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戦場に行った哲学者たち

『私たち、戦争人間について』より

トヨタ戦争

 本来は武器ではないものが、武器として利用されることも珍しくない。

 海外の一部の紛争地域では、しばしば頑丈な日本製のピックアップトラックの後部に重機関銃が積み込まれ、実質的に戦闘車両として利用されている。一九八〇年代のチャド・リビア紛争では、そうした例が多く見られたため「トヨタ戦争」という言葉も生まれたほどである。

 武器・兵器だけでなく、いわゆる土木工事技術もまた、軍事の根幹であるとも言える。陣営を築いたり、橋をかけたり、壕、柵、落とし穴、あるいは地下トンネルを掘ったりするなどの作業は、古代から現代にいたるまで兵士たちの重要な仕事である。

 攻城塔など大型の兵器は、それが必要な場所に来てから製造や組み立てがなされたので、兵士たちにはちょっとした大工仕事も求められた。

 敵との直接的な戦闘をうまくやることが重要なのはもちろんだが、土木工事や大工仕事を手早く効率的にすすめる技術や組織があることは、そのままその軍隊の強さの一部なのである。また、作戦立案のみならず、兵員や物資の輸送計画を正確にたてるためには、「地図」の精度を向上させることも極めて重要になっていった。測量技術や地理情報は、古代から現代にいたるまで、軍事において欠かせないものである。

 第二次大戦中の日本軍の「風船爆弾」は、一見したところ原始的で滑稽なものにも思われるが、実はジェット気流などに関するかなり高度な科学知識に裏打ちされたものであった。各地域の天候がどうであるかという情報もまた、戦闘から災害派遣まで、あらゆる軍事行動において重要となる。

 戦争が気象条件によって大きく影響を受けることは、元寇における「神風」が典型例としてあげられる。日本では、太平洋戦争中にあたる一九四一年から一九四五年までの問、天気予報は機密情報として発表が中断された。

 物理学者で、随筆家としても知られる寺田寅彦は、「戦争と気象学」というエッセーのなかで、戦史の事例をいくつか示しながら、戦争において気象学がいかに重要であるかを語っている。

 寺田寅彦の弟子である中谷宇吉郎も、戦争と無縁ではない。中谷は世界で初めて人工雪の製作に成功し、「雪は天から送られた手紙である」というロマンチックな言葉を残したことでも知られている科学者だ。

 だが中谷は、航空機の翼への着氷に関する研究や、霧を消去する研究なども行った。翼への着氷や霧は、。軍用機の飛行や離着陸に関する極めて重要な問題だからである。軍用機を山頂まで運び、風洞を作って雪を含んだ風を航空機に当てるという実験を行ったという記録も残っている。

戦場に行った哲学者たち

 戦争は「悪」とされている。だが、これまでさまざまな人が、直接的、間接的に戦争にかかわってきた。

 哲学史に名を残している天才の一人に、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインがいる。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な言葉で終わる『論理哲学論考』の著者として知られている人物だ。そんな彼も、第一次大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国軍で任務についている。

 軍隊の仕事といってもさまざまな職種があるが、ウィトゲンシュタインは事務仕事でも後方支援でもなく、戦闘員であった。一九一四年にドイツ軍がベルギーに侵攻すると、ウィトゲンシュタインはすぐに志願し、クラクフの第二砲兵連隊に配属された。彼は当時、二五歳であった。

 彼はそこで探照灯を扱い、観測手としても活躍し、河川で活動する小型砲艦にも乗った。砲兵隊作業所ではエンジニアとしても評価され、後にサノックの第五曲射砲連隊に転出して最前線に送られたときには激戦を体験し、複数の勲章を受けている。

 ウィトゲンシュタインは伍長に昇進した後、士官としての訓練を受けるために砲兵隊士官学校に派遣され、二九歳のときに少尉に任官された。その数ヶ月後にも戦闘に参加し、「金の勇敢章」にも推挙されている。

 彼は、こうした軍務のかたわらで、トルストイの『要約福音書』に夢中になり、信仰について考え、そして二〇世紀を代表する哲学書となる『論理哲学論考』の草稿を準備していたのである。

 『ウィトゲンシュタイン「秘密の日記」--第一次世界大戦と「論理哲学論考」(春秋社)によれば、ウィトゲンシュタインの属していた第二四歩兵師団の兵士の生還率は二〇%程度で、曲射砲連隊所属時のブルシーロフ攻勢も激戦だったので、彼が無事に生還できたことは「一種の奇跡」であるという。

 同じ哲学者としては、「我思う、ゆえに我あり」という言葉で有名な、一七世紀のルネ・デカルトも軍人であった。彼は三十年戦争に従軍している。さらに遡るなら、紀元前のソクラテスも、重装歩兵として幾度かの戦闘を経験している。

 ソクラテス、デカルト、ウィトゲンシュタインという大物哲学者は、いずれも志願して戦場へ向かった。ウィトゲンシュタインにいたっては、両側鼠径ヘルニア、および近視のため、「兵役不適格」とされたにもかかわらず、それでも自ら望んで戦争に行ったのである。

 小泉義之は『兵士デカルト--戦いから祈りへ』(勁草書房)のなかで、戦争に参加した哲学者としてこの三名をあげ、戦争から生還したソクラテスは「いかに善く生きるか」を考え、デカルトは「いかに魂を鍛えるか」を考え、ウィトゲンシュタインは「いかに祈るか」を考えたのだと述べている。

 だが、ここにあげた人々のなかに、戦争や軍事を哲学の主題としたり、自らの戦争への関わりを後悔・反省したりするような文言を残した者はいない。

 人間やこの世の真理を探求しようとする哲学者が、しかも戦争を経験した哲学者白身が、

 直接的には戦争についてほとんど考察を深めておらず、具体的な反戦運動をした形跡もない

 というのは、現代の平和主義者の方々からすると少々不可解なのではないだろうか。
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