花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

至言

2017-12-31 16:23:18 | Weblog
 朝、玄関に正月飾りを取り付けていたら、空から白いものがちらほらと落ちてきました。風がない中、音もなく雪が舞い落ち、地面に落ちてすぐあとかたもなく消えてしまうさまに、一年の終わりを感じました。明日からの正月三が日、出掛ける場所とてなく、チャンネル権もなく、無聊をかこつやに思われますが、せめてのんびりお酒が飲めればなと思います。いい気になって飲み過ぎてしまうと、家族の逆鱗に触れ「一年の計」が「一年の(禁酒の)刑」になってしまいますので、ほどほどにしたいと思います。「多摩川飲み下り」(ちくま文庫)なる本で、著者の大竹聡さんは奥多摩にある縄のれんでお酒を飲みながらこんなことを言っています。「うまい。すいすいと入る。調子に乗れば酔うだろうなとは思う。(中略)へっ、後で酒が回ることなど知ったことか、今、うまきゃ、いいんだ・・・。」「うまきゃ、いい」、これは至言です。お酒が美味しい間は酔っても悪酔いにはなりません。お酒が美味しく感じられなくなっても、意地汚く飲むから悪酔いになるのです。「今日はこのあたりで」と杯を納められれば問題はありません。ただ、言うは易し行うは難し、自身が試されるという意味ではやはり一年の計は元旦にあるのだろうと思います。

記憶との対話

2017-12-13 21:06:37 | Weblog
 12/12付朝日新聞朝刊は、ノーベル賞の授賞式においてカズオ・イシグロ氏に文学賞が贈られたことを報じていました。合わせてスウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長の講評、「私たちが過去とどう向き合っているのか、個人でも共同体や社会としても『生き残るための忘却』とどう付き合っているのか、子細に探検を続けている」、が紹介されていました。私は、「わたしを離さないで」と「わたしたちが孤児だったころ」(ともにハヤカワepi文庫)の2作品しか読んでいませんが、確かに主人公の語りは現在と過去を頻繁に行ったり来たりしていました。過去の出来事が今にどうつながっているのか、また今の自分から見た時、過去の出来事にどんな意味付けをするのか、そんなところに著者の意識が注がれていると感じながら読んだことを覚えています。過去の出来事から受けた影響を通じて今の自分は形成されていきますので、過去の出来事が起こった時点での自分と時間を経た今の自分は当然違います。なので、今の自分が過去の出来事から汲み取る意味は、その出来事があった時の自分に対する意味とは違うこともありえます。カズオ・イシグロ氏は記憶との対話に重きを置き、その対話に潜む襞を大切にする作家なのだろうと思います。ところで、歴史家のE.H.カーが「歴史とは何か」(岩波新書)で「歴史は現在と過去との対話だ」と述べたことは有名です。思うに、過去の記録との対話は歴史を生み、過去の記憶との対話は物語を生むのかもしれません。

ふたつの寓話

2017-12-09 14:36:52 | Book
 政治の生々しさと文学は相性が悪いのか、例えば恋愛小説と比べると政治を扱った小説は圧倒的に少ないようです。割合的に少ないと言っても、政治をテーマとした作品で多くの読者を得ているものがあります。その中には生々しさを消すために生き物を登場人物として政治的状況を描いた寓話があり、最近では「カエルの楽園」(百田尚樹著:新潮文庫)を、冷戦期のものでは「動物農場」(ジョージ・オーウェル著:角川文庫ほか)を挙げることが出来ます。どちらもモデルとなっている人物を生き物に仮託している点で共通しています。また、段々と深刻な状況になっていく展開、後味の悪い結末も共通です。一方、明らかに違う点は、片方は未来の危機を想定して書かれていて、もう片方は現実に起こったことを書いていることです。今のままではこうなるのではないかと未来を語る場合、危機感が強ければ強いほど、そうはならない可能性やそうさせない選択肢に関する検討が捨象されてしまいます。その結果、話の展開は直線的になりがちです。既に起こったことを書く際は、事実の分析が入るため危機意識と醒めた部分の対話が生まれるせいか、物語の要素は豊かになるように思います。政治的寓話がプロパガンダ性を持つとした時、この違いにより声の強さに差が出ます。あるいは訴えるところが性急であったり、反対に相対的に抑制が効いていたり、の別が表れてくるようです。