スキー場へ行く途中、渋滞につかまった車の中で繰り返し聞いた曲
レーザー光線やプロジェクションマッピング、サーカスチックなダ
ユーミンは今回のコンサートで荒井由実時代の「あの日にかえりた
英国の作家ジョージ・オーウェルは、当てにしていた仕事が反故になり、お金がないためロンドンの救貧院を渡り歩きます。その時の体験は「パリ・ロンドン放浪記」(岩波文庫)で読むことが出来ます。オーウェルはどん底の人たちと暮らす中で、物乞いと普通の市民の間に本質的な違いはないと言っています。その理由は、
「土工はつるはしを振るって働く。会計士は計算をして働く。物乞いは晴雨にかかわらず戸外に立ち、静脈瘤や気管支炎になりながら働いているのだ。これだってれっきとした商売である。むろん、さっぱり役には立たない。だが、それなら、体裁のいい商売の中にも、役に立たないものはいくらでもあるのだ。物乞いは寄生虫ではあっても、およそ無害な寄生虫なのだ。社会から得るものは、ようやく自分が生きていく費用だけであって、しかも、そのためにはさんざん苦労しているのだから、倫理的観念に照らしても物乞いは正しいということになる。」
では、どうして物乞いは軽蔑されるのかの問いに対するオーウェルの答えは、
「世間体のいい生活を送れるだけの稼ぎがないからにすぎない、と私は思う。仕事が有益か無益か、生産的か寄生虫的かということなど、実際には誰も問題にしていないのである。大事なのはもっぱら、儲かるということだけなのだ。完全に金が道徳基準になってしまったのだ。物乞いは、この基準によって失格し、この基準によって軽蔑されるのである。物乞いという行為によって一週間に十ポンドでも儲けようものなら、物乞いはたちまちにしてれっきとした職業になるだろう。」
全く別の分野の本ですが、金が道徳基準になっていることについては、次のような指摘もなされています。
「人間の価値を高める人間存在の次元というものは、生活水準を不当に高く評価する文化のもとでは、曖昧かつ俗悪化されやすい」(中村勝己著「近代文化の構造」筑摩書房刊)
「パリ・ロンドン放浪記」の最後では、オーウェルがどん底の生活から学んだこととして、「浮浪者というのはみんな飲んだくれだなどとは二度と考えないだろうし、物乞いに金をやれば感謝するだろうとも考えまい」、と言っています。九十年前に出された本ですが、今なお示唆に富む内容だと思います。