昨日のブログをうけて丸山眞男の著書の中から、現実社会に対するスタンスの取り方における日本の悪しき傾向に関する箇所を拾ってみる。「日本には、存在するものはただ存在するがゆえに存在するという俗流哲学がかなり根強いようであります。・・・つまり存在根拠を問うということがほとんど-ほとんどというといいすぎかもしれませんが、少なくも何故存在する価値があるかということを不断に問題にする意識が乏しいように思います」(「復初の説」・岩波書店刊「丸山眞男集第八巻」所収) これは、有名な「既成事実への屈服」に通ずる傾向である。「丸山眞男集第四巻」の「軍国支配者の精神形態」にはこうある。「既成事実への屈服とは何か。既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となることである。」
結果としてこのスタンスでは、「全体」(理想)に照らして「部分」(現実)の意味や価値を問う態度は生まれてこない。そうなると、「既成事実さえ強引に作ってしまえば、一時はわいわい騒ぐけれども、結局なんとかかんとか既成事実の上に事態が進行していく、また事態が進行していくことを許す。こういう悪例が積み重なって」(「復初の説」)いくことになる。「起こったことはしょうがない」となって、眼の前の「悪」が「事実」にすり替えられてしまう。
没後何年とは関係なく、何度も自分にぶつけ続けなければならない言葉がある。ややもすると、「大切なこと」が「目新しいこと」に押し流されてしまいがちだから。いみじくも、丸山眞男はこう書いている。「現在は、何か気のきいたことを一ついうよりは、当たり前のことを百ぺんも繰り返し強調しなければならないような時代ではないかと思」う。(「『現実』主義の陥穽・「丸山眞男集第五巻」所収)
結果としてこのスタンスでは、「全体」(理想)に照らして「部分」(現実)の意味や価値を問う態度は生まれてこない。そうなると、「既成事実さえ強引に作ってしまえば、一時はわいわい騒ぐけれども、結局なんとかかんとか既成事実の上に事態が進行していく、また事態が進行していくことを許す。こういう悪例が積み重なって」(「復初の説」)いくことになる。「起こったことはしょうがない」となって、眼の前の「悪」が「事実」にすり替えられてしまう。
没後何年とは関係なく、何度も自分にぶつけ続けなければならない言葉がある。ややもすると、「大切なこと」が「目新しいこと」に押し流されてしまいがちだから。いみじくも、丸山眞男はこう書いている。「現在は、何か気のきいたことを一ついうよりは、当たり前のことを百ぺんも繰り返し強調しなければならないような時代ではないかと思」う。(「『現実』主義の陥穽・「丸山眞男集第五巻」所収)