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独裁と「アラブの春」の幸福 オバマ大統領の矛盾

『中東の絶望、そのリアル』より 独裁と「アラブの春」の幸福 焼身自殺で点いた、チュニジア民衆反発の火 82歳、ムバラク大統領の愚行 ⇒ チュニジアでの「焼身自殺」という手段が、第三次ポエニ戦争でのカルタゴ市民の抵抗を思い起こさせたという説にロマンを感じる。ムスリムは焼身自殺を禁じているが、カルタゴ破壊はその前に起こっている。

抗議行動は、2011年2月17日の午前3時00分、パール広場での座り込みで始まった。エジプトと同じスタイルだった。機動隊と兵士は、催涙ガス弾とゴム弾を発射した。私がサルマニア医療センターに着いた時、取材班は事態に呆然としていた。負傷者の話によれば、デモ参加者はひざまずいて胸を露出し、兵士に撃てるものなら撃ってみろと挑発したのだという。兵士は、その通りにした。少なくとも4人の抗議行動参加者が死に、50人が負傷じた。そして、60人が行方不明になっていると報じられている。

バーレーンは、反乱の鎮圧方法のケーススタディーだ。政府はまず、オンラインで抗議行動を組織していた人々を捜査し、民衆扇動家の容疑者として逮捕した。そうして実際に群衆が行動に参加するのを阻止した。エジプトのタハリール広場の二の舞いにならないように、政府はパール広場をブルドーザーでならし、礎石を粉々にした。2月19日の時点までには、抗議行動の参加者は花を片手に平和のメッセージを叫ぶだけとなった。エジプトの場合とは異なり、オバマ大統領はバーレーンでの激しい取り締まり活動の間、何も発言しなかった。大統領の方針の矛盾は、すでに明らかとなっていた。なぜアメリカは、カイロのタハリール広場で起きた事態には同情的だったのに、バーレーンの君主政体がパール広場をブルドーザーでならしたとき、無関心を決め込んだのか? 中東の人々は、困惑するしかなかった。

現在に至るまで、リビアでは地獄の門が開いたままだ。リビアでの抗議行動は最初から、経済格差や宗教的な差別に対する抗議ではなく、ムアマルーカダフィの体制を打倒することを目指していた。そして、実弾の飛び交う戦いとなった。

クルーと私は、カイロに集まった。我々はリビアに入国するためのビザを持っていなかった。そしてエジプト側からは、国境の向こう側でリビア領をコントロールしている反乱軍がどのような態度をとってくるのか、全くわから’なかった。砂漠の民ベドウィンの密輸業者を雇ってリビアに密入国できないかと、私は考えた。素っ頓狂に聞こえるかもしれないが、私にはラクダの上で砂漠を横断するというアイデアが面白いと思えたのだ。誰が同行するか尋ねたとき、多くの手は上がらなかった。結構だ。自分一人で行く、私はそう言った。

私は衛星インターネット・ネットワークに接続することができる携帯型子機の使用法なら知っている。しかしビデオを編集して、それをコンピューターにアップロードする方法は知らなかった。クルーの人々は私にコーチしようとした。だが、私の技術的知識はあまりに初歩的だったので、うまくいくはずがないと判明した。結局、私の親友でカメラマンの、ジョン・クーイストラが、ムダな個人教授を続けるのはやめて、私に同行すると申し出てくれた。

我々は、リビアのトブルクまで90マイルの距離にあるエジプト北西の村サルームまで、400マイル(640キロ)の移動のためにタクシーを使った。サルームに到着したとき、我々はCNNのベン・ウェーデマンが既に国境を越えたと知らされた。私はカイロで仕事を始めたときウェーデマンのフリーのアシスタントとして働いたことがある。その縁もあって、やたらに競争意識が湧いてきた。リビアからエジプトに逃げてくる難民の群れが殺到するなか、国境のチェックポイントは混乱状態だった。だが、我々はようやく出国のスタンプを得て、二つの国を切り離している無人地帯に向かった。我々が越境しつつあるとボスに報告するために、NBCに電話をしようとした。だが、ここに電波は届いていなかった。ニューヨークとつながっていたら、危険だからやめろと言われていたかもしれない。そう思うと、電波がなくてよかった。リビア側に入ると、反乱軍が手招きをしていた。

最初、我々は動揺していた。というのは、クルマに乗り込むにあたって、連中が誘拐犯なのか、それとも友好的なのか全く見当がつかなかったからだ。だが、反乱軍とその同調者は、極めて協力的で思慮深かった。チュニジアでもエジプトでも、メディアの扱いが反乱側にいかに有利に働いたかを、彼らは見てきたからだった。我々がアルジャジーラのクルーであれば、トブルクまでタダで連れて行ってもらえただろう。だが我々は、ドライバー、食事、一杯のコーヒーの代金を調達するのにさえ苦労しなければならなかった。

ウェーデマンがリポートを始めたという話はまだなかった。ということは、我々は彼に追いつきつつあるのかもしれなかった。

最終的に我々は、第2次世界大戦の激戦地トブルクにたどり着いた。1941年、大部分がオーストラリア兵で構成された連合軍は、この地で枢軸軍に包囲された。だが、「砂漠の狐」として有名なエルヴィン・ロンメル率いる枢軸軍は、翌年に駆逐された。砂漠での戦いは海上の戦いに似ているというロンメルの観察を、私は思い出した。戦略上の拠点に人口はなく、距離は意味をもたない。陸上兵力は、一回の戦闘で100マイル(160キロ)前進することもあれば、後退することもあった。我々は、この後の数カ月にそれを何度も目撃することになる。

トブルクから、さらに290マイル西へ移動して、我々はリビアの2番目に大きな都市で反乱軍の本拠地、ベンガジに入った。途中で我々は、国営ラジオでカダフィのスピーチを聞いた。カダフィの話し方は、時に興奮したり時にダレたり、奇怪なトーンに終始していた。カダフィによれば、アメリカとビンラディンが共謀して反乱軍に幻覚剤の入ったネスカフェを飲ませ、連中の狂気を引き出しているという。ちなみに、リビアという国は一度イタリアの植民地になったことがあるために、ネスカフェのカプチーノがかかっていた。私はプラスチックのカップで出されたリビア風の甘いカプチーノに「はまった」ことがある。もっとも、ネスカフェに薬物が入っていたわけではない。リビアから発した最初のリポートで私は、カダフィが「正気ではない」と報じた。

ベンガジに着くと我々は、ウーゾ・ホテルに滞在した。そこには既に、メディアセンターが用意されていた。反乱軍は、普通の客を追い出して、部屋を将校とジャーナリストに割り当てていた。反乱軍のオフィスは1階にあった。我々が最前線に行きたい場合、私は指揮官の一人に同乗させてくれと頼む必要があった。
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