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ナショナリズムとグローバリゼーション--ヨーロッパを例に--

『アジアにおける地域協力の可能性』より 東アジア共同体と日本

ナショナリズムと近代国民国家

 ナショナリズムは曖昧な概念であり厳密な定義は難しいが、現在、ナショナリズムと国民国家に関する議論として、注目しておかなければならないのは、ゲルナーとアンダーソンの議論である。

 ゲルナーはナショナリズムについて「政治的な単位と文化的な単位とが一致するべきであると語る政治理論」と定義している。この定義は、ナショナリズムを単なる政治的信条や愛国心といった曖昧なものから説明するのではなく、社会経済的な要因から説明するという意味で画期的であった。

 中世の封建的社会は、各地の領主諸侯を中心とした自給自足的地域に細分化しており、人民も地域ごとに特殊性・封鎖性をもっていた(封建体制)。また、その封建社会内部においては、強固な身分制が維持され上層階級と下層階級の共同体的一体化意識は希薄であった。いわば、中世ヨーロッパは地域的・階層的に、水平・垂直両方向に区画されていたがゆえに、いわゆるネイション(nation)といった民族的文化的共同体は未成立であった。

 それがなぜ、こうした封建社会を脱し、近代の国民国家の形成に向かわなければならなかったのか。ゲルナーはそれを産業上の要請とみたのである。すなわち、産業社会がナショナリズムに実質的な基盤を提供したとする。ゲルナーによれば、農耕社会においては政治的な単位と文化的な単位は必ずしも対応しなくても構わないが、近代産業社会においては必然的に一致されるべきことが要請される。つまり近代産業社会においては文化の同質性が必然的に要請されるのである。

 このようにして、近代の国民国家は、文化と政治を一致させるために、多大の努力を払うことになった。いわば、人々が、一つのネイションという共通の船に乗り込んでいるように思わせる、そういう国家意識を醸成するためにナショナリズムが使われることになった。ナショナリズムは統合のための一種の「神話(イデオロギー)」として作用していった。ネイションがあってナショナリズムがあるのではない。ネイションを形成するためにナショナリズムが要請されたのだ。実際、たとえば典型的な近代国民国家フランスを取りあげても、国語(フランス語)の整備とそれのフランス全土への普及、国歌や国旗のことさらな強調、ラルース事典の編纂などは、ネイション・ステイト(国民国家)を確立するための涙ぐましい努力の現れであった。現実に存在する、さまざまな差異をもつエスニー(ethnie, 民族集団。ネイションの前近代的基礎)を一つの同質的なネイションヘとまとめあげることがそこでは企図されていたのである。

 この意味で、ネイションの本質を「想像の共同体」(imagined community)に求めるアンダーソンの議論は説得力がある。すなわち、(近代の)国民(国家)は、同じ文化や言語、生活習慣を共通にしながらも、実際には面識もつきあいもなかった人々が、コミュニケーションの発展により同胞意識を持ち出してはじめて成立したものであり、その本質は想像の共同体であるところにあるとする。ナショナリズムは郷土愛といったような、超歴史的で、人間のもつ自然で素朴な感情に基礎を置くものではないし、また国民の自意識の覚醒でもない。それは歴史的に作成された政治的教義であり、しかも、その性格からして、自由主義、社会主義、ファシズム等に至るまで、さまざまな体制と結びっきうる概念である。

 このような過程を経て、明確な国境によって限定された領土をもち、その範囲内において物理的強制手段(警察力・軍事力)を独占し、徴税権、裁判権を行使する、近代の国民国家(主権国家)が立ち現れることになる。政治権力が最上位に措かれ、それは末端まで貫徹され、組織的には階層的秩序を形成する。この西欧に発生した国民国家はその後の国家形成の範型(モデル)となる。

 ナショナリズムは、またそれに基づく国民国家は、特殊近代的な産物であり、社会経済的要因と密接な関連がある。ということは社会経済的要因の変化によっては、ナショナリズムに依拠する近代国家もまた変容を迫られることを意味する。近代国民国家が社会経済上の要因によってその形態を整えてきたとするならば、当然、社会経済上の状況の変化に応じてその形態を変えていく(変えていかざるをえない)ことも容易に推測される。そして、この状況の変化はこんにち、グローバリゼーションと呼ばれるものにほかならない。

グローバリゼーションと近代国民国家の揺らぎ

 事実、現在、先進産業国においてはグローバリゼーションによって、近代国民国家の屋台骨が揺らいでいる。そしてそれは、この後でみるようにEU(欧州連合)形成などの動きとなって現れている。

 グローバリゼーションやボーダーレス化によって、経済の実質はすでに国家の枠内には納まりきれなくなっており、経済に対する国家の制御能力が著しく低下している。現在では、資本の展開にとって国家は桎梏となってきている。こうした「現在」に関する端的な説明を借りれば、「情報技術の発達と不可分に結びついたボーダーレス化の結果、モノ、ヒト、カネ、企業、情報、犯罪のすべてが、実にやすやすと国境の壁を越えるようになってしまった。資本は安価な労働力と有利な投資条件を求めて世界中を駆けめぐり、いわゆる多国籍企業はとっくに常識になっている。国際金融市場は、昼夜二四時間にわたって、大量の資金を瞬時に文字通りグローバル規模で簡単に動かせる状態になっている。とくにインターネットの急速な発達とともに、貴重なビジネスや災害や文化の情報も、いかがわしいポルノ情報も、簡単に国境の壁をくぐり抜けるようになった」のである。

 国家の主権は実質的にその地位を低下させてしまっている。政治的にはナショナリズムをもとにして国家的統合意識をもつことができても、経済的には世界システムとしての国際経済が中心であり、従来の国民国家という枠を超えた普遍化傾向が進展しつつある。

 現在、東アジア共同体もそうだが、世界のいたるところでおこっている地域協力や地域統合の動きは、こうした新しい状況を前にして、国民国家という政治単位を止揚しようとする動きとして捉えることができる。そして、そのもっとも典型的な例として、歴史の最先端を走っているのがEUであることはいうまでもない。このEUの動向は、東アジア共同体を考える場合でも、示唆するところが多い。もちろん、EUと東アジア共同体とを同列に論じることはできないとしてもだ。
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書物--ヨーロッパを分裂させ、結びつけた発明

『ドイツ文化55のキーワード』より

グーテンベルク

 日本には、丸善が一九八七年に五三九万ドル(当時七億八〇〇〇万円)で落札し、その後、慶應義塾大学が購入した聖書がある。グーテンべルクが一四五五年完成させた、世にいう『四十二行聖書』である。グーテンベルクといえば、ヨーロッパに中世から近代へと時代の変革をもたらした三大発明のひとつである活版印刷術を発明した者として有名である。

 グーテンべルクはマインツに一四〇〇年前後に生まれ、一四六八年同地で没しか。正確な生年がわからないだけではなく、かれの人生には不明な点が多々ある。だが、かれが発明した活版印刷術が世に与えた影響力の大きさだけはまぎれもない。活版印刷術が発明される以前、書物はすべて筆写生の手で写されていた。当然、写し損じもあれば、恣意的な書き換えもあり、まったく同一の書物は存在していなかった。活版印刷術によって書物の大量生産が可能となり、知識の共有も容易となって、コミュニケーション革命がもたらされた。活版印刷は、まちがいなく、人類への最大級の贈り物であった。

 グーテンべルクは活版印刷術を用いてカレンダーを最初に製作し、その後ラテン語の教本を製作した。共同出資者のヨハンーフストから莫大な借金をして始めた印刷事業だったため、確実に利益が見込めるものから印刷を始めなければならなかったのである。活版印刷には、活字、印刷機、インク、植字などの準備や、複雑な技術が必要で、実際に書物を販売して利益を得るまでには、かなりの時間かかかった。また、出版には、あらかじめ顧客を確保するための宣伝活動も必要であった。もちろん、グーテンベルクはそれを一人でおこなったのではなく、多くの人を雇ってもいた。かれは書物の流通に資本主義的な近代的経済システムも導入したのである。

 グーテンベクは自らの活版印刷技術に対する自信を深めたところで、聖書の印刷に取りかかった。それが、世界で最も美しい本のひとつといわれている、『四十二行聖書』である。ところが、完成を間近にしてフストに足元をすくわれる。借金の返済が期日どおりにおこなわれていないと訴えられ、敗訴したのである。その結果、グーテンべルクは印刷機器だけではなく、印刷が完了していた『聖書』をもフストに渡さなければならなかった。その後、工房はフストらが共同経営し、グーテンべルクは、手元に残された、小規模な印刷所で印刷業務を続けることになった。

宗教改革

 活版印刷術は同じ書物、印刷物を一度に大量につくり出すことができ、遠方まで同じ情報を伝える力をもち、いわば人と人とをつなげる力をもっていた。しかし、逆に、当時のキリスト教世界ヨーロッパに決定的な分裂をもたらす運動、すなわち宗教改革を担うことにもなった。印刷術はカトリック教会の基盤を大きく揺さぶり、キリスト教によって統一されていた西ヨーロッパは分裂するにいたる。

 ルター(1483-1546)が一五一七年にヴィッテンべルクで宗教改革ののろしをあげてから、一五二一年までには、ルターの著作は五〇万部が流通していたようであった。聖書の翻訳版は一五二三年には五〇〇〇部、その二五年後には二〇万部が刷られた。活版印刷術が発明されなければ、このようにルターの思想が短期間に普及することは不可能であった。プロテスタント側が積極的に布教を目的として印刷術を活用したのに対し、カトリックは新版の聖書を認めず、禁書目録を作成して、信徒の読書に制限を加えた。プロテスタントがカトリックよりも近代化の推進に貢献したといわれるゆえんである。

 また、典礼や教会法に関する文書の複製は、活版印刷術の発明を境に、聖職者による筆写から世俗商人による利潤追求型の活版印刷へと移っていった。これにより国家権力がローマ教皇の支配から脱することもできた。印刷術の情報伝達の力は、皮肉にも西ヨーロッパの分裂をもたらすとともに、新しい国家感情の芽生えをうながし、ヨーロッパの「近代」の誕生を用意したのである。

焚書

 「本が焼かれるところでは、最後には人間も焼かれる」とは、ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の言葉である。一九三三年ベルリンの「焚書広場」(現在のべーベル広場)では、ナチスによって「非ドイツ的」とされた二万五〇〇〇冊もの書物が突撃隊によって焼かれた。その広場には四万人もの群衆が押しかけて焚書の儀式に酔い痴れた。(イネの予言は不幸にも的中し、ナチスが後に六〇〇万人ともいわれるユダヤ人をガス室で殺害し、焼いたことは知られている。

ブックフェア

 ドイツでは五〇〇年以上の伝統をもつ書籍見本市が、毎年一〇月にフランクフルトで開催されている。フランクフルトはグーテンべルクが活版印刷を創始したマインツからは数キロしか離れておらず、ここでグーテンべルクと一緒に印刷業を営んでいたフストやペーター・シェッファーなどが見本市で出版物を展示したのが、その始まりといわれている。この見本市は一七世紀後半までヨーロッパ最大のものであったが、啓蒙主義の時代にはライプツィヒにその座を譲り渡した。この見本市は、第二次世界大戦後、ドイツが東西に分かれたため、再び催されることとなった。二〇一〇年以降は、毎年世界各国から二八万人近くの関係者が訪れ、出版社や書店関係者などが、版権などに関して交渉をおこなっている。この見本市では一九八六年から、特定の国や地方をその年のテーマとして定め、朗読会などのイベントをおこなっている。また、二〇〇七年から、ドイツ・コスプレ大会もおこなわれ、多くの若者が日本のマンガのキャラクターに扮し、衣装の出来映えなどを競っている。

 現在ドイツでは、フランクフルトと並んで、毎年三月にライプツィヒでも大きな書籍見本市が開催されている。ここの見本市の特徴は、フランクフルトとは異なり、一般人を対象としており、多くの人が作者と触れ合える場が設けられていることにある。また、ここでは一九六三年以来、「世界で最も美しい本」コンテストがおこなわれ、「金の活字賞」が授与される。二〇一三年度には三二の国や地域から五七五冊もの本が出品された。この賞は、ドイツでものづくりに対する情熱が現在も非常に強いことを表しているといえよう。
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ナチズム--写真集にみるヒトラー

『ドイツ文化55のキーワード』より ナチズム--写真集にみるヒトラー

ヒトラー像の二面性

 ある女性は戦後、首相官邸前の広場でアドルフ・ヒトラー(1889-1945)をみたときのことを次のように回顧している。「私たちは少女団員としてヴィルヘルム広場に立ち、『ハイル! ハイル!』と叫びました。『親愛なる総統はとても優しい人、どうか窓辺に来て下さい』。彼の姿をみて私たちは喜びました」。総統を一目みたいと願う少女と、その願いに快く応じてくれるヒトラーという、心温まる関係がここにはある。

 こうした情景を取り巻く親密な雰囲気、総統の姿に「優しさ」をみいだす素朴な心情を、いま実感として理解することは難しい。われわれの目に焼きついているのはむしろ、演壇で拳をふり上げて熱弁をふるい、毅然とした態度で聴衆の歓呼に応えるヒトラーの姿だからである。だが忘れてならないのは、そうしたイメージがかなりの部分、ナチ党大会を撮影したレニ・リーフェンシュタール監督の映画『意志の勝利』に依拠していることである。大衆の熱狂に支えられた英雄的な指導者というこのイメージは、ほかならぬナチ党がつくりだしたものであって、これを無批判に受け入れることができないのは、いうまでもないだろう。広範な国民の目に映じたヒトラーの姿は、必ずしも偉大な英雄というイメージにつきるものではなかった。そのことを示す手がかりの一つが、ハインリヒ・ホフマンの撮影した写真である。

知られざるヒトラー

 ホフマンはヒトラーの古い友人で、長らく専属カメラマンをつとめた人物である。彼の写真は新聞、雑誌、写真集、絵葉書などさまざまな媒体で広く流布し、公的なヒトラー像の形成に決定的な役割をはたしたが、そのうち最も代表的なものの一つは、ヒトラーを斜め前から撮影した肖像写真である。そこでは険しい表情、冷然とした姿勢、暗く単調な背景など、あらゆる要素がヒトラーの個性を排除し、彼をもっぱら「総統」として理想化している。この写真が「一つの民族、一つの帝国、一人の総統!」というスローガンの書かれた宣伝ポスターに使われていることからも、ヒトラーが国家と国民を統合する象徴的な存在とされていたことは明らかである。

 だがホフマンはこれとは別のイメージも提示していた。彼の監修した写真集『アドルフ・ヒトラー』(一九三六)には、集会で演説するヒトラーの姿とともに、オーバーザルツべルクの山荘で休暇を過ごす彼の私生活を紹介した写真が数多く掲載されている。公の場での威厳に満ちた態度とは対照的に、私人としてのヒトラーは民衆と気さくに交流し、なごやかで楽しげな表情をしている。一枚の写真につけられたキャプションが、そうした牧歌的な雰囲気を要約している。すなわち、「総統も笑うことがある」のである。この写真集は少なくとも六〇万部発行されたが、そのほかにも彼の私生活に焦点をあてた写真集が何種類も存在し、『知られざるヒトラー』(一九三二)、『山で暮らすヒトラー』(一九三五)といったタイトルの写真集け、いずれもホフマンの監修で数十万部発行されていた。笑顔で民衆とふれあう庶民的なヒトラー像は、当時誰もが目にした一般的なイメージであったといえるだろう。

総統がご存知なら

 それでは、ヒトラーが私生活でみせる親しげな態度は何を意味していたのだろうか。写真集のページをめくると、山荘の周囲には多くの人々が押し寄せていたことがわかる。総統を一目みようとやって来た人々のなかで、彼と直接ふれあう幸運に恵まれたのはたいてい子どもたちであり、彼らは散歩中のヒトラーに近寄って握手やサインをしてもらったり、一緒に記念写真を撮ってもらったりすることができた。なかでもベアニーレという名の金髪の少女は、一九三三年夏にヒトラーと出会って文通相手となり、何度も山荘に招待された。ヒトラーが子どもを深く愛し、子どもの方も彼に心から信頼を寄せている様子を強調することで、総統と民衆の関係を親子愛のイメージで包みこむ狙いがあったことは明らかである。「少年が病床の母親の手紙を総統に手渡す」というキャプションのついた写真も、純真な少年の願いを親身になって聞くヒトラーの姿を提示している。そこで強調されているのは、彼に子どもの気持ちを理解する善良な心があること、つまり総統と民衆の感情的な結びつきである。われわれと同じ心をもつヒトラーならわかってくれる、彼に直接訴えれば何とかしてくれるかもしれないというわけである。こうした親密なイメージによって、すべての人々がヒトラー個人と心で結びついているという幻想が生まれる。

 それにしてもなぜ、この少年は母親の手紙を届けに山荘まで来なくてはならなかったのだろうか。そう考えると、この写真の言外のメッセージがうっすらとみえてくる。すなわち、ナチ党に対する不信感がそれである。地元の党職員が聞く耳をもたないと思われたからこそ、少年は総統に望みを託さねばならなかったのだろう。ここにはまさに、ヒトラーが国民の信頼を勝ちとった理由の一端が示されている。ナチ政権下の国民は、ナチ党にはびこる官僚主義、傲慢さや腐敗などについてたえず不満を口にしていたが、そこで特徴的だったのは、こうした不満がもっぱら末端の職員たちに向けられ、ヒトラーには向かわなかったこと、さらには「総統がご存知なら」という期待の声さえ聞かれたことである。彼が部下たちの行状を知ったなら、断固たる処分を下してくれるにちがいないというわけである。ヒトラーの絶大な人気は、ナチ党の否定的なイメージとの対比によって獲得されたものでもあった。

総統崇拝の情緒的基盤

 ヒトラー自身もまた、民衆との結びつきが何よりも重要なことを自覚し、普通の人間というイメージを崩さないようにたえず注意を払っていた。「私は独裁者ではなく、わが国民の指導者でありたい!」という発言には、総統としての自己演出の方針が端的に表現されている。謙虚で素朴な人間、庶民的な政治家というイメージが重要だったことは明らかである。多くの人々が共感を寄せたのも、笑顔で民衆とふれあう人間味にあふれた総統の姿だった。「広範な大衆は偶像を必要としている」という発言が示すとおり、彼は民衆にとって身近なアイドルのような存在としてふるまう術を心得ていた。ヒトラーの人気の根底にあったのは、尊敬や畏怖などではなく、親しみや共感、総統をみたいという素朴な心情だったといえよう。
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未唯空間第1章~第6章のポイント

農協の地産地消

 農協に地産地消が開かれていない。どこかでイベントをやっているのでしょう。

おとなしくしている

 今日はパソコンをいじらずに、モノの整理とか、考えをまとめる方にします。出来るかどうか。とりあえずは寝るのが一番。

プリンター

 プリンターには印刷できるようにしないといけない。そうしないと紙でのサイクルが維持できません。プリンターを動かして、未唯空間をまとめましょう。

ICレコーダー

 耳で聞いてからでないと、録音できないです。

未唯空間の狙い

 未唯空間の本当の狙いは何なのか。そうなると、全体の目次で答えを毎回出していかないといけない。やはり、大きいのは歴史編でしょう。何を求めてきたのか。137億年と宇宙と自分との関係。

 なぜ、本を読んでいるのか、本は何を意図しているのか。全てを知るという意味では、未唯空間と同じです。そういう意味では、小さな単位はもっと小さくしていくと同時に、分化させて、何がやれるのか。

 自分というものをどう定義するのか。

 他と何が違うのかのキーワードをハッキリさせます。

未唯空間第1章

 第1章は色々な概念を全部、合わせて、つなげています。最後は、全てを知るにしておきましょう。

未唯空間第2章

 第2章の数学は、他の誰もがこの観点からアプローチしていないという意味ではユニークです。数学の中に未来を、未来の中に数学を見ていける。その意味では武器としての数学。最強の武器は位相空間そのものです。

 部分から考えて、全体を作り上げる。その意味で、全体が見えてくる。現実の特異点を解消できる。サファイア循環で見ていくやり方。

 数学のプロセスに従って、社会を位相化していくという見方でみていく。これが私のスタンスです。合わせて、数学自体を道具として、整備し、理論化しないといけない。新しい数学を出していく。これは教育、仕事、家庭に適用されます。

 LL=GGの世界を仮定した。これが位相幾何学の次の姿であり、宇宙の究極の姿です。

未唯空間第3章

 第3章は社会だけど、順番が難しい。対象としての社会。目的から追っていくと、どうしようとしているのか。

 本来、内なる世界からしたら、関係ない。内なる世界で確認したものを社会に適応するとしたらという定義です。そして、そこにほとんどの人が住んでいる。分かってもらいつもりはないが、仮説だけは作ります。

 社会といっても、全体は興味はない。全体から社会は定義できない。ローカルから作り上げる社会を提案する。だから、地域に拘っています。拘りがくどいのは確かです。人間はそれしかできない。グローバルから考えることはできない。

 大きく捉えると、3.1と3.2で先ずは知る。3.3と3.4で地域の役割を社会モデルで考える。3.5と3.6で地域に必要なもの、インフラとコミュニティ。これは順番が逆かもしれない。地域から全体を変えていくために必要な情報共有と社会の位相化を3.5と3.6で述べる。

 かなり、ハードルは高いです。グループというものがいかに存在するのか、その間に情報共有がどこまで個人をつなげていくのか、それを個人が受け入れるのか。ベースはThinkとActです。社会の位相化ではないけど、ここのモノが全体を変えるという信念をどれだけ持てるか。

未唯空間第4章

 4.1の国民国家は現在の歴史の中の今です。4.2はそこに至る過程を歴史で見たものです。今の姿からどう変えようとするのかというのが、4.3「歴史を揺らす」です。名前は適切ではない。単純な形で4.4幸せな社会。ここで半分、終わります。

 4.1と4.2は逆にしてもいいけど、それだと平坦になるので、歴史で一番関心のあるナチから始めます。国民国家の中に、グローバル化と多様化を入れて、揺らす要素を包含させる。幸せな社会は、本来、最後に来るものだが、とりあえず、考えたところでここまで来た。これは単純で、小さな括りです。

 4.5から4.8まででそれを拡大させる。4.4は記述そのものが歴史と関係ない。これは見直します。4.5未来方程式は、存在の力と情報共有をパラメーターとする、未来の姿です。これは数学的なカタチをとった、仮説です。

 4.6歴史哲学は一番大きな観点です。ここで、自由と平等を出しましょう。歴史で何をしたいのか、未来を描きたいのではなく、本質を描きたい。

 今、分かっているのは、自由と平等のトレードオフです。そして、バランスです。それと個人の存在の力で歴史がどう変わるのか。意思の力では世界が成り立たない。

 歴史の変節点はさほど遠い世界ではない。

未唯空間第5章

 第5章仕事篇。過去、30年間の雑記帳の整理をしているが、その中でずっと、考えてきたことをまとめることになる。この後に、第8章販売店が控えているので、仕事での概要みたいな形になります。

 5.1と5.2は仕事を通じて見つけたこと、思いを書きます。5.3、5.4、5.5は今何をすべきなのか、どういうカタチですべきことなのか。特にパートナーが今後やっていくのに必要な要素を出します。

 そこまでは、「承」です。そして、5.6で販売店の要望を聴いた時に、自分たちの世界だけでなか卯、もっと、大きな世界で考えないといけないというところで、「転」にします。そこから、地域に入り込んで、いい社会にするためのヒントを出します。

 クルマ社会をどうしていくか、地域に対してどういう役割に果たすのか、マーケティングをどうしていくかに主流が移っている。ここは過去の整理と全体を大きく見るためのパートナーの役割です。

未唯空間第6章

 本と図書館は違うものです。本というものに触れるのが、図書館です。図書館が偉いのではなく、本が偉いというスタンスです。本は色々な思いを伝えてきます。そこから何を得るのか、それはその人がどう生きるかで異なります。

 公共図書館は大きな文化です。所有するのではなく、皆でシェアする文化です。イギリスから始まってアメリカに伝わって、地域文化のベースになった。日本の場合は行政主体であるので、単なるカタチだけです。思いが入っていたものなっていない。公共図書館が未来を開きます。それを認識しているのは、図書館関係者は少ない。

 本から知識と意識をコミュニティで作り出すのが今後の姿です。そのために何を作ったらいいのか。図書館コミュニティを意識させ、機能を発揮させ、情報センターへ発展させていく。

 本の方は個別の知識ではなく、知の体系化、知のカプセル化に向かっていきます。では、図書館の未来はというところで、一応、終わります。社会が変わらない限り、社会を変えることが図書館の未来になる。シェア社会を先行している図書館に位置づけられている。

 本と出会ってよかった。これは豊田市図書館が新しくできたところから始まった。それまではあまりにもプアだった。この環境がありながら、市民はそれに接していない。危機感が余りにもなさすぎる。それが故に社会自体を変えていかないといけないという意識です。

未唯へ

 サークルKの焼き芋のシーズンは終わりました。
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