花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

続・丸山眞男の現実主義

2006-08-31 22:50:11 | Weblog
 昨日のブログをうけて丸山眞男の著書の中から、現実社会に対するスタンスの取り方における日本の悪しき傾向に関する箇所を拾ってみる。「日本には、存在するものはただ存在するがゆえに存在するという俗流哲学がかなり根強いようであります。・・・つまり存在根拠を問うということがほとんど-ほとんどというといいすぎかもしれませんが、少なくも何故存在する価値があるかということを不断に問題にする意識が乏しいように思います」(「復初の説」・岩波書店刊「丸山眞男集第八巻」所収) これは、有名な「既成事実への屈服」に通ずる傾向である。「丸山眞男集第四巻」の「軍国支配者の精神形態」にはこうある。「既成事実への屈服とは何か。既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となることである。」
 結果としてこのスタンスでは、「全体」(理想)に照らして「部分」(現実)の意味や価値を問う態度は生まれてこない。そうなると、「既成事実さえ強引に作ってしまえば、一時はわいわい騒ぐけれども、結局なんとかかんとか既成事実の上に事態が進行していく、また事態が進行していくことを許す。こういう悪例が積み重なって」(「復初の説」)いくことになる。「起こったことはしょうがない」となって、眼の前の「悪」が「事実」にすり替えられてしまう。
 没後何年とは関係なく、何度も自分にぶつけ続けなければならない言葉がある。ややもすると、「大切なこと」が「目新しいこと」に押し流されてしまいがちだから。いみじくも、丸山眞男はこう書いている。「現在は、何か気のきいたことを一ついうよりは、当たり前のことを百ぺんも繰り返し強調しなければならないような時代ではないかと思」う。(「『現実』主義の陥穽・「丸山眞男集第五巻」所収)

丸山眞男の現実主義

2006-08-30 23:29:17 | Weblog
 8/29付け朝日新聞・夕刊の論壇時評は「丸山眞男の現実主義」と題するものだった。その中である論文を引きながら、丸山眞男に見られる「現実主義者」としての面と、「理想主義者」としての面に言及している。そして、この両者を結ぶものとして「理想と現実、主体と環境、目的と手段の往復という高度なプラグマティズム」の契機があり、「現実主義」と「理想主義」との間で生産的な対話が行われていた、とする見方を紹介している。この記事を読んで思い出したのは、丸山眞男が法制史学者の世良晃志郎との対談、「歴史のディレンマ」(岩波書店刊「丸山眞男座談8」所収)で、カール・ポパーの‘Piecemeal’の思想について語った言葉だ。‘Piecemeal’とは言うなれば、「グランドセオリーを唱えるのではなく、小改善を積み重ねて世の中を良くしていきましょう」という立場である。その‘Piecemeal’について、丸山眞男はこう述べている。「なんらかの『全体』を想定して、それとの関係ではじめてピースミールの『ピース』(部分)の意味や価値が位置づけられるのであって、その逆じゃない。・・・大事な点は、社会工学でも『全体』が『部分』に先行するのだ、という点です。」 この発言からうかがわれるのは、丸山眞男の現実主義の根底にあるものが、理想に向けて現実を変えていこうとする改革の意識であり、その意味で理想主義と現実主義の複眼思考の持ち主であったということだ。そういった丸山眞男の現実社会へのスタンスの取り方が、没後10年経った今なお、著作が読み続けられている理由ではないかと思う。

男体山

2006-08-21 21:40:53 | 季節/自然
 日光二荒山神社中宮祠から男体山に登った。山岳信仰の山だけあって、のっけから急登だった(そして最後まで急登)。歩き始めから汗がどーっと出て、早実のエース、斉藤くんのようにポケットタオルで汗をぬぐった。明け方、少し雨が降ったらしく、少しじゅちゃり気味の登山道を一歩一歩踏みしめながら登ること2時間半、男体山の頂上に着いた。本当は中禅寺湖をはじめ素晴らしい展望が楽しめるはずだったが、生憎ガスが出ていて景色は何も見えなかった。それでも、しばらく白い霧を眺めていると、何故だか華厳の滝の展望所に降りるエレベータの前に貼ってあった指名手配犯のポスターのことを思い出した。かれこれ20年以上も前に見た、強盗殺人犯や連続企業爆破犯人が出ているポスターだ。こんなところで、急に変なことを思い出すなんて、ひょっとすると熱中症か高山病になったのかもしれないと思い、聖なる山に健康を祈念して下山した。

レーニンとは何だったか

2006-08-17 22:41:30 | Book
 エレーヌ・カレール=ダンコース著 「レーニンとは何だったか」(藤原書店刊)は、権力に捧げられた男の生涯が綴られている。レーニンは、反政府活動家の中で指導的立場にあったプレハーノフらのような影響力はなかったが、新聞発行権を握ることで徐々に力を蓄え、ボリシェビキ内に地盤を築いていった。レーニンの活動母体であるボリシェビキはメンシェビキに対して劣勢にあったが、レーニンは革命諸勢力による意思決定の会議で巧みに政治力を発揮し、ボリシェビキの存在を高めていった。さらには、帝政ロシアを潰したいドイツから援助を受け、資金力でも他の革命諸勢力の優位に立つ。帝政ロシア打倒後は、革命政権の中でやはり巧みな政治力を駆使し権力掌握を目指していった。だが、レーニンは皆が待ち望む存在ではなかった。かつて、プレハーノフに衆望が集まっていたように、今度はトロツキーが指導者にふさわしいと思われていた。しかし、ドロドロとした権力闘争においてトロツキーはインテリ過ぎたのか、あるいはレーニンの力を見くびったのか、権力を握ったのはレーニンであった。レーニンは党を中心に据えた支配機構を作り上げ、人民と離れたところで政策を決定する共産党独裁体制を敷き、党幹部には忠誠を求めた。レーニン体制に反対する者には容赦なく「純化=粛正」をもって応えた。結局、レーニンは自らを頂点とする権力装置を作り上げたところで、歴史上の役割を終えたかのように病で死ぬ。
 ダンコース女史が描くレーニンは、理想の実現を目指す革命家ではなく、権力を我がものとするためにありとあらゆる手を使った王位簒奪者である。また、この本を読んで「ロシア革命とは王朝交代劇」との印象を受けた。レーニンは自分のことをマルクス主義の正統的継承者であると言い続けていたけれど、実際には民衆を支配の対象としか見なかった。政治的価値の実現に命を張るのではなく、あくまでも権力それ自体に命を賭けた。議論よりも「死人に口なし」を選んだし、ロシア革命の前と後で、庶民は相変わらず虐げられたままであった。レーニンの革命は同じ革命でも、西欧における革命、例えばピューリタン革命や名誉革命よりも、易姓革命と呼ばれる中国における放伐に近いような気がする。
 余談だが、レーニンの死後、レーニンの遺品である権力装置を徹底的に使い切ったのがスターリンである。権力を追い求め王朝を創始したレーニンと、権力を使いまくり暴君に終始したスターリン。そして、レーニンはレーニン廟に祀られ、そこで今もなお眠り続け、かたやソ連崩壊後スターリンの銅像は引き倒された。これも、王朝史にふさわしいような気がする。

政府首脳の靖国参拝に思う

2006-08-04 22:23:13 | Weblog
 靖国参拝問題について、信教の自由、公人と私人の区別、戦犯合祀にまつわる由来、富田メモに見られる昭和天皇の思い、もろもろそういった難しい議論はさておき、極めてシンプルに考えてみたい。
 ある家庭で、女装趣味のあるお父さんがいました。近所から不快に思われていて、お母さんは買い物へ行くたび白い眼で見られ、子供たちは学校でいじめられていました。お母さんと子供達は、「お父さん、女装するのは止めて」と頼みましたが、お父さんは「個人的な趣味の問題だ。法に触れている訳じゃないだろう。人に言われたからといって、それは余計なお世話だ」、と聞き入れてくれません。
 そこで、このお父さんに言いたい。趣味だろうが何だろうが、法に触れようが触れなかろうが、実際問題として、あなたの振る舞いによって苦痛を受けている人が存在することに対して責任はありませんか。父親として、家庭の安寧を図る義務を果たしていると言えますか。
 形式的には非がなくても、自分が他人の不幸の引き金を引いているのなら、良心の問題はもちろんのこと、結果責任が発生するのではないか。また、責任ある立場の人であれば、自らが責を負う集団の利益を損なうようなことは慎まなければならないのは当然である。
 小難しい論議はもうたくさん。大切なことは、不利益をこうむっている日本人がいるのかいないのか、いるとすればその事実をどう受け止めるかだ。