。」
 これは、鶴見俊輔さんと網野善彦さんの歴史に関する対談を本にした「歴史の話」(朝日選書)にあとがき的に収められている鶴見さんの言葉です。①国家の決めたことか、②もう古くないか、この二つの尺度は何も知識人に限ったものではないような気がします。「国家の決めたことか?」、「もう古くないか?」、知らず知らずそう問い続けているうちに、長い時間が経ってみると、期せずして大きな大きな円を描くような事態に陥ってしまうことがないとは言えないような気がします。例えば、昨今の国立大学改革の目的を見ていると、何だか明治時代に発布された帝国大学令の「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」と重なっているように思えます。
 かつての「国家ノ須要ニ応スル」イコール、今の「役に立つ」勉強が悪い訳ではありませんが、教育は10年、20年のスパンをもって成果が表れてくるので、今、役に立つと思われる技能が10年後も役に立っている保証はありません。近視眼的な、そして性急な改革であってはならないと思います。

10月から11月へ

2015-11-03 20:31:49 | 季節/自然
 季節の移り変わりにおいて、夏から秋へよりも秋から冬への方が歩幅は大きいように思います。ジリジリと土俵の外に押し出すと言うのではなく、立ち会いのゆったりさに油断していたら、いきなり仕切ってドーンと一突きで押し出しといった感があります。おかしな例証かもしれませんが、季節の画像をあしらったカレンダーをめくった時、8月と9月や9月と10月の違いよりも10月と11月の変化の方が大きいのは明らかです。10月の半ばまで暖かな日が続き、休日、ウォーキングに出掛ける格好は半ズボンにTシャツでしたが、テレビでハロウィンが頻繁に取り上げられるようになったあたりから朝晩の冷え込みが急に強まり、さすがにTシャツではどうかなと思うようになりました。今日も国道を2時間ほど歩きましたが、長袖のシャツに半ズボン、でもそろそろ今年の半ズボンは終わりだなと思いました。

ハロウィンの 消え去りのちに こたつあり