花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

葬式で人間の本性を暴かれないために

2010-08-01 10:59:23 | Book
 7月のとある日、朝日新聞の読書面を読んだ妻が、宮部みゆきさんの書き下ろし長編小説「小暮写眞館」(講談社刊)を読んでみたいと言いました。そこで、翌日だか翌々日に、会社の帰りに本屋へ立ち寄ってみました。最初、私は読むつもりはありませんでしたが、本屋で手にした700頁の厚みと重みに、何かそそられるものがあり、にわかに心変わりして、読んでみることにしました。朝日新聞の書評で、日本のスティーブン・キングに例えられるだけあって、宮部さんの新作はぐいぐい読ませる力を持った作品でした。英語でいうところの、page-turner とはこのような小説のことを指しているのでしょう。
 さて、その「小暮写眞館」を読んでいて、私がドキッとした文章がありました。それは、残り頁がかなり少なくなった頃、主人公家族が葬儀における血縁者の不人情について語り合う箇所で、「葬式ってのは、故人の生き方にはまるで関係ない。残された人間の本性を暴く場なんだ」、という文章でした。このくだりを読んで、すぐに思い出したのは、夏目漱石の「こころ」の中で、「先生」と「私」が、「私」の父親の財産について話している場面でした。「お父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰っておくように」と勧める「先生」に対して、「私」は、兄弟、親類に「別に悪い人間というほどのものもいないようです」と答えますが、「先生」は、これまたドキッとするようなことを言って反論します。「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 私は、そういうものなのか、と思いました。稀代のストーリー・テラーである宮部さんの世界に入ると、リアリティが有り有りで、お話の中でのことでありながら、これが世の常なのだろうという気になってきます。さらには、文豪夏目漱石まで、そうおっしゃっているのであれば、なおさらです。でも、ドキッとした半面、何だか釈然としないものがありました。と言うのは、きちんとした家庭であれば、葬式でゴタゴタしたりはしないだろうと思うからです。あるいは、そう思いたいからです。仮に性悪説に立つとしても、本性の悪が悪い行動となって現われないようにするのが、家庭での躾ではないでしょうか。存在と当為という言葉がありますが、存在が当為に必ずしも勝るはずはありません。子供が、存在にズルズルと引きずられずに、当為に向けて自分を律する力を育めるよう、親はモデルを示す責務があります。葬式でゴタゴタもめるということは、第一番目の責任はもめる当事者にありますが、二番目の責任はそんな子供にした親にあるのじゃないかと思います。
 小説の本筋とは関係のないところで、そんなことを考えたりしたものの、ともあれ、繰り返しになりますが、「小暮写眞館」自体はとても面白い小説です。朝日新聞の書評を読んで、面白そうだと思った妻のアンテナは、なかなか感度良好だったと思います。

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