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存在は無

存在は無

 ヘーゲルの論理学は存在は無であるという、ほとんど意味不明のテーゼから始まります。
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トルコの発展や勢いは今後も持続しうるか

『中東経済ハブ盛衰史』より

こうしたトルコの発展や勢いははたして今後も持続しうるものなのだろうか。大手日本企業をはじめ、トルコでの事業を拡大している外資系企業の経営者がその市場の魅力について一様に指摘しているのは、①人口動態からみて引き続き成長が見込め、かつ中間所得層が拡大していること、②生産拠点や輸出拠点としてみた場合、地理的な優位性に加えて、特に製造業分野で比較的、低廉で、質の高い労働力が得られること、さらには③政治の安定が期待できることである。

人口面でみると、トルコの人口は2011年央時点で7472万人を数え、中東・北アフリカ地域ではエジプトに次ぎ、ヨーロッパではロシア、ドイツに次ぐ規模となっている。しかも、その人口は若く、年齢中位数(人口を二等分する境界点の年齢)は2012年時点で30・1歳であり(EUは平均で37・7歳、日本は43・8歳)、生産年齢人口の増加は2040年くらいまでは続く見込みである。生産年齢人口の増加で高度な成長が期待できるいわゆる「人ロボーナス期」を迎えるのはまだまだこれからといえ、先進諸国はもちろんのこと、中国などの新興国でも少子高齢化が進むなかで優位性が見込まれる。一人当たりGDPも一般に耐久消費財などの消費が拡大するとされる1万ドルを超える水準となっており、中間所得層も拡大しており、内需の伸びも期待できる。日本企業でも拡大するトルコの消費市場の開拓を目指して、資生堂や昧の素などが2011年以降、新たに進出している。

生産年齢人口の「数」の増加に加えて、その「質」の高さも指摘できる。トルコ統計機構によるとトルコの平均賃金(月収、グロス)は2010年時点で1512トルコーリラ(約800ドル)と必ずしも低いとはいえないが、法定労働時間(週)は45時間とEU基準の40時間を上回っている。トルコ人労働者は適切なインセンティブがあれば超過勤務を厭わない傾向が強く、超過勤務時間は年間270時間程度と、EU諸国で一般的な年間120時間から150時間を大きく上回っている。とりわけ製造現場のトルコ人労働者は総じて勤勉で、欠勤率が低く、品質に関する意識が高く、細かい目配りができ、さらには所属している企業や組織への忠誠度が高いことなども進出した外資系企業の多くが指摘している。

トヨタ自動車でも同社の海外の工場の中でも一、二を争うほどトルコ工場の労働者の水準は高いとしており、2012年2月に本田技研工業やデンソーの工場があるイスタンブール近郊の地場の自動車部品工場を視察した日本の中小企業経営者なども「技術者や労働者が作業へ集中している姿勢は1970年代、全盛期の日本の製造現場と共通する」(愛知県の工具メーカー経営者)などと高く評価している。1990年代のトヨタ自動車、本田技研工業、YKK、2000年代前半のデンソー、豊田鉄工、三五など自動車部品メーカーの進出以降、しばらく止まっていた日系企業による製造業投資も2012年以降、住友ゴムによるタイヤエ場の建設やホシザキ電機による業務用冷蔵庫の生産、日清食品によるカップ麺の生産など次々と具体化してきている。

最後の「政治の安定」だが、1985年5月に訪日したオザルは当時の自由民主党による長期政権に多大な関心を持ち、経済発展のために同様の安定政権の樹立を目指したといわれている。確かに経済が低迷していた1970年代と1990年代のトルコでは不安定な連立政権と頻繁な政権交代が続き、安定的で効率的な経済運営が阻害された。この点でもオザルの構想は現在のエルドアン政権によって結果的に実現されたといえるが、政権長期化に伴う弊害をおさえつつ、引き続き安定政権を維持できるかどうかが鍵となろう。公正発展党(AKP)はかつての国民救済党(MSP)などとは異なり、確信的なイスラーム主義者だけではなく、様々な思想や背景を持つ党員や支持者を抱えるようになっている。これまでは軍や司法など世俗主義勢力との確執が続くなか、路線対立が目立だなかった同党がここ数年、顕著になった世俗主義勢力の退潮のなかで、現在の体制を維持しつつ、2014年8月に予定されている大統領選挙と2015年6月に予定されている総選挙でこれまでと同様、得票率を仲ばすことができるかどうかが注目される。

好調を維持している経済にも課題は少なくない。トルコ経済はリーマン・ショックを乗り越え、2010年、2011年と好調を維持したが、他方で貿易赤字及び経常赤字が拡大し、2011年には経常赤字は771億9900万ドルと対GDP比で10・O%に達した。国内景気の過熱とエネルギー価格の上昇からインフレ懸念も高まった。トルコ政府は総選挙が終わった2011年後半から特別消費税の引き上げなどの引き締め政策に転じ、2012年には成長率が3・2%に鈍化したものの、貿易赤字、経常赤字とも縮小した。こうした状況を勘案して、大手格付機関の一つ、フィッチは2012年11月にトルコのソブリン格付け(外貨建て長期国債の格付け)を「BBBマイナス」へと、経済危機を招いた1994年の格下げ以来、実に18年ぶりとなる「投資適格級」へと引き上げた。2013年にはムーディーズもこれに続いた。

インフレと経常赤字に対し引き締め政策をとることは教科書的ともいえるが、2013年半ば時点でみるとGDPの項目別でおよそ7割近くを占める民間消費を過度に冷やしたのか、景気の減速が目立っている。さらに、「トルコ経済の最大の問題であり、弱点」といわれてきた経常赤字をもたらしている構造的な要因は解決されていない。それはかつてエルバカンが指摘していた部品・中間財を輸入に依存する組立加工型の産業構造と国内での付加価値創造の相対的な低さであり、輸出産業の総体的な発展にもかかわらず、依然として好況が続くと国内で生産できないより高付加価値な製品や部品・中間財等の輸入が増え、貿易赤字を主因とする経常赤字が拡大するという構造が続いている。自動車産業でもエンジンや電子部品、外装鋼板、パワートレインなど付加価値の高い部品・材料は依然として輸入に依存しており、ヅェステルとアーチェリック(Arcelik)という二大メーカーが周辺市場に向けて輸出を拡大している家電製品でも例えば薄型テレビの部品の国産化比率は2割程度である。
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ジョン・フォン・ノイマン

『ビューティフル・マインド』より

ジョン・フォン・ノイマンはプリンストン大学数学科の最高に輝かしい星、数学新時代の主導者である。四五歳のころには、二〇世紀の生んだもっとも国際的で、多才で、「知的な」数学者として全世界に認められていた。アメリカの知的エリートのなかでも、数学上の新発見において彼に匹敵するだけの大きな貢献をしたものはいない。フォン・ノイマンは、オッペンハイマーほど名士然ともしていなければ、アインシュタインほど遠い存在でもなく--ある伝記作家が述べているように--ナッシュたちの世代の生きた手本であった。学生たちに、直接の忠告や助言もたびたびしたが、それ以上に存在自体がプリンストンに大きな影響を与えた。「誰もがフォン・ノイマンに惹きつけられました」とは、ハロルド・クーンの回想だ。ナッシュも、その魔力にとらわれたひとりだった。

おそらく、最後の真の万能学者ともいうべきフォン・ノイマンは、めざましい業績--六つの業績--を残した。高度に抽象的な数学を用いることで、新たな見通しが開かれるのではと思えば、彼はどんな領域にでも、怖れることなく、それもことあるごとに踏みこんだ。その試みはエルゴード定理を初めて厳密に証明したことにはじまり、気象をコントロールする方法の確立、爆縮型原爆の考案、ゲーム理論の提唱、さらには量子力学の基礎となる作用素環の研究、プログラム内蔵型コンピュータの構想にまでおよんでいる。三〇歳になるころには、純粋数学の巨人であるとともに、物理学者、経済学者、兵器の専門家、コンピュータの予見者と見なされていた。一五〇の論文を著し、そのうちの六〇が純粋数学、二〇が物理学、六〇が統計学やゲーム理論を含む応用数学である。一九五七年に五三歳で癌に倒れたときは、人間の脳の構造に関する研究を進めている最中だった。

禁欲的で超俗的な態度ゆえに、旧世代のアメリカ人数学者に偶像視されたケンブリッジ大学の数論学者G・H・ハーデイと異なり、フォン・ノイマンはきわめて現世的でエネルギッシュな人間だった。政治を毛嫌いし、応用数学に不快感を示したハーデイは、詩に対する詩人や、音楽に対する音楽家のように純粋数学を、それ自身を深く追究して美を生み出す最高の学問と見なしていた。だがフォン・ノイマンは、純粋数学と実用性の高い技術的問題とのあいだに、あるいは孤高の思想家と政治活動家とのあいだに、なんら区別をつけることがなかった。

ニューヨークやワシントンやロサンゼルスヘ向かう列車や飛行機に気軽に乗りこみ、学者としてははじめて、たびたびニュース種になるような発言をした。一九三三年に高等研究所へおもむくと講義を放棄し、五四年には研究一辺倒の生活を捨て去って、原子力委員会の主力メンバーとなる。そしてアメリカ国民に対し、核爆弾とロシア人をどう考えるか、原子エネルギーをいかに有効利用するかを語り聞かせた。ソ連に対する先制攻撃に積極的に賛同し、核実験を支持する熱烈な冷戦の闘士。このため、六三年に上映されたスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』の主人公、核戦略家ドクター・ストレンジラブのモデルは彼である、という噂まで生まれた。二度結婚し、常に裕福に暮らし、高価な衣服、強い酒、スピードの出る車、おまけに下世話な冗談を好んだ。いっぽうではワーカホリックで、無愛想、冷酷と言われることもあった。プリンストンでは、フォン・ノイマンは人間そっくりにふるまっているが実は宇宙人である、というジョークがまことしやかに飛び交っていた--もっとも当人の耳には、この噂はまったく入らなかったが。とはいえ、人前ではいつもハンガリー人特有の愛敬とウイットをふりまき、フォン・ノイマンをよく知る数学者ポール・ハルモスが言うには、高級住宅街ライブラリー・プレイスにある邸宅では「だびたびパーティが開かれ、それを知らないものはなく、たいていは長時間におよんだ」。四か国語を駆使し、矢つぎばやに繰り出される彼の話題は、歴史から政治、株式市場にまでわたった。

記憶力は抜群、頭脳の回転もけたはずれ。電話番号はおろか、ほとんどなんでも一度見聞きしただけでたちまちおぼえてしまう。みごとな計算能力を発揮して、自分が製作したコンピュータに暗算で勝ってしまったなどという話は数知れない。ハルモスは、コンピュータをはじめてテストしたときのことを追悼文のなかで紹介している。「下から四桁目が7となる整数を得る、2の累乗の最小値は何か?」という問いに対し、「フォン・ノイマンは機械と同時に計算をはじめるのですが、彼のほうが先に答を出してしまいました」
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本と読書の将来

『歴史学の将来』より 歴史家の将来

ここまでに私は、現時点(二〇一一年)における歴史学の現状について多くのことを、おそらく多すぎることを書いてきた。ある意味では楽観的に書いてきたつもりである。「歴史」には未来があると書き、新しい歴史好きが拡がっていると書いた。いまでもよい歴史書が執筆され出版されており、歴史は小説を吸収するかもしれないとさえ書いた。こうした動きの一部はこれからも続くだろう。だが私は将来について楽観的にはなれない。

私たちは、現時点で見通せること以外、将来について多くを知ることはできない。それでも、これは起き、あれは起きないだろうと言うことができる。先見は予言とはちがい、過去に起きたことに関する知識と理解と、ときに洞察に基づいている。このような先見によって、私たちはこれとあれは起きないと見抜き、これとあれはひょっとすると起きるかもしれないと留保する。歴史の動きは機械的ではなく、時計や振り子のように規則正しくもない。振り子は弧の先端に到達すると揺り戻すが、歴史の振り子は、先端に達するとあらぬ方向に向かう。

というわけで私に一つ言えるのは、揺り戻しはないだろうということである。アメリカの学校では歴史の授業がさらに減るだろう。優秀な若い学生が、歴史学の博士号を必要とする職業に就くケースは一段と減るだろう。優秀な学生たちでさえ、すでに読書量がどんどん減っていることがわかっている。さらに悩ましいのは、目下の歴史書や伝記への関心がいつまで続くかわからないことだ。比較的最近の現象である歴史ブームは主流となるのだろうか。それは出版社と広告媒体次第であるが、後者は必ずしも乗り気ではない。民主主義の時代には、大流行していたものが宣伝されなくなったとたんに消えてなくなる例が後を絶だない。いまのところ、出版社は歴史のほうが小説より売れることを承知している。だがこの状況をうれしがっているかと言えば、そうは見えない。五〇年ほど前から、出版社は目先の利益に拘泥するようになった。テレビ局や映画会社も同じである。現代のさまざまな出来事の構造は、人々の興味や関心の動向を含めてきわめて複雑で、どこまでが広告の操作に影響されているのかを識別するのはむずかしい。だからといって、現代を「消費社会」と称するのは適切ではあるまい。なぜなら生産物の消費は、現実の消費と潜在的な消費の創出(こちらのほうが生産よりはるかに複雑である)に左右されるからだ。一例を挙げるなら、新聞の衰退ひいては消滅は、単に入手可能な情報の減少だけでなく、読書習慣の減退につながる。

多くのまじめな歴史学者にとって、本を出版する機会は減っており、条件も急速に悪化している。大半とは言わないまでも多くの大学出版局では、初版の刷り部数が五〇〇部か、もっと少なくなっているのだ。主な原因は、専門的な歴史書を必ず購入する大学図書館の数が従来の半分以下に減ったことにある。その結果、本格的な学術書を始め、専門家の書くものは軒並みひどく高価になってしまった。さらに悪いことに、それらは一般の本屋の棚には並ばない。かってはそうした本を取り揃えていた大学内の書店でさえ、扱わないのである。こうした退行現象が続げばこの先どうなるのか、考えるだけでもおぞましい。希望に満ちた若手研究者は、とりわけ意気消沈していることだろう。

現在の歴史家に見られるプロとアマの差が今後縮まるのか、それとも拡がるのかは、私にはわからない。本書、とくに本章で主に取り上げるのは、プロの歴史家が抱える現実および潜在的な問題であるが、ここでもう一度、「アマチュア」の定義を確認しておこう。アマチュア歴史家とぱ、大学の先生や研究者でない歴史の書き手を意味する。彼らの歴史を書く意欲や歴史に対する関心はおそらく消えないだろうし、薄れもしないだろう。それどころか、近い将来に書かれる最高の歴史(単に読みやすいとかおもしろいという意味ではない)はアマチュア歴史家の手になるものだろうと私は思っている。だがここで、私のしょぼくれた目で将来を精一杯凝視してみよう。もし本というものが消えてしまったら、彼らの目的はどうなるだろうか。書き手の目的は、結局のところ、本が出版され、できるだけ多くの人、多種多様な人に読んでもらうことにある(アマチュア歴史家のこの目的は、少なくとも一部のアカデミックな歴史家よりは明快である。後者の場合、本を書くのは出版するだけでなく、学界での地位を強化するという目的がある)。歴史を書くのは、少なくとも私の知る限りでは、やはり本にして世に出すためではないだろうか。この点については、最後の章で触れることにしたい。

では、いま一度、歴史家という職業に戻るとしよう。言語から映像の時代へ、新種の危険に満ちた新たな未開へと移行する大過渡期はすでに始まっている。この過渡期において、歴史家にはどんな仕事と責任があるのだろうか。
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不確実性時代のエネルギー選択 どう進むべきでしょうか?

『不確実性時代のエネルギー選択のポイント』より

どう進むべきでしょうか?

 私たちは、本当に例外的な時代に生きています。それは「便利なエネルギー利用の時代」です。そのことに思いをいたすことはあまりないかもしれません。たとえば、乗用車の燃料タンクを満タンにするときには、自宅のコンセントから電気自動車の電池を充電する場合に比べて5000倍も速く行っています。そして、その燃料の重さは、電池を使う場合に比べてずっと小さなものです。航空機での旅行に至っては、液体燃料なしには不可能だったでしょう。家庭には、エネルギーは電線やパイプを通じて、無言で目にも見えずに届きます。

 エネルギーがそんなにも便利に(しかも安く!)使えますので、私たちは今後の世代にとって持続可能でない速さで消費しています。すなわち、私たちは現在のおもなエネルギー源である化石燃料を枯渇させようとしているのです。またそれによって、私たちの気候を危機に瀕させているのです。

何をすべきでしょうか?

 私たちの多くにとって、すなわち地球上の豊かな世界に生活している者にとって、まずすべきことは簡単です。私たちのライフスタイルのすべてに厳しい目を注いでみましょう。航空機利用を少なくし、車シェアを利用し、ゆっくり運転し、冷暖房をもっと効率よく行いましょう。端的にいえば、エネルギーを賢明に利用するとともにそれが正義と世界の平和につながっていることを意識しましょう、ということです。

 私たち「全員」、すなわちこの特別な時代に地上に生を受けた者全員は、もっと大きな戦いに挑まなければなりません。それは、代替品を開発するということです。安くて高効率の太陽電池を開発するのに、もっともっと努力しましょう。光合成の改善に努力しましょう。地熱エネルギーの可能性を追求しましょう。エネルギー貯蔵法について知恵を絞りましょう.

 2011年3月の福島原発事故によって、私たちはこの世界が分岐点に立っていることを深刻に認識させられました。原子核分裂による原子力発電所は全廃(たとえば、日本、ドイツ、スイスがそうしようと検討しているように)して、原子核分裂による原子力発電所のない未来を実現したほうがよいのでしょうか? または、原子力は今後しばらく世界の主要なエネルギー源であり続けなければならないのでしょうか?

 後者を選択した場合、現在世界の電力の13.5 %,全エネルギー消費量の5%を発生している原子力に今後もっと主要な役割を果たさせるには、かなり大きく拡大する必要があります。そうなると、ウランの供給量が限られていますので、増殖炉への転換も必要になってきます。

 前者の核分裂エネルギー全廃を選んだ場合、とにかく時間かせぎをしなければなりません。真の意味で再生可能エネルギー(それには原子核融合を含む)が私たちの手に入るまでの時間が必要なのです。この選択をした場合には、世界のエネルギー使用量を「今までのやり方で」という安易なシナリオで拡大させることは許されないでしょう。もっと賢明で理性的なエネルギー使用法が必要になってきます。エネルギーを大量使用することが前提になっている現在の私たちのライフスタイルを、大きく舵を切って変える必要があります。この点からは, 2008年のりーマンショックを引き金にした世界の大不況は、変装して私たちの前に現われた祝福の神様かもしれません。

 どのような選択をしても、私たちはあらゆる分野で可能な方法で行動を起こさなければなりません。私たちがどう行動するか(または行動しないか)は、これからの世代の生活の大勢を決めることになるでしょう。そして、それはこれからの世代が振り返って、私たちをどう思うかを決めるでしょう。私たちは誇るに足る未来を彼らに引き継ぎましょう。
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豊田市図書館の29冊

801.7『よくわかる翻訳通訳学』

501.6『自然エネルギーと環境の事典』

801.1『世界の文字の歴史文化図鑑』ビジュアル版 ヒエログリフからマルチメディアまで

673.3『商品よりも「あと味」を先に売りなさい』リピート率7割の〝心づかい〟の接客

453.02『地震と人間の歴史』シリーズ人と自然と地球

407『ヒラノ教授の論文必勝法』教科書が教えてくれない裏事情

339.05『東京海上日動の抜本戦略』代理店成長モデルの実証

494.5『がん患者力』日本のがん医療のこれが現実! 患者が身を守る29の知恵

140『心理学の本』驚くほどわかりやすい 人間のふしぎな行動の謎をとく 図解決定版 なるほど、人のココロが見えてきた ミステリアスな〈人の心〉の奥底をやさしい心理学で解き明かす!!

537.09『モータリゼーションと自動車雑誌の研究』戦前から現在に至るまでの日本のモータリゼーションと自動車雑誌の変遷を追いながら、関係者の証言と当時の雑誌記事の図版とともに、その興隆を振り返る

989.26『ハーグ国際法廷のミステリー』旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の戦犯第一号日記

497.6『歯医者のウソ』

913.6『TVピープル』

297.17『いいね! メルボルン』シリーズ 地球に生きる2 オーストラリア

289.3『ケネディ家の呪い』

778.04『映画で異文化体験』異文化コミュニケーション講座

702.37『レオナルド・ダ・ヴィンチ論 全三篇』

134.96『存在と時間』

304『ポエムに万歳!』

778.77『続・風の帰る場所』映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか

141.51『不合理』誰もがまぬがれない 思考の罠100

292.37『タイ』

778.77『アニメーション、折にふれて』

332.27『中東経済ハブ盛衰史』19世紀のエジプトから現在のドバイ、トルコまで

316.1『人権をめぐる十五講』現代の難問に挑む

312.53『JFK』CIAとベトナム戦争、そしてケネディ暗殺

293.09『ヨーロッパ鉄道旅行2014』裸身特選ムック 人生が楽しくなる バルセロナ&マドリッド発 魅惑のスペイン鉄道紀行 www.raileurope.jp

280.7『自分史の書き方』

796.04『羽生善治対談集』
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役割のミッション

自分の内側と外周がつながる時

 全てを知りたいのために、自分の周辺に降ってくる出来事を掴まえていては、全てを知ることはできないでしょう。

 自分の内側から、一番外に向かって言って、そこから答えを取り囲むしかないかもしれない。内側に内側に向かえば、外周に出られます。この方程式はLL=GGです。答えは内側にある。

 デカルトの生活規範に憧れたのは、あの中に、哲学的な意味を感じたから。内側の世界と外の世界を分けるんだ。

 外の接触で何かを得るというよりも、内側の世界からやっていくから、そこはガードを掛ける外の世界からは妨害されないようにしていく。特にあの17世紀。

 哲学を創るけど、その意味は、もっと大きな力を使うためです。会社での大きな力というと、社長とかになるけど、一番大きな力は歴史の力であり、歴史を動かす存在の力、それさえあれば、逆にそれがなければ、何も変わらなくて、このまま、滅亡するでしょう。ルターにしても、ルソーにしても同じ感覚だと思います。

 そして、LL=GGのパスを開くことです。すべてのことに関与する意味が一つの方程式に表されます。多くの人に、このパスが開かれれば、その時点で、社会も歴史も変わっています。

 全てを知るために、哲学を作りましょう。表しましょう。宇宙の端から攻めるしかないでしょう。

役割とミッション

 役割をミッションとしているけど、これは本来は、相互対応役割理論からすると、他者から期待されているということらしい。

 私の役割は、内から出てきます。それが本当の役割です。生まれてきた理由です。そこにも、意思の力と存在の力の区別があります。自分の内から出てきた役割を果たすためには、やはり、哲学が必要です。構造主義ではダメです。他者からの役割を求めてはダメです。

 同じような言葉で、ミッションがあります。これはキリスト教から来ています。ミッションスクールみたいな使い方です。ここでの使命は、神から与えられたもの。こういう役割もあります。これも思想から出ています。内からの役割からやっていくカタチ。

 神がなくなった時に、ミッションはどうなったのでしょうか。それを求めたのは、構造でしょう。相互関係で見ていくものです。ベースとなる、内なるミッションという哲学ががなかった。そこで始まったのは、観念論だったけど、それは途中で終わった。

 観念論で持って、どこに持っていくのか、単に引っ込むだけではダメです。内なる世界と外周をつなげていくことです。

新しい数学

 ライプニッツは微積分の数学者だったんだ。それで知っているんだ。構造化と役割は一緒です。役割を変えれば、新しい哲学ができます。新しい数学を作るのと、新しい哲学をつくることはイコールです。

 モナドという構成要素、それまでは単体だったけど、それで物質の連続性が出てきた。位相幾何学は連続が一番のポイントです。近傍系そのものが、連続を保証する、一番最小の単位です。連続を気にするのは、数学者ぐらいしかないでしょう。世の中の現象がほとんど、ディスクリートに見えるから、だけど、裏に連続性があるからつながるのです。どうやって、新しい数学と新しい数学を蓄えていくのか。

神出鬼没のmm

 昼食を食べて、上に来たら、mmが居た。おかげで挨拶できた。本当に特効薬です。ネガティブな気分が吹き飛んでしまった。最期に助けてもらった。

役割分担と機能分化

 複数の役割を持つの意味があるのは、この体現みたいです。社会が複雑になることがそれを指している。役割分担からすると、個人商店が大きな会社に対して、役割分担する。逆に言うと、それが組織のようになってきた。

 そこで、自分の役割を整理して、それで効率を求めるカタチになる。その時は自分の役割を果たさないといけない。

 だから、全体が複雑に一方で、それを整理して、個別化できるようにするという、機能分化。機能分化は社会は近代化する上で、重要な要件としている。機能分化を逆に見ている感じですね。文化そのものを。

 役割の分化でのポイントは一貫性です。哲学者として、上位の役割からの一貫性です。

インフラを見るメガネ

 もし、あなたがクルマが透けている目が目を持っていたら、いかに、インフラ(道路)を少ない人数で使っているかということが見えるでしょう。

 本当は、クルマでなくて、もっと透かしてみたいものがあるけど。
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看護情報学の「情報とよりよい意思決定」

『看護情報学』より 情報の定義と特徴 情報とは

①情報とよりよい意思決定

 私たちは、日々なんらかの問題に直面している。ストレスに感じることもあるが、それを解決することで生きていける。 したがって、生きていることは問題解決の連続でもあるが、それを糧として問題解決力を養い、生きる強さを身につけていると言ってもよい。問題にぶつかれば、現在の方法をかえたり、新たな解決方法さがしを迫られたりすることもある。そのときどうするかを、どのように決めているであろうか。決め方、すなわち意思決定の方法には、よりよいものがあることが知られている。よりよい意思決定では、結果が納得いくものになりやすく後悔が少なくてすみ、多少結果がわるくても、よく考えた自分に納得がいく。

 衝動買いは、「こんなに安いのにいま買わないと誰かに買われてしまう」などと、そのときの感情や気分で決めていることが多い。また、買い占めはいけないとわかっていても、実際に行っている人を見たあとに、残りわずかな商品を見れば、残り全部を買いたくなる感情も生じるかもしれない。よりよい意思決定は、そのような一時的な感情ではなく、「情報」に基づいているといわれる。 それでは、「情報」とはどのようなものであろうか。たとえば、がんの治療効果判定に用いられる5年生存率という指標がある。図は胃がんと診断された人が、それから5年後に生存している割合をあらわしたものである。胃がんでは、早期のがんなら100%に近く、進行したがんなら10%前後となっている。これは、言うまでもないが、過去におこったことについてのデータdataである。そして、これを未来にあてはめてみると、期待される確率となる。進行したがん患者が、このデータを知れば、5年後までに死亡する確率は90%前後と予想ができる。そこで、5年以上生きるかもしれないと思いつつも、5年以内でできることをしておこうと考えるかもしれない。人によっては、自分はもっと長く生きてみせると長い計画を立てるかもしれない。このデータをどういかすかは、人それぞれである。

 そもそも、人間にはさまざまな人がいる。人々におこる未来のできごとは、不確実なものである。こうすれば必ずこうなると、100%保証されているものは少ない。それでももし、おこる確率についての情報が手に入るのであれば、それをもとに予想してみたいと考えるものである。そのため、「情報」とは、それが持つ役割から、「不確実性を減らすもの」ともいわれる。

②情報と確率

 こうして現代では、未来のできごとのおこりやすさについて、確率であらわすことが増えている。お天気も降水確率であらわされるし、スポーツでもさまざまな「○○率」が導入されている。健康や医療に関しても、「肥満する確率が高い」「生活習慣病になる確率が高い」「治る確率が高い」という情報があふれている。現代は、「リスクrisk社会」2)ともいわれる。リスクは、目には見えず、実態はないものであるが、あると思えばある。そのようなものに対する関心が、高まった時代である。

 ではリスクとはなんであろうか。次の式であらわされることが多い。リスク=損失の発生確率×損失の大きさ

 たとえば、原子力発電所は、事故がおこれば損失の大きさははかりしれない。

 それでも受け入れてきたというのは、発生確率がOに近いとみなし、リスクも0に近いとしているからである。ただし、たとえそうでも、あくまで0ではないことは確かである。このリスクという確率的な見方が、ますます生活の中に 浸透してきている。

 「くすりは(反対から読むと)リスク」と言われる。医療行為というものは、治療のためにリスクをおかすことでもある。そのため、それを行う者は、専門職として制度化され、特別な教育を受けているのである。

 以前は、患者や市民は、そのようなリスクについての情報は知らされていなかったし、知ることもできなかった。しかし、消費者の知る権利への意識の高まりは、保健医療サービスの消費者(欧米では患者を消費者とよぶ場合が多い)でも同様である。治療やケアの方法として、どのような選択肢が考えられ、それぞれの効果やリスクを知ったうえで、自分で意思決定できるという、自己決定が重視されてきている。このために、確率を扱う統計学は、ナイチングールNightingaleなどの創始者らと、そのあとを継ぐ者たちによって発展してきた。そして、確率を広い範囲に伝達できる情報化の進展が、自己決定を支えているのである。
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17世紀は世界の底が抜けたとき

『哲学者たちのワンダーランド』より

あらためて紹介しておこう。ホッブズ(1588-1679)はイギリスの哲学者。九十一歳まで生きた。デカルト(1596-1650)はフランスの哲学者。ホッブズと論争している。スピノザ(1632-1677)はオランダの哲学者でュダヤ人。そして一番若いライプニッツ(1646-1716)はドイツの人。彼は晩年のスピノザにわざわざ会いに行っている。本書ではおもにこの四人に登場してもらう。ライプニッツだけは十八世紀にかかっているが、その意味はあとで触れることにする。

十七世紀は、いわば世界の底が抜けてしまった時代だ。よく言われるように、科学の勃興とともに世界は地球中心に閉じた宇宙からどこにも中心のない無限宇宙になる。地理的にも大航海とともに西洋の外部が露呈してくる。政治的にはチャールズー世の処刑に象徴される革命の時代だ。いろんな意味で、それまで自明だった足元の支えがふっと消え、底が抜ける。そんな世紀である。そしてこの時代、哲学も底が抜け、ある種の「無限」が口を開く。

たとえばデカルトのテキストには至る所に無限が顔をのぞかせる。宇宙の無限、神の無限。そして人間が決断する意志の無限。とりわけ神の意志の無限はそら恐ろしい。デカルトの考えでは、2足す3が5になる、今の瞬間に次の瞬間が続く、といったことには何の必然性もない。ただ神が意志してそのようにしているからそうなっているというのである。もちろん、神はもし欲するならそうでないようにすることもできた。いや、今この瞬間にも、できないわけではない。デカルトは本気でこんなことを考える。すべては制約なき神の意志にかかっており、2足す3が5でないこともそれ自体としては不可能ではない。しかしもしそうなら、世界は計り知れない神の意志に支えられてかろうじてこんなふうになっているだけで、いつ底が抜けてもおかしくないではないか。いや、実はもう底は抜けていて、私が気づいていないだけかもしれない。底が抜けてもなお、これだけは動かすことが不可能だと言えるようなものがはたしてこの世に一つでもあるだろうか。デカルトの確実性の探求は、こんなふうに底なしの無限に飛び込むところから始まる。

スピノザも同じぐらい過激である。スピノザの無限は外がないということを特徴としている。彼が定義し証明する『エチカ』の神は、それ自身で存在する外なき無限である。どこまで行っても外がないので、存在するすべてはその中になければならない。だからわれわれの現実がこれしかないのは当然で、神が現実そのものなのである。こんなふうに、スピノザでは世界自身が底なしの無限者になってしまう。およそ起こりうることはすべて神の必然から起こり、必然は神の無限の力能そのものである。そうスピノザは考えていた。

ホッブズの場合は国家論に無限が現われる。『リヴァイアサン』は共通の権力が存在しない自然状態を考える。するとそこでは不正を判定する第三者が存在しないので、各人は自分のためならどんなことでもしてよい権利がある。これがホッブズの言う「自然権」、無制約の自由である。ホッブズのプロジェクトは、われわれはこの法外な無限をどう処理しえているのか、という問いをめぐっている。何をしても不正でないということは、何をされても不正呼ばわりできないということだ。無限の権利は互いに両立しない。そのままだと「万人の万人に対する戦争」は必至である。これを回避する道はただ一つ、自然権を放棄しそっくり主権者に譲り渡すという契約を相互に結ぶ、あるいは結んだことにする。これしかないとホッブズは言う。ホッブズの解決は、契約による無限の転位に存する。今度は国家が無制約の自然権を持つことになり、国家はそれ自身のためなら何をしてもよい権利がある。ホッブズの政治世界はこんなふうに至高の権力のところで底が抜ける。彼が国家を最強の怪物レヴィアタン(リヴァィアサン)に喩え「可死の神」と呼んでいるのは酔狂ではない。
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中分類の説明 7. 生活

7.1 自分は考え抜くための存在とする

 何となく生活を始めていたけど、存在と無からのインパクトが増してきた。他人の存在を信じない以上は、独りぼっちの生活になる。好奇心を旺盛にして、考え抜く人生でありたい。考えるために、アナログ・デジタル・ハイブリッドのツールを工夫してきた。人生を単純に、生活規範に基づいて、考え続ける。

7.2 ミッションを設定し内なる生活を追求

 生活の中にミッションを設定した。家族関係、身体とも散々な状況なので、内なる生活を中心に、プロの生活で生きていく。目的のために、自分だけの世界を追求し、会社は自分のために使い切る。数学者、社会学者、歴史学者、そして、未来学者として考える。私は行動せずに、観察して、意見を出すだけです。

7.3 孤立した存在ながら、社会に向かう

 孤立した存在から社会に向かうことにした。組織に超える存在として、無限次元空間から発信する。自分を使い切るために、夢を持ち、存在を掛けて、変革のシナリオを描き上げる。企業、本の情報から、思いをつないで、社会を見ていく。サファイアの考えで、知識と偶然で社会変革のシナリオを描く。

7.4 全てを知りたいという思いをカタチに

 全てを知ることは手段であり、目的です。考えることは生きることとして、本で分化してきた。そのために組織は使うモノです。もう一人のμと対話し、発信し続けて、無為な生活に向かう。存在の力を信じて、つながる瞬間を生きがいにしている。先行きと全体を知った上で、問われれば応える。

7.5 与えられた時間を自由に使う

 生活は与えられた時間は自分のために使う。気がかりなのは、パートナーの存在だけです。仕事と生活を未唯空間を作りことに集中します。偶然の意味を知った上で、未唯空間から歴史観を作る。奥さんとの関係、海外旅行などの自由な行動を続ける。存在の力を活かして、最後まで考えられる拠点を作り出す。

7.6 未唯空間を未来につなげる

 最大の課題は、未唯空間を未来につなげることです。図書館の使命を存在と無で考えて、社会の位相化のイメージができてきた。経緯も含めて、未唯空間のエッセイを書いて、社会の指針としたい。未唯空間の表現から社会ライブラリを作り出す。あわせて、異動の目的である、メーカーの生き残り策を提案する。

7.7 全てを知った上で考えを表現する

 全てを知ることの意味を追求します。全てを知るために時間を集中させ、大いなる意思が用意してくれる偶然でつなげていく。全てを表すこと自体にも意味がある。そして、書くこと。心のフィルターの存在を確認して、未唯空間に全ての思いを入れ込む。未唯宇宙の結論としての歴史の分岐点をめざす。

7.8 サファイア革命に挑戦する

 存在と無から始まった、生活編の最終段階です。未唯空間から、新しい数学とか歴史哲学などを表して、数学的世界観の正当性を示します。組織の分化から、会社を変え、地域・日本を変えるシナリオを示す。未来学者の自己満足として、歴史の分岐点を預言する。全てを知ることから存在の力を示し、存在の無に向かう。
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