花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

文学史の問題案

2022-01-28 19:12:00 | Weblog
 国語の問題集だか、模擬試験だかに出てきた文学史の問題について、近頃、子どもと話すことがありました。子ども曰く、「遠藤周作の作品を選ぶ問題があって、答えの『沈黙』が分からなかった。遠藤周作では『海と毒薬』しか知らないしー。」

 それを聞いて思い出したのが、曽野綾子さんの「太郎物語 高校編」(新潮文庫)で、主人公の山本太郎が受験の際、文学作品と作者を組み合わせる問題で見事なまでに間違ったことを両親にからかわれる場面です。この時、太郎が間違った組合せとは次の通りです。
・金閣寺-太宰治
・新生-三島由紀夫
・斜陽-島崎藤村
・こころ-武者小路実篤
・真理先生-夏目漱石
 「これだけ完全にまちがえるのは、むずかしいやな。よくやった」と、太郎くんは父親にほめられていました。

 この類の問題は、知っていれば何ということはないですが、知らなければいろいろと想像を巡らせている間に、どれも「アリ」のような感じがしてくるものかもしれません。試しに、自分でも1問作ってみました。如何でしょうか?

Q:次の中から「源氏物語」の訳を出していない人を選びなさい。
  (1)瀬戸内寂聴 (2)円地文子 (3)谷崎潤一郎 (4)正宗白鳥

A:(4)正宗白鳥 ※「白鳥」の名前から雅なイメージを持ち、源氏物語を訳しているように思っってしまう人がいるかも。

マルクスを読みたい

2022-01-24 21:52:38 | Book
 誰もが知っているけど、読み切った人が身近に誰もいない本が、世の中には結構あります。例えば、私の場合はトルストイの「戦争と平和」。登場人物にあらゆる人間類型が見られると聞き、随分前に第1巻を買いましたが「積ん読」のままです。そして、自分の知り合いにも「戦争と平和」を読了した人はいません。日本文学では夏目漱石の「吾輩は猫である」も、そんな本のひとつかと思います。子どもから大人までこの本を知らない人は、先ずいません。しかしながら、有名な書き出しは知っていても、最後に猫がどうなるかに至るまで全ページに目を通した人は、相当に少なさそうです。(私は読みましたが、こっけいな印象の先入観とは違って、えぐいと言うか、読みようによっては意味が深いと言うか、スイスイ、スラスラとは読めませんでした)。

 思うに、この手の本の横綱格にマルクスの「資本論」を挙げても、異論は出ないでしょう。研究者はいざ知らず、市井の本好きで通読した人は極めて少ない、否、ほとんどいないと言っても過言ではないような気がします。

 さて、今年のお正月に頂いた年賀状の中で、ある畏友が「資本論を一度は読まねばならないと思い、全9巻の岩波文庫版・資本論を4巻まで読んでいる」と書いていました。1巻ですら読み通した人が私の周りにいないのに(たった一人彼を除いて)、4巻まで読んでいるとは、まさしく畏友たる所以です。お屠蘇気分も醒めて、すっかり感心したものでした(1月も下旬になっているので、もう5巻に突入しているかもしれません)。

 自分にとってのマルクスはと言えば、学生時代に「共産党宣言」を読んだくらいで、これは100頁ちょっとの薄い本です。まぁ、資本論に手を出すのは身の程知らずとしても、「宣言」くらいのページ数なら読めるかもと思い、書店へ寄った際に岩波文庫の棚を見てみました。「賃労働と資本」(110頁)や「賃銀・価格および利潤」(132頁)なら、内容の理解はともかく根気の面では大丈夫な気がしました。ちょっとトライしてみようと、買って帰りました。

 ともあれ、今年も本を選ぶきっかけはいろいろありそうですが、どんな本に出会えるか楽しみです。それから、本があれば憂き世の大抵のことはうっちゃっていけそうな気がしています。

共同体の基礎理論

2022-01-03 16:26:21 | Book
 昭和の戦後から高度経済成長期にかけては、政治が熱かったと聞きます。民主主義を日本に根付かせるためには、個を尊重し自由を重んじる近代的なエートス(精神的雰囲気)が必要で、その足かせとなっている戦前的な人間関係から脱却しなければならない、当時の評論などを読むとそんなことが書いてあります。

 私が大学生だった頃は政治が熱いなんてことはもうなく、ノンポリといった言葉すら死語に近くなっているくらいで、かなり隔世の感がありました。それでも、社会科学系の有名な本、例えば川島武宜さんの「日本社会の家族的構成」(日本評論社刊)や神島二郎さんの「近代日本の精神構造」(岩波書店刊)などをかじってみると、何となく民主主義に向けて克服しなければならない日本の遺制がどんなものであるか分かり、それらの根強い残存ぶりを身近に見つけては、まだ道半ばと感じたものでした。

 日本の克服すべき遺制と言えば、共同体遺制というのがあって、乱暴な言い方が許されるなら、それは「ムラ」的な論理に基づいた人間関係でした。日本には日本の共同体あるように、西欧の封建制にも共同体があり、西洋経済史の分野で共同体を研究された方のひとりが大塚久雄さんです。大塚さんの「共同体の基礎理論」を読んだり、また経済史と関連付けて近代的な人間のエートスを考察された論考も読んでみました。で、読むほどに共同体的な人間関係から市民社会的な人間関係に移行する必要性を強く感じたものでした。

 共同体については、乗り越えるべきものとしてマイナスイメージを持って大学を卒業しました。以来、そのイメージは変わらぬまま令和の世まで生きてきました。しかし、最近読んだ「人新世の『資本論』」(集英社新書)で目からうろこと言うか、自分が浦島太郎だったと言うか、「あぁ、そういう見方もあったのか」と新鮮な驚きを覚えました。著者の斎藤幸平さんによると、マルクスはドイツの「マルク共同体」やロシアの「ミール共同体」の中に、今で言う持続可能な社会の可能性を見ていたそうなのです。

 そんな中、昨年12月の岩波文庫の新刊ラインナップに大塚さんの「共同体の基礎理論」が入っていました。共同体的なものは既に過去の遺物、マルクスの資本主義批判もソ連の崩壊をもって歴史的役割を終えた、そのような見方があるかと思います。ただ、資本主義で突き進んできた結果、バラ色の世界になった訳ではなく、多くの人たちを悲惨な境遇に追い込んでいるようだ、しかも地球環境に取り返しのつかないダメージを与えているとなれば、ここで立ち止まって考えてみることが大切かもしれません。

 ヘーゲルの弁証法のように、克服したもの、克服したものの上に築いたもの、そしてその先にあるもの、それを探るために、克服した(と思い込んでいる)ものを今一度振り返ってみるのも良さそうです。「人新世の『資本論』」を読んだ後に「共同体の基礎理論」が文庫化されたのを何かの暗示として、2022年は何十年かぶりに「共同体の基礎理論」を再読してみようかと思っています。