花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

少々おろしてください

2017-11-24 21:06:56 | Weblog
 夏目漱石の弟子筋にあたる作家の内田百閒が電車に乗った時のことです。混み合った電車からおりるために、さるご婦人が「少々おろしてください」と声を上げました。これに対して百閒翁は「少々とは、おりずに残る部分があるのだろうか」とか、「おろしてくださいとは、誰かに抱えておろしてもらうつもりなのか」など、ご婦人が去った後ひとり難癖をつけています。どうでも良さそうなことが気になる性格なのでしょうが、それをわざわざ書き留めるあたり、稚気が感じられ可笑しみを誘います。さて最近、私も電車の中で気になることがありました。それは車中のアナウンスです。朝の満員電車がある駅を発車しようとした時、「ドアに挟まれないようお身体を引いてください」と流れたのですが、ドアに挟まれそうな人は自分が好きで身体を前に出している訳ではなく、ぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた挙句、中からの圧力で押されて挟まれそうになっているのです。身体を引きたくても引けないドア付近の人からすると、「そう言われてもなぁ」と思ってしまうのではないでしょうか。それからもうひとつ。「ヘッドフォンから音が漏れている方は周りへのご配慮をお願いします」には、「音が漏れるほど大きな音量じゃ、このアナウンスは聞こえないだろう。折角の注意喚起も伝えるべき人には伝わらない」と思いました。パソコンやスマホを見ている時に、ニュースや広告が画面に飛び出してくることがありますが、ipodやスマホに割り込んで、例えば「ボリュームを落としましょう」などとメッセージをひとりひとり個別に伝える技術が生み出されると良いのですが。でも、お行儀良く乗車しているにも関わらず「痴漢は犯罪ですよ」といきなり耳元で聞こえたら、「オレはやってない」と声を荒げてしまい、「こいつはおかしな野郎だ」と少々おろされる破目になるかもしれません。

トピック集中主義

2017-11-18 08:39:43 | Weblog
 1988年は昭和天皇の病気をおもんぱかって、華やかなイベントが次々と自粛された年です。また、井上陽水さんが「お元気ですか」と視聴者に呼び掛けるクルマのCMが、放映を取り止められたことを記憶している方もあるかと思います。その1988年に政治学者・丸山眞男さんが書いた手紙が、11月15日付朝日新聞朝刊で紹介されていました。ある雑誌編集者の求めに応じて天皇制への意見を述べたものです。記事には手紙の一部が掲載されていましたが、その内容は次の通りです。

【自粛の全体主義】
 「『自粛の全体主義』には私もただ唖然とするほかありません」「朝日新聞も、東京創刊百周年記念パーティーを『諸般の事情』により中止する旨のお報らせをいただきました。『ブルータス、君もか』とはこのことです」
【トピック集中主義と歴史的評価】
 「しかし、だからといって、天皇の重病と、戦争責任をふくむヒロヒト天皇の長い在位の歴史的意義とを直接に結びつけねばならぬような発想もまた私には無縁です。重病は、あるいは最悪の事態も、それ自身一つのトピックであり、それ以上のものではありません。一人の人間の死に際しては、その死をいたむのが自然の情であり、その機会に結びつけて、その人間の歴史的評価をするのは、プラス評価にせよ、マイナス評価にせよ、二つの異ったレヴェルの混同であり、日本のマスコミに典型的なトピック集中主義(逆にいえば持続的問題関心の欠如)のもう一つの事例にすぎません」
【日本人の知性と批判精神】
 「あなたは、今を過ぎると、天皇制の論議がなくなるのではないか、と心配されているようですが、失礼ながらあなたもそういうトピック主義にいつの間にか陥っておられるのではありませんか。私はもう少し日本人の知性と批判精神に高い評価を与えたい気がします」
【未来性を持つ歴史的展望】
 「病状の刻々の報道とかいったバカバカしい騒ぎが一段落し、次の天皇の即位のトピック的集中性も鎮静すれば、昭和史全体の展望と、ヒロヒトの戦争責任問題をふくむ在位期の歴史的意味について、躁状態を脱した広く深い論議がはじめて提起されるようになるでしょう。そういう歴史的展望はいうまでもなく、次期天皇のあり方を問うという未来性をも持っています。私はむしろ、そういう段階で、マスコミがどこまで持続的にその問題を追及するだろうか、という方が心配です」

 人々の注目を集める何かのトピックに関連させて、レベルの異なる問題を並べて論ずる傾向と、トピックへの熱が冷めた時、本来論ずべき問題への熱も冷めてしまう傾向、これらを丸山さんはトピック集中主義として戒めています。自らを振り返るに、深く肝に銘ずべき言葉と思います。特に熱しやすく冷めやすい点については、その傾向があることを意識しておかないと、つい気ままな世の中の雰囲気に流されがちになってしまいます。丸山さんは「『現実』主義の陥穽」(岩波書店刊「丸山眞男集第五巻」所収)において、「現在は、何か気のきいたことを一ついうよりは、当たり前のことを百ぺんも繰り返し強調しなければならないような時代ではないかと思う」と述べておられますが、この言葉はトピック集中主義に対する戒めと呼応しているように思います。

納めの場所

2017-11-15 21:02:04 | Weblog
 大相撲のこの一年を納める九州場所が大変なことになっています。横綱の日馬富士が幕内力士の貴ノ岩をビール瓶で殴って大怪我を負わせたそうです。人を殴ることは悪いことですが、ビール瓶で殴るのはもっと悪いことです。ビール瓶で殴ることはとても悪いことですが、怪我をさせることはさらに悪いことです。そして、怪我をさせたことが露見するまで、謝りに行かず、事を隠していたことは、大変情けないことです。
 昔、「ビールは平等なお酒だ」と酒の席で先輩から言われたことがあります。ワインやウィスキーなどは極上と格安でゼロの数がいくつも違いますが、日本人が普段飲むビールの値段にそれほど大きな開きはありません。1本ン万円のワインを飲む人も、ことビールに限るなら、私がハムカツを食べながら飲んでいるビールと銘柄に変わりはないだろうと思います。そんな平等なお酒であるビールの瓶が凶器に使われたとなれば、ビールもさぞ悲しい気持ちになっていることでしょう。
 さて、この事態をどう納めるのか。また、それにとどまらず、不祥事が繰り返される相撲界の体質を、国技にふさわしいものへ変えることが出来るのか。相撲界の納め方に注意が集まります。今後これ以上、情けなく、悲しい思いが生まれないと良いのですが。