花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

蝸牛角上の争い

2008-02-26 21:01:26 | Weblog
 何週間か前の雑誌AERAにママカーストの記事が載っていました。これは、誰かを格下扱いしないと生きていけないお母さんたちを、カースト制にたとえて特集したものです。昨今、かまびすしく言われている格差だの勝ち組・負け組だのは、比較されるもの同士の間に圧倒的な懸隔がありますが、ママカーストでは挌上・格下を分けるものは細微を極めています。AERAからいくつか例をあげてみます。海外へ行く機内で子供がぐずって困るとこぼしながら、その実頻繁に海外旅行をしていることを暗に自慢してしているママに対して、「私はファーストクラスだから、子供がぐずってもCAがあやしてくれる」と内心相手を低く見ている、資産家の家に生まれた母親。予算5千円~1万円のランチに、主人に悪いと渋った主婦とリュックを背負って来たワーキングマザーは、次から階層が違うと誘われなくなった。マンションのどの階に住んでいるかで部屋のグレードを比較され、みんなよりちょっと高い部屋だったので無視されるようになった、などなど。1泊の温泉旅行にも行けず、昼飯は社員食堂でいつもざるそばといった身からすれば、そんなのどうでもいいじゃないという気がしますが、ママカーストではそうはいかないようです。「優れていると思えることが一日ひとつはないと、やっていけない」と、記事に登場するある母親は言っています。
 いったんカースト制にはまってしまうと、カースト制の存在が自己のレゾンデートルを保つための絶対条件となります。ランクアップしようと思って努力した結果は、カースト制の中でしか評価されないので、序列の階梯がなくなってしまっては困ります。自分が蹴落とそう、あるいは追いつき追い越そうとする人が、身近に居なくてはなりません。妬ましいと思ったり自分より格下だと見下したりしても、その人が自分をうらやんでくれないと優越感を得られないので、決して排除することは出来ないでしょう。むしろ、自分が評価しない人がいることによってこそ、一層自己の評価は高まるのです。そうなると、ママカースト制とは非常に緊張感があり、持続的で、精神的疲労を伴う人間関係の一形態だと思います。今時のお母さんはパワーがあるわぁ、と感心します。

どこでもジモトミン

2008-02-19 22:36:43 | Weblog
 今朝、子供を幼稚園へ送ってから会社へ向かい、その途中赤信号を待っていると、お姉さんに道を尋ねられました。「信号を渡ってまっすぐ行くと大きな通りに出るので、そこを左に曲がるとすぐですよ」と教えて、自分は信号を渡って地下鉄の駅へと階段を降りて行きました。歩きながら、道を尋ねられたのは今年初めてかも、と思いました。学生の頃は道を歩いていると、随分宗教関係の方に声を掛けられました。渋谷界隈に出掛けた時は、特に多かったような気がします。社会人になってからは、宗教の勧誘に代わって道を訊かれることが多くなりました。確率からすると何故か旅先で訊かれることの方が多いようです。例えばパッと思い出せるものでは、次のようなものがあります。群馬県高崎市でビジネスホテルの玄関を出て2,3歩目→どう見ても旅行者なのに。ニューヨークやロンドンを旅した時も何回か尋ねられました→一人旅だったので行動する前に地図を確認していたのが幸いしました(時間を訊かれたことや、地下鉄の出口を訊かれたこともあったなぁ)。旅先ではありませんが、新宿で10人前後の、おそらく韓国からの旅行者にぐるっと取り囲まれて、ある高層ビルへの行き方を訊かれたこともあります。男性女性取り混ざっていましたが、全員私よりもかなり身長が高く、360度全ての角度から20の瞳が一斉に私を見下ろし、返事を今かと待っているさまは、ちょっと威圧感がありました。同じく新宿では、7月の暑い盛り、中東から(イランでしょうか)の出稼ぎかとおぼしき青年が、着れるものはみんな着て、何とダウンジャケットまで着て、両手にパンパンに膨らんだでっかいボストンバックを持った状態で、すれ違おうとする私を呼び止めて道を尋ねてきました。きっと日本に着いたばかりなんだろうなぁ、と思ったものでした。そんなこんなで思い出に耽りながらの出勤だったので、いつもは気合の読書タイムである地下鉄の車中ですが、今日は読書に集中出来ませんでした。

earth

2008-02-12 21:27:56 | Weblog
 「一生のうちで、オオカミに出会える人はほんのひとにぎりにすぎないかもしれない。だが、出会える、出会えないは別にして、同じ地球上のどこかにオオカミのすんでいる世界があるということ、また、それを意識できるということは、とても貴重なことのように思える。」 カムチャッカで非業の死を遂げた、写真家であり文章家であった星野道夫さんの言葉です。同じ地球上のどこかにある世界、自分がその世界を目にすることはおそらく無いだろうけれども、でも確かに存在するある世界を意識し、その貴重さを感じられる素晴らしさ、映画「earth」を観てそのことを思い返しました。earthは英国BBCのドキュメンタリー・フィルムを再構成して作られた映画で、北極を出発点としてはるか南極までの道のりの間、そこで繰り広げられるさまざまな動物たちの営みを迫力ある、そして詩情あふれるカメラワークで追い続けていきます。獲物を追いかけて森をさすらうアムール豹、熱帯雨林に住む極楽鳥の珍妙なダンス、水を求めて何週間にも及ぶ旅を行うアフリカ象の群れ、どれも実際に目にすることはなさそうですが、パソコンのキーボードをたたいている今この瞬間にも、地球のどこかでそれらの生きものが懸命に生きていることを想像出来ることは、確かに貴重なことだと思います。春の訪れとともに巣穴を這い出したホッキョクグマのコグマが1歳を迎えるのは、2頭に1頭の割合だそうです。母グマに抱かれたコグマがちょうど今頃、暗い巣の中から白銀の世界へ出て行くのを今か今かと待ちわびているのではないだろうか(生きるか死ぬかの厳しさがあることも知らずに)。そんなことを想像すると、何やら慈しみの感情が湧き起こってきます。ただし、このままのペースで地球温暖化が進めばホッキョクグマは猟場を失い、2030年には絶滅するかもしれないそうです。星野道夫さんのメッセージに共感できる人間がいない世界、そんな世界は想像したくありませんし、そんな世界を招くことに手を貸すわけにはいかないと思います。

アメリカのいま、2冊の本から (つづき)

2008-02-05 21:16:41 | Book
 「アメリカン・コミュニティ」に描かれているのが、緩衝材あるいは防波堤の内側にいる人たちだとすれば、堤未果氏の「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書)は大きな波に抗う術を持たず、国家や企業に食い物にされている人々を取材したものです。トルストイの名言に、「幸福な家庭はみな同じだが、不幸な家庭はそれぞれである」といったものがあったように思いますが、貧困大国アメリカではちょうど逆です。堤氏の本に出てくる貧困者は同じ道筋を辿ります。例えば次のような。貧しくて医療保険に加入出来ない→病を得る→借金を抱える(NYでは盲腸の手術に250万円も掛かるとか)→食えなくなる→食べるために軍隊に入る→イラクへ派兵、とまぁこんな具合です。食えなくなる理由は、大学の学資ローンの支払いが出来なくなったり、家が貧しくて十分な教育が受けられず就職出来なかったり、リストラされたりといろいろありますが、その先で待っているのは食うために最後に残された選択肢である軍への入隊です。いや、他に選ぶ途がないので選択肢とは言えないかもしれません。堤氏は「いのち」、「くらし」、「教育」などの生活の根幹に関わることを、市場原理に委ねてはいけないと訴えています。しかし、アメリカではその根幹の部分を市場原理に委ね、その結果「いのち」、「くらし」、「教育」の分野へ進出しそこで儲けを出そうとする企業がサービスを受けるための対価を跳ね上げ、その支払いに耐えられず貧困層へ滑り落ちる人たちを生み出しています。そして、貧困者を生み出す市場原理が追い討ちを掛けるかのように、貧困者をさらなる食い物としていきます。イラクへ貧困者を送り込むのは軍だけではなく、民間の人材派遣会社も貧困者をリクルートして低賃金でイラクへ送り、巨利を得ていると知り驚きました。
 「アメリカン・コミュニティ」、「ルポ 貧困大国アメリカ」で取り上げられている流れに対して、現ブッシュ政権は棹をさす役割を果たしてきたと思います。もちろんこの2冊で語られていることがアメリカの全てではないでしょう。でも、それはほんの一部の極端な例でしょうか、それともアメリカ社会で看過できない規模をもって進行していることなのでしょうか。その意味で、今度の大統領選で国民がどのような選択をするか興味があります。先ずは、スーパー・チューズデー。その結果や如何に。

アメリカのいま、2冊の本から

2008-02-04 21:01:07 | Book
 市場原理の導入、グローバリズムと言えば、本家本元はもちろんアメリカです。その市場原理やグローバリズムによる弱肉強食の波を受けている中で、波にさらわれないために自らの橋頭堡を築こうとしている人たち、一方波にもてあそばれて貧困の淵にあえいでいる人たち、最近読んだアメリカに関する2冊の本には、このような人たちの姿が描かれていました。1冊は慶應義塾大学教授の渡辺靖氏による「アメリカン・コミュニティ」(新潮社刊)です。この本には、アメリカで際立った特徴を持つコミュニティの数々が紹介してあります。宗教的信条に忠実な生活を送りつつも、グローバリズムの流れを上手く利用して経済的な基盤を固めているコミュニティ(ニューヨーク州メープルリッジ)、地域のセキュリティを維持するために外部に対して文字通り物理的に門を閉ざし、人の往来を限定しているコミュニティ(カリフォルニア州コト・デ・カザ)、牛肉の卸価格の低迷に対抗するために牧畜業者の横の連携を強めつつあるコミュニティ(モンタナ州ビッグ・ティンバー)、などなど。それぞれの地域では、市場原理やグローバリズムに翻弄されないために、ある対抗原理、著者は随所でカウンター・ディスコース(対抗言説)という言い方をしていますが、その対抗原理を人々を結びつける紐帯としてコミュニティを作り、アメリカで力を揮っている強者の論理に対する緩衝材としています。人間集団の古典的分類法にゲマインシャフトとゲゼルシャフトというのがあります。この本で紹介されているコミュニティは、自ら意識して選び取った価値を紐帯として結びついている点や、メンバーの精神的および経済的平安のための、いわば選択的な価値を志向したコミュニティである点からすると、ゲゼルシャフト的様相を呈したコミュニティであると思います。市場原理やグローバリズムの波から身を守るべく築かれた防波堤であるとすれば、それは当然のことなのかもしれません。(つづく)