未唯への手紙
未唯への手紙
『コーラン』の写本
『紙の世界史』より イスラム世界で開花した写本
イスラム世界で開花した写本
七世紀前半のイスラム教の創始を境にアラブ社会で文字が使用される機会は増えていく。『コーラン』は預言者ムハンマドに啓示された神の言葉と信じられていたが、ムハンマドはアラビア半島のほとんどの人と同様、読み書きができなかったので神の言葉を書記官に口述筆記させた。イスラム教が広まると『コーラン』の写本への需要が高まり、一冊ずつ丹精こめて正確に書き写すことが求められた。神の言葉は音節のひとつさえ誤記するわけにはいかない。しかも、聖典の書写面それ自体が美しくなければならない。これがアラビア書道の始まりである。
ムハンマドの存命中、『コーラン』の複写はほんの数部しかなく、そのなかの言葉は詩と同じく口承されていた。イスラム教が時代を問わず暗記を重要視してきたのはそうした理由からだ。しかし、ムハンマドの死から一年経った六三三年、おびただしい数の「ハーフィズ」すなわち「『コーラン』を詰んじる者」が戦死すると、もはや口承では頼りないと指導者たちは考えた。『コーラン』の写本はもっとたくさん必要だ。そこで書記官をその作業にあたらせた。こうして、粗雑な殴り書きだったアラビア語の文字は、ムハンマドの死から百三十年が過ぎたアッバース朝カリフの時代には、いまだかつてない流麗な書体をもつ文字へと変わっていた。
イスラムの書家になるのは社会的地位の高い男で、学者が書家を兼ねることもあり、当時の歴史に名が残されている者も多い。『コーラン』を書き写した偉大な書家は聖者として崇められた。実際、『コーラン』には神は人間にペンを与えたと書かれており、書くことは神から授かった才だと示唆している。形を崩したアラビア語の字体の数は増し、十世紀には、ゆるやかな曲線や渦巻きを特徴とするもの、角が目立つもの、水平の線を強調したものなど、その数は二十に達した。
イスラム教徒は遠征の過程で数多くの学問の拠点と接触し、遠征するたびに知識を向上させた。中央アジアでは中国人から製紙と錬金術を習い、エジプトやシリアの人々からは商業を学んだ。ギリシア人からは水力工学を、北アフリカやスペインやシチリア島ではローマの土木工学--橋、ダム、水路の建設や灌漑--を学んだ。
アラブ人が歴史のもっと早い時期に製紙と出会っていたとしても、いや、出会っていたのかもしれないが、それを利用することはほとんどなかっただろう。だが、彼らが中央アジアで紙を作りはじめたのは、帝国の領土とイスラム教の勢力の拡張に邁進しているときだ。その勢いを補佐するには紙が必要だった。帝国運営の基盤たる官僚制にも、新たに学ぼうとしているたくさんのこと、絵画や科学、ますます豊かになっていく文化にも紙は不可欠だったのだ。
ボストン大学でイスラムおよびアジア美術を研究するジョナサン・ブルーム教授は、「知識社会」とは「大多数の人々が一様に読み書きできる」社会であると定義し、イスラム帝国は史上初の真の知識社会だったと認めている。イスラム教徒は、アラビア文字は少数の知識階級の特権ではなく一般大衆の権利であると、裕福な人にも貧しい人にも信心深い人にもそうでない人にも与えられているものだと考えた。
アッバース朝の初代カリフの時代は記録用の書写素材はまだパピルスである。パピルスは六四一年にエジプトを征服してからは入手しやすくなっていた。記録ずみの用紙を保管する方法は、ルーズリーフ式に綴じるか丸めるかのどちらかしかなかった。そこで政府高官のハーリド・バルマクは、パピルスの全記録を冊子本にするように命じた。これはシリアで従来から採用されていた保管様式だ。紙面がほつれやすいパピルスはコデックスの綴じ方には向かなかったため、アッバース朝はシリアに倣って羊皮紙を使いはしめた。
七八六年、第三代カリフの息子のハールーン・アル-ラシードが権力を握った。「アル-ラシード」は「正統」を意味する尊称だ。ハールーンの治世の二十三年間は、彼の生涯においてもその後の歴史を通してもイスラム帝国に惜しみない称賛が与えられた時期だった。十九世紀のイギリスの詩人、アルフレッド・ロード・テニスンまでが「誉れあるハールーン・アル-ラシード」に触れている。しかし、現実には拷問と暴虐と大殺戮がおこなわれていた。一方で、ハールーンはアラブ文化の大展開を進めたことでも知られており、そうした功績の一例が行政官のアル-ファドル・アル-ヤフヤーによる公務の促進で、アルーファドルは図書館に保管される記録文書を羊皮紙から紙に切り替えたことで知られる。
アラブ人は羊皮紙を捨てたわけではなく、パピルスさえ簡単には手放さなかった。ユーフラテス川の河畔でパピルス草の栽培を試みたほどで、そのためにナイル川のデルタ地帯からエジプト人の専門家まで雇ったが、やがて、パピルスでは国内の需要を満たせないこと、安くて軽くて丈夫な紙なら需要を満たすことができると気づいた。紙にはもうひとつ、不正を防ぐという大きな利点があった。羊皮紙やパピルスの文書ならたやすく改京できたが、紙の文書となるとそうはいかなかった。
羊皮紙やパピルスの役目を紙にさせるためには数々の変更を余儀なくされる。だが、アラブ社会ではまだインクの製造工程も整っておらず、叔目家や占記竹は各自でインクを作っていた。おまけにそれは羊皮紙用だから、紙を蝕む酸の含量が高い。紙への切り替えにともなってインクが油煙墨に替えられた。油煙墨は中国人が好んだ黒色炭素インクである。この新種のインクは「ミダード」と呼ばれた。
書写素材が紙になると書体も変化し、専門家でなくても読解しやすいように一語一語のあいだにスペースをとった新しい書体が採用された。
イスラムの書記官の元祖である『コーラン』を書き写す男たちは、紙が導入されてからも聖典の書写には、長持ちするという理由で羊皮紙を使うことに固執したが、帝国の領土拡大の結果として聖典以外にも複写の必要が増し、そちらは紙に切り替えられた。イスラム帝国の拡大とともに書記者「クタブ」は官僚組織における中心的な存在となっていく。建前では書記者は事務仕事をする役人にすぎないが、政治を動かす大きな力をもった補佐官や顧問となる者も現れた。行政文書では提供される情報もさることながら、優雅な体裁と美しい書字が重視され、書記官には詩から民話、『コーラン』にいたるまで豊富な知識が求められた。
イスラム世界で開花した写本
七世紀前半のイスラム教の創始を境にアラブ社会で文字が使用される機会は増えていく。『コーラン』は預言者ムハンマドに啓示された神の言葉と信じられていたが、ムハンマドはアラビア半島のほとんどの人と同様、読み書きができなかったので神の言葉を書記官に口述筆記させた。イスラム教が広まると『コーラン』の写本への需要が高まり、一冊ずつ丹精こめて正確に書き写すことが求められた。神の言葉は音節のひとつさえ誤記するわけにはいかない。しかも、聖典の書写面それ自体が美しくなければならない。これがアラビア書道の始まりである。
ムハンマドの存命中、『コーラン』の複写はほんの数部しかなく、そのなかの言葉は詩と同じく口承されていた。イスラム教が時代を問わず暗記を重要視してきたのはそうした理由からだ。しかし、ムハンマドの死から一年経った六三三年、おびただしい数の「ハーフィズ」すなわち「『コーラン』を詰んじる者」が戦死すると、もはや口承では頼りないと指導者たちは考えた。『コーラン』の写本はもっとたくさん必要だ。そこで書記官をその作業にあたらせた。こうして、粗雑な殴り書きだったアラビア語の文字は、ムハンマドの死から百三十年が過ぎたアッバース朝カリフの時代には、いまだかつてない流麗な書体をもつ文字へと変わっていた。
イスラムの書家になるのは社会的地位の高い男で、学者が書家を兼ねることもあり、当時の歴史に名が残されている者も多い。『コーラン』を書き写した偉大な書家は聖者として崇められた。実際、『コーラン』には神は人間にペンを与えたと書かれており、書くことは神から授かった才だと示唆している。形を崩したアラビア語の字体の数は増し、十世紀には、ゆるやかな曲線や渦巻きを特徴とするもの、角が目立つもの、水平の線を強調したものなど、その数は二十に達した。
イスラム教徒は遠征の過程で数多くの学問の拠点と接触し、遠征するたびに知識を向上させた。中央アジアでは中国人から製紙と錬金術を習い、エジプトやシリアの人々からは商業を学んだ。ギリシア人からは水力工学を、北アフリカやスペインやシチリア島ではローマの土木工学--橋、ダム、水路の建設や灌漑--を学んだ。
アラブ人が歴史のもっと早い時期に製紙と出会っていたとしても、いや、出会っていたのかもしれないが、それを利用することはほとんどなかっただろう。だが、彼らが中央アジアで紙を作りはじめたのは、帝国の領土とイスラム教の勢力の拡張に邁進しているときだ。その勢いを補佐するには紙が必要だった。帝国運営の基盤たる官僚制にも、新たに学ぼうとしているたくさんのこと、絵画や科学、ますます豊かになっていく文化にも紙は不可欠だったのだ。
ボストン大学でイスラムおよびアジア美術を研究するジョナサン・ブルーム教授は、「知識社会」とは「大多数の人々が一様に読み書きできる」社会であると定義し、イスラム帝国は史上初の真の知識社会だったと認めている。イスラム教徒は、アラビア文字は少数の知識階級の特権ではなく一般大衆の権利であると、裕福な人にも貧しい人にも信心深い人にもそうでない人にも与えられているものだと考えた。
アッバース朝の初代カリフの時代は記録用の書写素材はまだパピルスである。パピルスは六四一年にエジプトを征服してからは入手しやすくなっていた。記録ずみの用紙を保管する方法は、ルーズリーフ式に綴じるか丸めるかのどちらかしかなかった。そこで政府高官のハーリド・バルマクは、パピルスの全記録を冊子本にするように命じた。これはシリアで従来から採用されていた保管様式だ。紙面がほつれやすいパピルスはコデックスの綴じ方には向かなかったため、アッバース朝はシリアに倣って羊皮紙を使いはしめた。
七八六年、第三代カリフの息子のハールーン・アル-ラシードが権力を握った。「アル-ラシード」は「正統」を意味する尊称だ。ハールーンの治世の二十三年間は、彼の生涯においてもその後の歴史を通してもイスラム帝国に惜しみない称賛が与えられた時期だった。十九世紀のイギリスの詩人、アルフレッド・ロード・テニスンまでが「誉れあるハールーン・アル-ラシード」に触れている。しかし、現実には拷問と暴虐と大殺戮がおこなわれていた。一方で、ハールーンはアラブ文化の大展開を進めたことでも知られており、そうした功績の一例が行政官のアル-ファドル・アル-ヤフヤーによる公務の促進で、アルーファドルは図書館に保管される記録文書を羊皮紙から紙に切り替えたことで知られる。
アラブ人は羊皮紙を捨てたわけではなく、パピルスさえ簡単には手放さなかった。ユーフラテス川の河畔でパピルス草の栽培を試みたほどで、そのためにナイル川のデルタ地帯からエジプト人の専門家まで雇ったが、やがて、パピルスでは国内の需要を満たせないこと、安くて軽くて丈夫な紙なら需要を満たすことができると気づいた。紙にはもうひとつ、不正を防ぐという大きな利点があった。羊皮紙やパピルスの文書ならたやすく改京できたが、紙の文書となるとそうはいかなかった。
羊皮紙やパピルスの役目を紙にさせるためには数々の変更を余儀なくされる。だが、アラブ社会ではまだインクの製造工程も整っておらず、叔目家や占記竹は各自でインクを作っていた。おまけにそれは羊皮紙用だから、紙を蝕む酸の含量が高い。紙への切り替えにともなってインクが油煙墨に替えられた。油煙墨は中国人が好んだ黒色炭素インクである。この新種のインクは「ミダード」と呼ばれた。
書写素材が紙になると書体も変化し、専門家でなくても読解しやすいように一語一語のあいだにスペースをとった新しい書体が採用された。
イスラムの書記官の元祖である『コーラン』を書き写す男たちは、紙が導入されてからも聖典の書写には、長持ちするという理由で羊皮紙を使うことに固執したが、帝国の領土拡大の結果として聖典以外にも複写の必要が増し、そちらは紙に切り替えられた。イスラム帝国の拡大とともに書記者「クタブ」は官僚組織における中心的な存在となっていく。建前では書記者は事務仕事をする役人にすぎないが、政治を動かす大きな力をもった補佐官や顧問となる者も現れた。行政文書では提供される情報もさることながら、優雅な体裁と美しい書字が重視され、書記官には詩から民話、『コーラン』にいたるまで豊富な知識が求められた。
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