花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

Just Mercy -公正な慈悲を-

2020-12-20 23:09:53 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「たとえあなたが人を殺しても、〝殺人犯〟があなたのすべてじゃない」

 厳罰主義は性急に犯人のレッテルを貼り、存在を自分の目の届かないところへ消し去ろうとする。その結果、刑務所に収監される人の数は増える一方となっている。死刑囚の支援活動を行う著者は、思いやりや理解しようとする気持ちが、人を殺そうとは思わないこころにつながると考える。

 公平な裁判を受けられないまま、ある死刑囚が刑を執行された日、車のラジオで牧師が「キリストの力がわたしの内に宿るように、おおいに喜んで自分の弱さを誇りましょう。なぜなら弱いときにこそ強いからです」と語るのを聞く。その時、「慈悲には差別や権力の横暴を止める強い力がある」と思うに至る。

ブライアン・スティーヴンソン著 「黒い司法」(亜紀書房刊)から

ふるさと納税の目くらまし

2020-12-15 20:26:00 | Weblog
 年の瀬が近づいてくるとふるさと納税のCMが目立ってきます。前からこのふるさと納税は胡散くさいなぁと思っていました。と言うのは、例えば東京都港区の人が岩手県葛巻町にふるさと納税したとします。本来港区の住民サービスに使われていた税金が、葛巻町への税金と納税者への返礼品になる訳です。そうなると港区の税収は下がり、住民サービスを落とさざるを得ません。返礼品と住民サービスのトレードオフです。

 葛巻町から見れば港区から税が付け替えられ得したようですが、それもあなた次第の税収で、中長期にわたって町政の財源として当てには出来ません。また、あなた次第であれば、当該自治体の財政規模とのアンマッチな額になる恐れがあります。かつてのふるさと創生資金のようにならなければ良いがと不安がよぎります。どうしても地方の継続的な活性化につながる税制とは考えられません。

 地方の衰退を食い止めることは長らく政治の課題とされてきました。そこで出てきたふるさと納税。でも、返礼品で人々の欲心を釣って、制御不能な出たとこ勝負の税金配分となっては、それで地方が良くなるのだろうかといぶかしく思います。「ふるさと」のような日本人の琴線に触れる言葉を使ったネーミングでカモフラージュして、結局は政治の無策から国民の目をそらしているだけに思えてなりません。

“Go To”のジレンマ

2020-12-13 21:59:45 | Weblog
 Go Toキャンペーンで売り上げ回復を図りたい地域は、同時に感染拡大している地域でもあります。お客には来て欲しいけれども、来れば感染は広がる、そこにジレンマが。あちらを立てれば、こちらが立たず。そこに、どこを向いているか分からない政府。宙ぶらりんに置かれた私たちは、手応えのない我慢が続きます。

いま、そこにある、喜々

2020-12-11 20:16:38 | Book
 アマゾン河の支流域に住む少数民族のピダハンは、他の言語とは相当に掛け離れた独特の言語を用いているそうです。キリスト教布教のためピダハンと生活を共にした言語学者のダニエル・L・エヴェレットによると、ピダハン語には物事を抽象化する語彙がなく、例えば色彩を表す単語はありません。黒を表す場合は「血は汚い」と言い、白は「それは透ける」、赤は「それは血」、緑は「いまのところ未熟」、となります。(「ピダハン」みすず書房刊)

 また、ピダハンは数を持たず、エヴェレットが8ヵ月間毎晩、1から10までの数え方を教えたにも関わらず、10まで数えられるようになったり、1足す1が出来るようになった者は、一人も居ませんでした。

 ピダハンの言葉、そして考え方の中心にあるのは「いま」であり「そこ、ここ」のようです。食事を朝昼晩と時間を決めて食べることはせず、食べるものがある時になくなるまで食べます。「いま」と並んで「直接体験」も思考の核になっています。いま体験していることや直接体験していること以外への関心は極めて薄いため、他の文化には興味がなく、自分たちの文化が一番と考えています。

 伝道師でもあるエヴェレットは布教活動の中でピダハンと次のやり取りをします。
 「イエスはどんな容貌だ? おれたちのように肌が黒いのか。おまえたちのように白いのか」
 「いや、実際に見たことはないんだ。ずっと昔に生きていた人なんだ。でも彼の言葉は持っている」
 「その男を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもっているんだ?」

 ピダハンはエヴェレットに対してこうダメを押します。
 「おまえは家族や故郷を離れてここにきて、わたしたちと暮らしている。イエスの話をするためだ。おまえはわたしたちにアメリカ人のように暮らしてもらいたがっている。だがピダハンはアメリカ人のように暮らしたくない。おれたちはひとりよりたくさん女が欲しい。イエスは欲しくない。しかしおれたちはおまえが好きだ。おまえはおれたちといていい。だがおれたちは、もうおまえからイエスの話を聞きたくない」

 ピダハンは他のどの部族、民族よりも笑っていることが多く、幸せそうにしていると評する研究グループがあるとのことです。実際ピダハンには「心配する」に相当する言葉がありません。そんなピダハンに「イエスを信じれば救われる」と言ってもちっとも響かず、ピダハンを教化しようとしたエヴェレットはピダハンの文化に感じるところ多く、ついには無神論者になりました。

 この地球上にピダハンのような人たちがいること、私たちと懸け離れた生活をしている人がいることを思うと、人類のポテンシャルの大きさに肩の力が抜けるような、何となくこころがほぐれるような気がします。コロナ下で気を緩めることは出来ませんが、慌てふためくことのないピダハンの存在に大いに力づけられます。