『ビューティフル・マインド』より
ジョン・フォン・ノイマンはプリンストン大学数学科の最高に輝かしい星、数学新時代の主導者である。四五歳のころには、二〇世紀の生んだもっとも国際的で、多才で、「知的な」数学者として全世界に認められていた。アメリカの知的エリートのなかでも、数学上の新発見において彼に匹敵するだけの大きな貢献をしたものはいない。フォン・ノイマンは、オッペンハイマーほど名士然ともしていなければ、アインシュタインほど遠い存在でもなく--ある伝記作家が述べているように--ナッシュたちの世代の生きた手本であった。学生たちに、直接の忠告や助言もたびたびしたが、それ以上に存在自体がプリンストンに大きな影響を与えた。「誰もがフォン・ノイマンに惹きつけられました」とは、ハロルド・クーンの回想だ。ナッシュも、その魔力にとらわれたひとりだった。
おそらく、最後の真の万能学者ともいうべきフォン・ノイマンは、めざましい業績--六つの業績--を残した。高度に抽象的な数学を用いることで、新たな見通しが開かれるのではと思えば、彼はどんな領域にでも、怖れることなく、それもことあるごとに踏みこんだ。その試みはエルゴード定理を初めて厳密に証明したことにはじまり、気象をコントロールする方法の確立、爆縮型原爆の考案、ゲーム理論の提唱、さらには量子力学の基礎となる作用素環の研究、プログラム内蔵型コンピュータの構想にまでおよんでいる。三〇歳になるころには、純粋数学の巨人であるとともに、物理学者、経済学者、兵器の専門家、コンピュータの予見者と見なされていた。一五〇の論文を著し、そのうちの六〇が純粋数学、二〇が物理学、六〇が統計学やゲーム理論を含む応用数学である。一九五七年に五三歳で癌に倒れたときは、人間の脳の構造に関する研究を進めている最中だった。
禁欲的で超俗的な態度ゆえに、旧世代のアメリカ人数学者に偶像視されたケンブリッジ大学の数論学者G・H・ハーデイと異なり、フォン・ノイマンはきわめて現世的でエネルギッシュな人間だった。政治を毛嫌いし、応用数学に不快感を示したハーデイは、詩に対する詩人や、音楽に対する音楽家のように純粋数学を、それ自身を深く追究して美を生み出す最高の学問と見なしていた。だがフォン・ノイマンは、純粋数学と実用性の高い技術的問題とのあいだに、あるいは孤高の思想家と政治活動家とのあいだに、なんら区別をつけることがなかった。
ニューヨークやワシントンやロサンゼルスヘ向かう列車や飛行機に気軽に乗りこみ、学者としてははじめて、たびたびニュース種になるような発言をした。一九三三年に高等研究所へおもむくと講義を放棄し、五四年には研究一辺倒の生活を捨て去って、原子力委員会の主力メンバーとなる。そしてアメリカ国民に対し、核爆弾とロシア人をどう考えるか、原子エネルギーをいかに有効利用するかを語り聞かせた。ソ連に対する先制攻撃に積極的に賛同し、核実験を支持する熱烈な冷戦の闘士。このため、六三年に上映されたスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』の主人公、核戦略家ドクター・ストレンジラブのモデルは彼である、という噂まで生まれた。二度結婚し、常に裕福に暮らし、高価な衣服、強い酒、スピードの出る車、おまけに下世話な冗談を好んだ。いっぽうではワーカホリックで、無愛想、冷酷と言われることもあった。プリンストンでは、フォン・ノイマンは人間そっくりにふるまっているが実は宇宙人である、というジョークがまことしやかに飛び交っていた--もっとも当人の耳には、この噂はまったく入らなかったが。とはいえ、人前ではいつもハンガリー人特有の愛敬とウイットをふりまき、フォン・ノイマンをよく知る数学者ポール・ハルモスが言うには、高級住宅街ライブラリー・プレイスにある邸宅では「だびたびパーティが開かれ、それを知らないものはなく、たいていは長時間におよんだ」。四か国語を駆使し、矢つぎばやに繰り出される彼の話題は、歴史から政治、株式市場にまでわたった。
記憶力は抜群、頭脳の回転もけたはずれ。電話番号はおろか、ほとんどなんでも一度見聞きしただけでたちまちおぼえてしまう。みごとな計算能力を発揮して、自分が製作したコンピュータに暗算で勝ってしまったなどという話は数知れない。ハルモスは、コンピュータをはじめてテストしたときのことを追悼文のなかで紹介している。「下から四桁目が7となる整数を得る、2の累乗の最小値は何か?」という問いに対し、「フォン・ノイマンは機械と同時に計算をはじめるのですが、彼のほうが先に答を出してしまいました」
ジョン・フォン・ノイマンはプリンストン大学数学科の最高に輝かしい星、数学新時代の主導者である。四五歳のころには、二〇世紀の生んだもっとも国際的で、多才で、「知的な」数学者として全世界に認められていた。アメリカの知的エリートのなかでも、数学上の新発見において彼に匹敵するだけの大きな貢献をしたものはいない。フォン・ノイマンは、オッペンハイマーほど名士然ともしていなければ、アインシュタインほど遠い存在でもなく--ある伝記作家が述べているように--ナッシュたちの世代の生きた手本であった。学生たちに、直接の忠告や助言もたびたびしたが、それ以上に存在自体がプリンストンに大きな影響を与えた。「誰もがフォン・ノイマンに惹きつけられました」とは、ハロルド・クーンの回想だ。ナッシュも、その魔力にとらわれたひとりだった。
おそらく、最後の真の万能学者ともいうべきフォン・ノイマンは、めざましい業績--六つの業績--を残した。高度に抽象的な数学を用いることで、新たな見通しが開かれるのではと思えば、彼はどんな領域にでも、怖れることなく、それもことあるごとに踏みこんだ。その試みはエルゴード定理を初めて厳密に証明したことにはじまり、気象をコントロールする方法の確立、爆縮型原爆の考案、ゲーム理論の提唱、さらには量子力学の基礎となる作用素環の研究、プログラム内蔵型コンピュータの構想にまでおよんでいる。三〇歳になるころには、純粋数学の巨人であるとともに、物理学者、経済学者、兵器の専門家、コンピュータの予見者と見なされていた。一五〇の論文を著し、そのうちの六〇が純粋数学、二〇が物理学、六〇が統計学やゲーム理論を含む応用数学である。一九五七年に五三歳で癌に倒れたときは、人間の脳の構造に関する研究を進めている最中だった。
禁欲的で超俗的な態度ゆえに、旧世代のアメリカ人数学者に偶像視されたケンブリッジ大学の数論学者G・H・ハーデイと異なり、フォン・ノイマンはきわめて現世的でエネルギッシュな人間だった。政治を毛嫌いし、応用数学に不快感を示したハーデイは、詩に対する詩人や、音楽に対する音楽家のように純粋数学を、それ自身を深く追究して美を生み出す最高の学問と見なしていた。だがフォン・ノイマンは、純粋数学と実用性の高い技術的問題とのあいだに、あるいは孤高の思想家と政治活動家とのあいだに、なんら区別をつけることがなかった。
ニューヨークやワシントンやロサンゼルスヘ向かう列車や飛行機に気軽に乗りこみ、学者としてははじめて、たびたびニュース種になるような発言をした。一九三三年に高等研究所へおもむくと講義を放棄し、五四年には研究一辺倒の生活を捨て去って、原子力委員会の主力メンバーとなる。そしてアメリカ国民に対し、核爆弾とロシア人をどう考えるか、原子エネルギーをいかに有効利用するかを語り聞かせた。ソ連に対する先制攻撃に積極的に賛同し、核実験を支持する熱烈な冷戦の闘士。このため、六三年に上映されたスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』の主人公、核戦略家ドクター・ストレンジラブのモデルは彼である、という噂まで生まれた。二度結婚し、常に裕福に暮らし、高価な衣服、強い酒、スピードの出る車、おまけに下世話な冗談を好んだ。いっぽうではワーカホリックで、無愛想、冷酷と言われることもあった。プリンストンでは、フォン・ノイマンは人間そっくりにふるまっているが実は宇宙人である、というジョークがまことしやかに飛び交っていた--もっとも当人の耳には、この噂はまったく入らなかったが。とはいえ、人前ではいつもハンガリー人特有の愛敬とウイットをふりまき、フォン・ノイマンをよく知る数学者ポール・ハルモスが言うには、高級住宅街ライブラリー・プレイスにある邸宅では「だびたびパーティが開かれ、それを知らないものはなく、たいていは長時間におよんだ」。四か国語を駆使し、矢つぎばやに繰り出される彼の話題は、歴史から政治、株式市場にまでわたった。
記憶力は抜群、頭脳の回転もけたはずれ。電話番号はおろか、ほとんどなんでも一度見聞きしただけでたちまちおぼえてしまう。みごとな計算能力を発揮して、自分が製作したコンピュータに暗算で勝ってしまったなどという話は数知れない。ハルモスは、コンピュータをはじめてテストしたときのことを追悼文のなかで紹介している。「下から四桁目が7となる整数を得る、2の累乗の最小値は何か?」という問いに対し、「フォン・ノイマンは機械と同時に計算をはじめるのですが、彼のほうが先に答を出してしまいました」
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