花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

夏の終わり

2009-09-17 22:47:45 | Weblog
 7月のとある日、会社の帰りに立ち寄った書店でタイトルに惹かれてイタリアの作家・パヴェーゼの「美しい夏」(岩波文庫)を買いました。「美しい夏」、何となく明るくはつらつとした話ではないかと期待したからです。ところが、明るくもはつらつともしていない、イタリアの貧しい少女のもの悲しい物語でした。ところで、今日のブログは小説「美しい夏」がテーマではありません。そうではなく、今年の夏の象徴として、「美しい夏」が頭に浮かんだことを書いてみます。
 何年か経って2009年の夏を振り返った時、きっと「あの年はのりぴーの夏だった」と思うことでしょう。それくらい、今年の8月以降、のりぴーの話題がメディアを賑わせました。そして今日、のりぴーは保釈され、記者会見に臨みました。その姿を職場のテレビで見ていた時、ふと「美しい夏」のことが頭に浮かびました。「美しい夏」の主人公・ジーニアが、のりぴーと似ているとかそういうことではありません。他の芸能人スキャンダルと違って、のりぴーの事件はどこかもの悲しいものを含んでいるように感じられました。そのもの悲しさが、「美しい夏」を思い出させたのでしょう。私自身がもの悲しくなった訳ではもちろんなく、私が小説の世界やのりぴー事件のそれぞれに、もの悲しさを感じ取ったということです。一時はトップアイドルとして日本で、またアジアで人気を誇ったのりぴーが、涙を流して頭を下げるところ見たとき、今年の夏はこれで終わったなと思いました。明日からは正真正銘の秋。爽やかな秋であって欲しいと思います。

梨のサンドウィッチ

2009-09-14 22:14:56 | Weblog
 風呂上がりに梨を食べていて思い出したことがあります。2,3年前に、実家から送ってもらった梨でサンドウィッチを作ったことです。休みの日に、「今日はパパがお昼ごはんを作るから」と言って、サンドウィッチを作りました。先ず、ハチミツとバターを混ぜ合わせ、それをパンに塗りました。そこへカッテージチーズを重ね塗りし、その上に薄く切った梨を並べて一口サイズにカットして、シンプルなサンドウィッチを作りました。自分では美味しくできたと思ったのですが、家族には不評で、結局最後はノルマ食いになりました。シャカシャカと梨を噛みながらそんなことを思い出し、今度の5連休にもう一度チャレンジしてみようかと思いました。

2009-09-12 22:14:14 | 季節/自然
 果物が好きだった正岡子規は、随筆「松蘿玉液」の中で梨についてこう語っています。「梨は涼しくいさぎよし。南窓に風を入れて柱に倚り襟を披き片手に団扇を持ちながら一片を口にしたる氷にもまさりてすがすがしうこそ。」また、子規が「すがすがし」いと言った梨の魅力が現れている句には、「梨むくや甘き雫の刃を垂るる」があります。私は実家から送られてきた梨をほおばりながら、梨好きの子規のことを思い出していました。思うに、梨の味わいは最初のひと噛みに凝縮しているのではないでしょうか。梨をかじった時に口の中にほとばしる冷たい滴は、まさに「涼しくいさぎよ」く、涼しさ、いさぎよさを最も鮮やかに感じるのは初めの一口で、後はその確認、確認、確認です。
 味覚の秋の始まりを告げる梨は、その意味でも「いさぎよ」く、「すがすがし」い感じがします。子規は「松蘿玉液」の果物に触れたくだりで、「われ力を菓物に借ること多し」と言っています。季節の移り変わりを伝える果物は、私たちの心にアクセントを与えてくれ、ねじをひと巻きしてくれるようでもあります。

トリノ・エジプト展

2009-09-08 23:03:30 | Weblog
 先日、上野の美術館に「トリノ・エジプト展」を見に行ってきました。エジプト展ですから、見所のひとつとして子供と大人のそれぞれのミイラがありました。古代エジプトの人たちは、死者の再生を信じ、復活した時に魂が帰るべき肉体を保存するためにミイラを作りました。
 今年の春、佐賀県の吉野ヶ里遺跡で甕棺を見ました。こちらは、死者が祟りをなさないように甕の中に入れて葬ったものです。彼岸へいった死者が此岸へ戻って来ないようにする甕棺の埋葬、此岸とつながりを断ち切らないための埋葬であるミイラ。甕棺とミイラを比較してみると、死後の世界に対する双方の考え方の違いが顕著です。
 加藤周一さんは日本文化の特徴として、「いま」、「ここ」への執着をあげています。死者を彼岸に封じ込めてしまい、祟らぬこと災いをなさぬことを願うのは、「いま」、「ここ」を共有する生者を最重要なものと考えるところからくるのかもしれません。展覧会の後、上野の叙々苑で豆腐チゲを食べながら、「去る者は日々に疎し」、と思いました。