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国民と国家の関係を変えた日清・日露戦争

『天皇の戦争宝庫』より

国民と国家の関係を変えた日清戦争

 御府の存在が強調されたのは軍国主義が台頭した昭和期だった。修身の授業では御府の由来が教え込まれていた。

  「かしこくも明治天皇は、明治二十八年、日清の役が終ると、この戦役に没したわが忠勇な将兵の英霊を、とこしへに慰めようとの大御心から、特に吹上御苑の南に、一府を御造営あらせられた。これを振天府と御命名、陣没将校の写真を掲げ、将士の姓名を記録し、あはせて、凱旋将士の献上したあまたの戦利品を収めたまうて、その功績をしのばせられ末長く後の世まで伝へようと、はからせられた」(文部省『高等科修身-男子用』一九四四年)

 ただ、一八九九(明治三十二)年三月三十一日の「都新聞」に振天府拝観の初出記事が登場し、同年春以降「急に新聞記事を賑わす」ことになったという事実もある。「宮内省によって記者達に喧伝され始めるのが明治32年」(川瀬由希子「軍人の肖像写真と振天府政策」)だったからだ。

 日本は日清戦争で一時領有した遼東半島を露独仏の三国干渉により返還せざるを得なくなった。「日清戦争が始まり、連戦連勝で国民は有頂天」であったところ、「恐い叔父さんがこう三人も揃って忠告してくれたのだから、我国でもこれは嫌々と言うわけにいかぬ」(生方敏郎『明治大正見聞史』一九二六年)と冷や水を浴びせられた。

  「これによって初めて日本国民は、外交というものの本当の味を覚えたのだ。戦争とは、敵国だけを相手にするのではなく、常に周囲の第三国を計算の中に入れておかねばならぬ。戦争に勝っても、外交に負けるということがある。世の中は思ったよりも複雑な、面倒なものだ。ということを我々は教えられた」(同)

 これに対して「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、朝野あげて三国干渉を主導したロシアへの復仇ムードが高まり、日本は軍備拡張路線を突き進んでいく。

 軍事費調達のための地租税増税案が成立したのが一八九八(明治三十一)年であり、「国民の合意を得る方法として、日清戦争での戦勝の共通体験を呼びおこすこと、戦争で負傷・戦没した国民に対する国家の償いを明らかにすることが重視された」(「軍人の肖像写真と振天府政策しという時期だった。

 御府=振天府は「戦勝と兵士の忠誠心を天皇と結びつけるために、戦利品・肖像写真・人名帳を皇室で保管・閲覧する施設」(同)であり、プロパガンダの素材として注目されたのだろう。政策的な「上からの教宣」であり、それが記事の頻出のわりには招魂社ほど人口に檜曳しなかっだ理由かもしれない。

 日本の近代化以降、この日清戦争ほど国民と国家の関係を変えた出来事はなかっだのではないだろうか。生方敏郎は「日清戦争になるまでの私の周囲は、ことごとく反明治新政府の空気に満たされていた」と書いている。西南戦争の際も庶民は圧倒的に西郷びいきであり、「老人連は御一新をただ薩長武士の企てた革命とのみ考えていた」(『明治大正見聞史』)という。

 それが日清戦の勝利で一変した。「国民の悦びは全く有頂天という言葉に相当していた」といい、反政府的な空気は霧のょうに消えていった。明治国家としては、「国民」を初めて統一できた時期であり、国家への忠誠と負担を要求する絶好の機会であった。

 ここで日清戦争の経過を簡単に振り返っておこう。日清戦勃発の要因は一八九〇(明治二十三)年当時に首相を務めた山県有朋が唱えた「利益線」という概念だった。国益上守らなければならない範囲を国土より外に設定することで、日本にとっての利益線は北は朝鮮半島、南は台湾対岸の福建省だった。

 海岸線が長大で国防上は脆弱だった日本列島を守るため、防衛線を外に張り出す発想だ。利益線の概念は軍拡を正当化すると同時に他国領土へ勢力圏を拡大することで戦争を誘発することにもなる。

 一八九四(明治二十七)年二月、朝鮮半島で近代化政策の失敗で疲弊した地方の農民と民衆宗教「東学」による武装蜂起が始まる。朝鮮政府は反乱鎮圧のため清に派兵を要請、清は約千人の軍を派遣した。利益線への清の進出に敏感に反応した日本政府はこれに対抗して約八干人の兵力を朝鮮半島に送った。

 清は日本との戦争を避けたい意向で、両国は撤兵をめぐって交渉を続けた。日本政府は七月、交渉を打ち切り、清と断交することを決定する。戦争は同月下旬の豊島沖海戦で始まった(両国の宣戦布告は八月一日)。海戦と同じころ、日本陸軍は朝鮮国王が住む景福宮を攻撃した。

 日本の世論は「日清の戦争は文野の戦争なり」(時事新報社説)というように、文明=日本、野蛮=清という構図でこの戦争をとらえた。国民は一致して政府と戦争を支持した。

 緒戦の朝鮮・牙山の戦いで清軍を敗走させた日本軍は、九月に平壌を攻略。十月には鴨緑江を渡り、清国内に進攻した。十一月には遼東半島突端の旅順を占領。この際、一般市民を巻き込んだ虐殺事件が起きている。海では九月の黄海海戦で日本海軍が清の北洋艦隊に完勝した。

 翌一八九五(明治二十八)年三月から山口県下関で日本側全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章との講和協議が行われ、四月十七日に講和条約が調印された。朝鮮の独立承認と遼東半島・台湾の割譲、二億両の賠償金という清にとって苛酷な内容だふた。

 しかし、戦争はここで終わらなかった。台湾では先住民による激しい抵抗があり、日本は約七万六千人(軍夫を含む)を送り込んだ。完全に平定されたのは同年十一月だった。日本軍は約五千三百人の死傷者を出した。台湾側も死者は約一万四千人に上ったが、非戦闘員が無差別に虐殺されたケースが多かったという。

日露戦争の辛勝

 北清事変後、満州から軍を引かないロシアに対し、日本政府内では「満韓交換論」が主流を占めていた。ロシアの満州支配を許容するのと引き換えに、日本の利益線・韓国を確保しようとするものだ。まだ満州は「日本の生命線」ではなかった。

 一九○二(明治三十五)年一月三十日、日英同盟が調印される。イギリスにとって日本を「アジアの番犬」とし、日本にとっては世界帝国のイギリスの威を借ることのできる軍事同盟である。ただ、この時点で日本政府は日露協商の成立も模索しており、必ずしも口シアとの戦争をにらんだ同盟ではなかった。

 北清事変後も満州に居座り続けたロシアは列強各国からも非難を受けたため、同年四月に清と撤兵協約を結ぶ。しかし、十月までの第一次撤兵は行われたが、翌○三年四月上旬が期限の第二次撤兵は行われなかった。

 日本政府にはまだ満韓交換論、日露の協調論があったが、新聞の論調など世論が対露強硬論に転じていく。同年十月の第三次撤兵期限が過ぎてもロシアは動かず、世論は一気に硬化。各新聞は「開戦やむなし」の主戦論を唱え始めた。

 生方敏郎『明治大正見聞史』によると、このころ「毎日のょうに新聞には満州の風雲急なることが繰返し繰返し報ぜられた」という。郷里で落ちぶれて東京で植木屋をしていた生方の伯父までが次のように吹きまくっていた。

  「いやあ、この分ではいよいよ露西亜と戦争になるかなあ。早く戦争をおっ始めて、露西亜軍を敗北させ、セントピタースブルグヘ攻め上って城下の誓いをするがいいんだ。そして西比利亜はどうしても日本のものにしないということは間違ってるよ」

 日露両政府は問題解決の交渉を続けたが、世論の圧力もあり、ときの首相・桂太郎らは戦争の決意を固める。日本が戦争準備を始めるのに呼応して、ロシアも極東の軍備増強を続けた。一九〇四(明治三十七)年二月四日の御前会議で開戦が決し、政府は六日にロシア政府に対して交渉中止と国交断絶を通告する。

 宣戦布告は二月十日に行われたが、戦争は八日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊攻撃で始まった。陸軍は第一-四軍に分かれて朝鮮半島、満州に展開。海軍は旅順港の閉塞作戦を実施した。

 八-九月の遼陽会戦で日本軍がロシア軍に勝利する。一方、八月からの旅順攻囲戦に日本軍は約十三万人を投入。死傷者は約六万人、戦病者約三万人、損耗率七割というおびただしい損害を出した末、翌○五(明治三十八)年一月に旅順のロシア軍を降伏させた。

 三月、日露双方で五十万人以上の兵力が激突した奉天会戦で日本軍はかろうじて勝利を収めたが、これ以上戦争を続ける余力は残っていなかった。五月、日本海軍が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させる大勝利を得て、講和の機運が高まる。

 六月にアメリカのルーズベルト大統領が両国に講和を勧告、日露はこれを受け入れた。八月から九月にかけてポーツマスで講和会議が開かれ、九月一日に休戦協定が結ばれた。「日露戦争は、日本軍八万四〇〇〇人、ロシア軍五万人という多くの戦死・戦病死者を出して終わった。両軍の戦死者以外に、それぞれ一四万三〇〇〇人、二二万人という戦傷者もおり、彼らの社会復帰も戦後の課題であった」(原田敬一『日清・日露戦争』二〇〇七年)

 日露戦は日清戦のおよそ六倍強の戦病死者を出した。日本が最初に経験した近代戦であり、無残な大量死を招いた恐怖体験だった。

 旅順攻囲戦では乃木希典率いる司令部の突撃指令で屍の山が築かれた。恐慌をきたした兵士たちの間に、戦場から逃れるための自傷行為が続出したという。しかし、近代戦争の残酷体験は勝利の熱狂のなかで埋没し、戦死者の物語は軍神として語られるだけだった。

 未曾有の人的被害を出した戦争であり、辛勝もしくは引き分けに近い形ながら、国民には「大勝利」と信じられた。当然、振天府、懐遠府に次ぐ第三の御府を造営し、戦利品と戦没将兵の写真・名簿を収納すべきであった。
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