花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

もうひとつの親ガチャ

2024-08-26 21:18:00 | Weblog

(フォーラム)女性の進学とキャリア:1 現状は:朝日新聞デジタル

(フォーラム)女性の進学とキャリア:1 現状は:朝日新聞デジタル

 8月21日は、日本で初めての女子大学生が誕生した記念日です。それから100年以上が経ったいま、若い女性たちは自由に学びの場や社会でのキャリアを選択できていると...

朝日新聞デジタル

 
 8月25日(日)付の朝日新聞朝刊に「女性の進学とキャリア」と題する記事が出ていました。記事では、47都道府県中、女性の4年制大学進学率が男性を上回っているのは徳島県ただひとつとあるなど、女性の学びづらさやキャリア形成に対して今なお残る偏見などがテーマになっていました。

 「経済協力開発機構(OECD)が2018年にまとめた調査によると、日本における女性の「高等教育の私的収益」(生涯賃金の上昇など大学や大学院で学ぶメリット)は、男性の13分の1に満たない」ことを記事は紹介していました。「13分の1に満たない」というのはかなり衝撃的ですが、それ以上に驚いたのは、都道府県別の進学率の差でした。

 記事内の2023年度男女別の4年制大学進学率のグラフを見ると、男女とも進学率が最も高い東京は男性約78%、女性約77%です。逆に低いグループである秋田県・岩手県・山形県・福島県・宮崎県・大分県・佐賀県は男性約42~45%、女性約37~40%でした。男に生まれるか、女に生まれるかよりも、どの都道府県に生まれるかの方が、大学進学に大きく影響することを示しています

 不勉強ながら凄い違いだなと思いつつも、びっくりの度合いが強すぎて、この差が日本の未来に関して意味するところまで考えが及びません。大学進学率の低い県では、諸々の事情により行きたくても行けないのか、それとも行かないなら行かないで構わないのか、そのあたりも分かりません。ただ、進学率の高い地域は進学への高いモチベーションが、低い地域は低いモチベーションが、それぞれに再生産されているであろうことは、想像に難くありません。

寝取られ亭主

2024-08-17 09:05:00 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「誰憚ることなく指差して嘲笑うことができるから、『寝取られ亭主』が現れるのを喜ぶ」 

 小説の舞台は20世紀前半の中国。職場の先輩が妻と懇ろになり逃げた。孝行や礼節のような道徳観に縛られた社会では、寝取られ亭主は逸脱者であり、彼に同情する人は周りの目を気にして声を掛けることが出来ない。噂に飛びついた多くの人は、寝取った方を責めるよりも寝取られた方を物笑いの格好の対象にしてしまう。思いやりを欠いた形式的かつ外面的な倫理が幅を利かせる中では、いつの世も返り血を浴びる心配のない獲物を探しては、日頃の息苦しさの憂さを晴らすのかもしれない。

老舎著「私のこの生涯」(平凡社刊)から

個人における態度決定

2024-08-03 09:24:00 | Weblog
 かつてあった「リベラル・コミュニタリアン論争」のことを不勉強のためよく知りませんでしたが、最近どんな論争だったのかちょっと気になり、ネットをチラ見してみました。極々大雑把ながら、リベラルとコミュニタリアン、それぞれの言い分をチラ見した内容を基に比較してみました。

■両者の言い分
・リベラル:個人の自由と権利を最優先する。国家は自由と権利を保障する制度である。個人は自由かつ自律的に合理的判断を行う。

・コミュニタリアン:一見個人の自由かつ自律的な合理的判断と見えるものも、自分が属する共同体や社会の価値観や思考の枠組みの影響を受けている。だから共同体や社会の善をないがしろにして、個人の自由と権利の伸長を過度に追求すれば、自分たちの足元を掘り崩すことになりかねない。

 さて、ネットでほんの表面をなでただけなので論争自体にコメントを差し挟もうとは思いません。ここからはチラ見した後の感想です。

 「個人の自由や権利が大切」と言われれば、「そうだよなぁ」と思います。そして、「社会的な善が大事」と言われれば、これまた「そりゃそうだ」と思います。私たちが政治的判断や何らかの態度決定を行う際、自分の頭で考え、その考えに責任を持つことを求められています。他人からの干渉を排除して、自律的で合理的に判断を下すことが当然視されます。一方、何も無いところからいきなり考えが浮かぶ訳ではなく、私たちの脳味噌は経験や環境、他人との関係性などから影響を受けながら形作られます。そのことからも、リベラル、コミュニタリアン、双方が重要視するものはともに不可欠であり、どちらの言い分にも頷けます。

 ここでふと思うのは、「個人」と「社会的なもの」は全く別のものとして対立するのではなく、同時共存的に層をなしているのではないかと。思考を紡ぐ主体には、自分自身が自由に考えていると意識している表層、共同体や社会の常識、通念、エートスなどが溶け込んで、知らず知らずのうちに考えを方向付けている中層、そして丸山眞男さんが言うバッソ・オスティナート(通奏低音)のように、私たちが生まれるずっと前から続いている歴史的なものによって成り立つ社会認識や状況への反応のパターンである深層、この3つの層を持っているのかもしれません。

 これら3つの層が、同一主体の中で、強弱や濃淡を変えながら、あるいはお互いに影響し、されながら、ものごとに対する判断や態度決定を形成していると考えてみたくなりました。もしこの考えに立つならば、「自分を大切にする」ということは、私と社会と歴史を大切にすることになります(注)。エゴイズムに対する防波堤になりそうでもあり、私たちと社会との関りを考えるうえで、ほかにも広がりを示してくれそうでもあります。

(注)
 私と社会と歴史を大切にすると言っても、無批判的金科玉条的に大切にする訳ではなく、大切にするからこそより良いものにしていこうとするのは当然であります。