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新自由主義ではなく「真・自由主義」が平和をつくる

『「イスラム国」よ』より 「自由」と「秩序」について考えよう

ニーチエは時代を変えるょうな言葉を世界に放ちました。

 「神は死んだ」

この言葉の解釈についてはさまざまな哲学的、歴史的、社会的背景がありますが、この頃から、西欧世界の「神」は絶対的なものではなくなりました。フランス革命で王権から自由になっただけではなく、教会の権力からも自由になった人間は、同時にキリスト教的な価値観による現実の世界の秩序や統合を失った、といった意味です。

統一した価値を見失ってから、西欧のキリスト教文化をもつ国に住む人間は新しい「価値観」をつくることがなかなかできまぜんでした。

西欧の神が死んだ後、資本主義は拡大し成長し発展してきました。拡大することを「価値」にしたために、いくつもの大きなほころびをつくってきました。それが「格差」「貧困」「地球環境の破壊」となって現れている。世界は息も絶え絶えになり始めています。

しかし、イスラム社会で神は死んではいなかった。ここが大事なところです。

たとえば、イスラム教スンニ派の考え方のひとつにサラフィー主義と呼ばれるものがあります。スンニ派の中でも「厳格派」とも言われる考え方ですが、一時はヨーロッパに追いつくために近代化も模索しましたが、じょじょに資本主義社会の中にある大きな問題に気がつき、むしろできるだけ預言者ムハンマドの教えやアッラーの言葉に耳を傾けるべき、という考え方になっていきました。

ここに大切なことがあります。西欧社会で「神が死んだ」と言い、資本主義を拡大さぜていった時に、イスラムの世界では、ますます神の存在が大きくなっていったのです。

イスラムの神は死ななかったのです。

「儲けること」以外に統一した価値をつくり上げることができなかった資本主義世界と、「神は偉大なり」のイスラム主義とのつばぜり合いが、今始まっているのです。

けれどまだ戦争をしているわけではありません。多くのまっとうなイスラム教徒たちがどれほどあたたかくて優しいか、僕は10年間自分の目で見て、肌で感じてきました。必ず僕たちは理解し合えると信じています。

イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒や仏教徒、その他たくさんの宗教や思想を持っているすべての人がお互いに理解し合える時が必ず来る。

一番大事なことは、まっとうなイスラム主義と、僕たちが生きている自由主義が信頼し合うことです。そのためには、僕たちは僕たちの生き方を顧みる必要があります。

僕たちが生きている社会は「自由主義」を選択しました。けれどこれからは、その自由主義は、単に競争を激化させて人を消耗させ、所得配分の不平等や格差を拡大する「新自由主義」であってはならないと思います。

本当に深い意味での「自由」を追求する自分の自由と他者の自由を共に大事にする「真・自由主義」でなければならないのです。成熟した自由主義を確立することによって、自由主義とイスラム主義は手を携えられるのではないかと考えています。そうなった時、常に過激な暴力を伴う思想を持つ組織、グループは、生き延びることができなくなると思うのです。

真の意味で自分は自由であるか。

他者の自由を認めて生きているのか。

刃や暴力を向けるのではなく、僕たち自身に問い直さなくてはいけないのではないでしょうか。僕たちの世界がまっとうになった時、初めてイスラム社会もまた、資本主義や自由主義や民主主義を真に理解しょうとしてくれるのでぱないでしょうか。
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時間は流れる?

『哲学』より 時間とは何か?

私たちは、時間を流れるものとして考える。そして、時間が過ぎ去ることや、これから訪れることについて語る。「いま」が動き回るイメージだ。この文章を書いているこのひとときこそが「いま」である。しかし、それは来るやいなや過ぎ去ってしまい、過去という灰色の影となり、忘却の彼方へと追いやられる。他の瞬間もそれぞれの出番を待っている。そのなかには、あなたがこの文章に遭遇する瞬間もあるだろう。この特別な瞬間である現在は、容赦なく先へと動いている。

時間が流れるものだとしたら、それはどのくらいの「速度」で流れているのだろうか? 時間は時間の分だけ進むのであって、それ以外の選択肢はないように思える。1時間は1時間かかるし、1日は1日かかる。しかし、これは速度ではない。速度を得るためには、時間の中で変化している大きさについて考えねばならない。たとえば、速度を計測しているのであればある地点からの距離が必要だし、体重の変化を計測しているのであれば週ごとの重さが必要である。何かの大きさが変化する速度は、それ自体変わることがある。普通、速度は加速したり減速したりするのだが、時間の流れる「速度」は変化できない。

あやしいのは時間の「速度」だけではない。時間はどの方向へと流れているのだろうか? 未来に向かって現在が前へ前へと進んでいくと考えているかもしれない。しかし、時間は前に進むのではなく、後進すると考えることもできるのではないだろうか? あるいは、現在は止まったままで、時間の流れが未来や現在を後ろへ、つまり過去へと運んでいっているのかもしれない。現在は不動で、未来の出来事が現在を通って過去へと流れて行くということだ。どの答えであっても等しく問題ないように思われるが、それは、私たちが時間の真実を捉えきれないまま、比喩やイメージの次元にとどまっていることを示している。

私たちは今という瞬間を、他のすべてとは違うものとして分離して考える。特別なのは「いま」なのだと。本当に存在しているのは今だけだと思うことさえある。過去は過ぎ去り、未来はいまだ訪れていない。だから、現在しかない。

私たちは、現在というものを、たいまつの光のようなものとして考えているのかもしれない。その瞬間の出来事だけが照らし出され、もとより現れた暗闇の中へと再び戻って行く。もしかすると、未来や過去の暗闇の中には何もないのかもしれない。そうだとすると、現在は非常にラッキーなもの、一種の宇宙的な偶然であるかのようにも思われる。たいまつの光があるところにだけ何かがあるのだ。それなのに私たちは、これを世界の中で最もありきたりのものとして考える。

多くの哲学者、そして時間を理解するのに苦心した人の多くは、こうした問題のせいで、時間の流れという比喩や、現在というものの特殊性を回避するのが最善だという見解を取ることが多い。彼らは、現実は「ブロック宇宙」と呼ばれるものであり、そこには特別な現在も、時間の流れもないのだと言う。それは、時間を映画のフィルムのようなセルロイドの帯だと考えるようなものだ。その帯を広げて見ると、そこにはたくさんの二次元写真が順番に並んでいる。同じように、理論家たちは三次元を映し出すダイナミックな帯として、四次元の帯を措定する。セルロイドの帯の1つのコマが、ある瞬間に対応する。過去、現在そして未来の出来事すべてが、さまざまに異なる距離を隔てて存在しているのだ。

理論家が言うには、現在の特殊性は、「ここ」の特殊性と同じように、私たちの視点による作りごとにすぎない。すべての場所は等しく、[ここ]には何ら特別な権威もない。「ここ」は、私が今いる場所である以外に特別なことはない。

同じように、「いま」も、時間的な次元の中で今現在私かいるということ以外、何ら特別なことはない。時間の中に棲息する存在として、自分たちの前景を[いま]で満たしてしまう。しかしこれは、同じように「ここ1‐で前景を満たしてしまうのと同じである。少し身を引いて見れば、違う視点を味わうことができる。そこでは、「いま」は、時間の世界全体を構成する立方体の列の中で、他の立方体と隣り合わせとなった、1つの三次元の立方体でしかない。

これは、私たちが通常考えるものよりも、より客観的な世界観を得ようとする試みと似ている。その試みで目指されているのは「どこからでもない視点」という、人間の視点という人工物から独立したものだ。私たちの特殊な感覚器官によって見えるがままの自然から、客観的な自然を区別するのだ。

そのために、たとえば科学であれば、光の波長やエネルギーを扱うのだが、それによって見ることのできる色については「私たちのもと」にある。それは客観的な自然に存在する現実ではなく、見せかけなのだ。同じように、ヒュー・プライスが[いつからでもない視点」と呼ぶ非時間的な視点を持つことの長所を、ブロック宇宙の推進者は主張している。時間という一次元のものの中に過去、現在、未来のすべてが広がっていると考えるのだ。変化や成長は、時間的世界の中で生きるものたちにとっての見せかけにすぎないのだ。
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無条件の肯定としての愛

『君自身の哲学へ』より 愛、この限りなき学び 存在の「意味」を問う

しかし、それで終わるわけではない。終わることはできない。というのも、そのような戦いによる承認は、けっして存在の完全な肯定には至らないからです。戦う。そして勝利する。月桂樹の冠をいただく。栄光も賞品も獲得できた。人々の拍手も賞賛も得られた。……にもかかわらず、--と言っても僕自身はノーベル賞はおろか、どんな賞ももらった経験がないのでほんとうはわかりませんがー-’それでは、存在の「意味」は完成しない。

存在の完成ということがなにを意味するのかもわからないで言うのですが、その意味では、存在はかならずしも幸福を約束されない。なぜなら、-簡単です--その栄光も承認も、たかだか人が成したある行為に対する対価であるからです。「君はよくやった、だからごほうびをあげるよ」、というわけです。それは条件づけられている。条件づけそのものです。確かにわたしの存在の重要な部分における行為、しばしば生涯の使命と定めた(ほんとうの意味での)「仕事」に対する承認であるはずだから、それは最大限に貴重な、重要な、ありかたい、肯定ではあるのですが、しかしそれでもなお、きっと(と、僕は推測します)、それでは、存在の意味は汲み尽くされない。それでは完全な幸福(そんなものないのかもしれませんけど)は保証されない。

もしそうだとすれば、そのことが、人間というのは根本的に、ただ地上の戦いにおいて勝利して他者からの承認を獲得しただけでは満たされることのない、もうひとつ別の次元をもっているということを証していると思います。他者からの承認という水平的な関係性を超えたもの、それに対して人間は開かれている。行為とその代償という相互的な関係づけを超えたもの。それは、ともかくほかの言葉がないので、「愛」という言葉で言いましょうか。

でも、すぐに断っておきたいのは、この言葉で僕がここで考えようとしているのは、かならずしもいわゆる「恋愛」ではないということ。この近代現代という時代においては、「恋愛」ということそのものが、存在の承認をかけた「戦い」の相貌を呈していることが多いように思うから夙す。「愛している」という言葉のもとで、相手からの「承認」を得る戦いの火蓋がきられたりする。恋愛という名のもとでの限りない闘争、戦い。よくあることではないでしょうか。愛されていると思っていたのに、実は、相手は自分を存在としてまったく承認していなかった、多くの場合は肉体的な欲望という部分的な関係づけのためだけに自分の存在を利用していたのだとわかってしまう。求められているからといって、承認されているわけではないというかなしい結末。

愛という名のもとに、愛という幻想のもとに、いつの間にか支配が忍び込む。それは、親子の関係だって同じです。本来的には、前章で見てきたように、天から落ちてきたわたしを無条件で迎え容れてくれたはずの親なるものが、いつの間にか、誕生時のあの無条件の承認ではなく、さまざまな条件をつけはじめる。地上の関係づけのなかに、子供を縫い込めてしまおうとする。でも、子供のほうはそれが親の「愛」の形だと思っているのでそれから逃れられない。それは、実は、社会的な意味では「承認」ですらないのに、それは自分の子であるという最初の承認を支配へと切り替える巧妙な欺隔なのに、子供からはそれを突破できない。よくあることではないですか。前章で僕は「親はいない」という過激なことを言ってみましたが、その延長で言えば、「親の愛」などというものはない、それはかならずしも「愛」ではないのだ、と言ってみたい気がします。

では、「愛」とはなんなのか。わかりません。でも、少なくとも、地上の支配する掟であるさまざまな関係づけ、その相互的な条件づけの関係性が超えられることだと思います。すなわち、条件なしの承認と言ったらいいか。存在が無条件で肯定され、承認されること。迎え容れですが、天から落ちてきたばかりの無垢な赤児を迎え容れるのならともかく、それなりに個性や性格や運命や、さまざまな特異性が顕在化し、しかもみずからを主張し、表現し、戦おうとしているこの大人の存在を、はたして誰が、無条件で愛せるのか。そんなことは不可能ではないのか。そこには、ある種のパラドックス、あるいはアポリアがあるのかもしれません。このような意味での「愛する」などということが、そう簡単にできると思うほうが間違っているのかもしれない。そうではないでしょうか。もし「愛する」が行為なら、その行為は地上においては、かならずや条件づけられています。その行為を行いながら、しかしそれが条件づけを解除することであるような、無条件の肯定であるようなことがどのようにして可能なのか。

はっきりしていることは、「愛して!」と言われて、もちろん「make love」なら簡単(?)かもしれませんが、ほんとうに「愛する」ことはできないということ。命令されたところで、もう、アウト。すなわち、「愛する」ということは、ほかの行為のように行為できることではないのです。それは、実は行為ではない。わたしの意志の問題ではないのです。それは、わたしの自由によって決めることができるわけではない。

「汝の隣人を愛せよ」1言うのは簡単です。でも、誰もできません。せいぜい隣人に「親切にしてあげる」くらいです。そんなもの「愛」ではありません。単なる善行。善行なら行為できます。それは立派なことです。でも、立派だと言われるようでは、もう条件づけにぴったりはまっています。Aを行為したら、Bが還ってくる。それが地上の掟。条件づけという掟。因果応報、作用反作用-肯定にはつねに影のように否定がつきまとう。肯定と否定が裏表です。

だが、そうした条件づけが、--たとえ束の間にしてもー解除されるようなモーメントがないわけではない。それが起こることがある。それが他者とのあいだで起こることがある。無条件の肯定、否定性に裏打ちされていない肯定性。ただ無条件に、なぜか、まったく理由なく、いかなる条件もなく、ただ愛する。すなわち、行為ではなく、出来事としての愛。あらゆる条件づけからの解除が出来事として起こる。いや、それだって、きっと不完全なのでしょう。どこか条件づけを引きずっているのでしょう。でも、「愛」という言葉のなかには、そのような出来事が人間にゆるされることがあるという、人間の永遠の希望が秘められていると思います。いや、ひょっとしたら、ほんとうはどんな地上の愛のうちにも、そういう無条件の肯定が隠れているのかもしれません。ただ、それが地上の激しい戦いのなかで見失われてしまっているのかもしれない。

いずれにしても、「愛」ということがどんな「奇蹟」であるのか、ほんとうはわれわれはよくわかっていないのだと考えるべきではないでしょうか。「愛」がなんであるか、わかることは難しい。誰もがそれを待ち望んでおり、いや、それしか待っていないにもかかわらず、それが起こることはとても稀なのではないでしょうか。

どのように愛は起こるのか。わかりません。けれども、きっとそのためには、わたしという存在、その自己の構造を少しばかりは、条件解除しなければならないかもしれない。自我という条件づけの砦のなかに閉じこもっていては、「愛」の風は吹いてくることができないかもしれない。少なくとも、自己という問題をあらためて考えみなければならないのではないでしょうか。
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ケルン市中央図書館には気付かなかった

『場所としての図書館・空間としての図書館』より ヨーロッパの図書館を見て歩く:中欧編フィンランドの図書館

<ケルン大学・都市図書館>

 ドイツには、現在でも大学図書館名に州(Staats-)や都市(Stadt-)を冠しているところがいくつかある。ブレーメン、ハンブルク、ボン、ケルンなどがそうである。これは、図書館のルーツを近代前期に遡らせると、市民がそれぞれのやり方に基づいて文献を蓄積しこれを図書館として公開していたことに行き当たる。こうした図書館は19世紀以降に近代的な大学ができるときに大学図書館の基礎的なコレクションとなった例が多いが、その際にもかっての公共図書館的な役割を保持しようとしてこのような名称を選んだのである。

 今回訪れたケルン大学の図書館もまたそういう図書館の一つで、標記のような名称をもっているが、コレクションおよびサービスの方法は大学図書館である。その蔵書は、18世紀初期にケルン市がっくった結社図書館(シンジケート・ライブラリー)が議員に向けてレファレンスサービスを提供していたことに遡るといわれる。350万冊の蔵書の多くは閉架書庫に納められており、開架になっているのはレファレンス書や教科書ほかの一般書であった。図書館は全体として、閲覧スベースを利用するところになっている。

<ケルン市中央図書館>

 上記の大学・都市図書館とは別に市の公共図書館システムがっくられている。中央図書館は都心近くにある大きな建物であり、各階が主題によって分かれているのはこれまで訪問した他の公立中央図書館と同じだった。ここがおもしろかったのは、学校の教科書とか音楽の楽譜とか地図とかがしっかりと収集され排架されていることである。広々としたフロアに十分な数の資料が並べられており,行ったのが土曜日であることもあって家族連れの利用が多かった。

 地域関係のもので比較的新しいものはここにもあるが、古いものは市の公文書館にあってその蓄積は膨大だった。しかし、2009年に公文書館の建物が倒れる事故があり、なかなか回復していないようだ。もう一つ、有料制のことだが、オランダと同様の年ベースの会員システムがとられていていた。図書館カードの登録制度は課金システムに基づいている。

 ここでは資料の貸出しのための年間登録に大人で38ユーロ(約5000円)の料金がかかることがわかる。アムステルダムよりは少し安いし、18歳未満は無料だとしても、家族で登録すればそこそこの料金になる。英米圏でもDVDの貸出しが有料で、予約やベストセラー書、相互貸借にも料金がかかるのは通常のことであり、また、返却遅延にも料金がかかるわけだが、ドイツの公共図書館ではこれが年間登録料のようなかたちで通常の図書資料の借り出しに及んでいるのである。

<シュツットガルト市中央図書館>

 シュツットガルト市の中央図書館は20世紀初頭にスタートし1965年からは古典的な建物に入ってサービスをしてきたが、最近まったく新しい建物がつくられて移転した。2011年に竣工した新図書館の設計者は在独韓国人建築家イ・ウンヨン(1956-)である。これが不可思議な図書館だった。まず、この建物そのものが直方体の白いビルで、遠くから見ると、図書館とは思えない。 Libraryという英語が壁面の上部に書いてあるがあまり目立たない。建設されたのは駅の西側の新しい開発地域で、周りは工事中のところばかりで、図書館は、何もなかったビジネス地域の開発拠点といった感じで建っている。従来の市街地からは車がなければ行きにくいところだ。

 中に入るとすぐに、真ん中の足下には水がわいているだけで、3層分くらいの高い天井まで何もない空間がぽっかり開いている。これが何を意味するのかの解釈は、それぞれの来館者にゆだねられているのみである。

 6階から3階までは上から見ると白い床に白い書架がきれいに外側から内側に並んでいる逆ピラミッド型で、通路が上から下にらせん状に降りていけるようになっている。これは写真を見ないとわかりにくいところで、この図書館の目玉の一つでもある。書架は各階において見える範囲において幾何上にきれいに並んでいる。下に降りるほど、その外側に書架が置かれる二重構造になっていた。2階は児童書が置かれているところだが、上に述べた内側の書架はなく、すべて外側の書架である。4面の書架がかなり長く置かれている。児童向けにしては暗いところもあり、長く伸びている書架は使いやすいようにはみえない。また、この児童室の2階から下の3層の内側の書架に当たる部分が、最初に書いた空間をつくっているところであった。

 ということで、この図書館は建築上の新しい試みや書架の配置などの工夫もあっておもしろい図書館になっていた。先はどの大きな立方体の空間や館内が白色で統一されているところが、知の世界へのアプローチに対して、清涼感とともにある種の寂寥感を与えている。まだできて3年程度で、これがどの程度の新しさを市民に与えているのかは、これからの周辺の開発との関係も含めて、みていく必要があるだろう。
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ハメーンリンナ市図書館へ行きたかった

『場所としての図書館・空間としての図書館』より ヨーロッパの図書館を見て歩く:北欧編 フィンランドの図書館

<ハメーンリンナ市図書館>

 フィンランドに行ってから最初の図書館である。ハメーンリンナ市は、首都ヘルシンキより北に100キロほど行ったところにある人口6万人ほどの街である。フィン人を構成する3民族の一つハミ族の中心地とされるところであり,作曲家シペリウスの生誕地ということで知られている。

 現在の中央図書館は1982年にできたということであるが、赤煉瓦の外装をもつ建物で基本的にはワンフロアであるが、かなりの広さをもっていた。資料の多様性と数、そのディスプレイの仕方の多楡注も見所があった。また、図書館の案内やカウンターにいて利用者に対応している職員の多くが男性であることも興味深かった。レファレンスサービスのことを聞いてみたが、端末からデータベースを利用できること、それ以外の資料も全部混配してあって、とくに別室が用意されているわけではないようだ。入ったところの右側の展示場のところで、準備をしている人たちがいた。月曜日の午前中なのに利用者は高齢者を中心にしてけっこう多いのにも驚いた。

 一昨日、この街のセンターのところを歩いた印象では、街はそれほど大きくなく、商業地域やショッピングセンターもそれはどの大きさではない。それと比べると、この図書館の充実ぶりはちょっとびっくりだった。湖沿いの一番風光明媚なところに位置し、日本にあるこの倍くらいの規模の街でもこんなに充実した図書館サービスはしていないように思われる。北欧型公共サービスの一つの典型例を示しているように思われた。

<ヘルシンキ市ライブラリー10>

 ここはヘルシンキ中央駅のすぐ前ということもあるが、人の出入りは多い。単に資料を借りるだけでなく、ネットヘのアクセスをしたり、ただ時間をつぶしている人も多い。また、資料は印刷物だけでなく、CDとDVDの多さに驚いた。もともとあった中央図書館の音楽部門を引き継いだということで、こうしたAV資料だけでなく、多数の楽譜や音楽雑誌をもち、小規模の演奏ブースやスタジアムも用意されている。しかしながら、設置条件がよいために、人の動きが激しく忙しい図書館である。都市社会に埋め込まれているフィンランドの図書館の位置づけを改めて感じさせられた。

 なお、ヘルシンキ市立図書館のメインライブラリーはやや郊外の住宅地にあって、以前に行ったことがあるが,それほど大きくはなかったという記憶がある。少し前に日本でも報道されたが、新中央図書館がこの日行った文化ゾーンの一画に計画されている。すでに設計が国際コンペで募集され、地元の会社の案が採用されたということだ。2018年に完成するという。ヘルシンキで感じることは、これまでのコペンハーゲン、ストックホルムと比べて古典的な建物が少なく現代的な建物が多いことだ。とくにコペンハーゲンは古典的な街だったが、こちらは新しい建物が多い。文化的な施設も新しいコンセプトのものをどんどんっくる傾向があるのは興味深いことだ。

<エスポー市セロー図書館>

 エスポー市セローはヘルシンキ郊外にある人口5万人程度の住宅都市である。そのセロー図書館はいままで見た公共図書館のなかでももっとも大きな部類に入り、公共図書館の特徴的なところが表明されている興味深いものだった。ショッピングセンターに隣接しており、その意味で人が集まりやすいところではあるが、広場を隔てて威風堂々の立派な現代建築物として表現されていた。多分1万平方メートル以上はあるだろう。そこに、朝からけっこう利用者が集まっているのも、場所が場所だけに当然なのかもしれないが、フィンランドのパブリックセクターの施設のなかでも、図書館が特別の位置づけをもっていることを示しているように思われた。

 図書館の1階はさまざまなイべント関係施設やAV関係資料、児童書、ヤングアダルトなどが中心になっている。そして、2階は印刷物中心のコレクションである。多数の端末が置かれていて、インターネットにも自由に接続できるし、さまざまな種類のデータベースが用意されているようだった。日本の図書館建築との違いを書けば、高さと広がりがあるのでゆったりとした空間設計とさまざまなディスプレイが可能な点が挙げられる。テーマごとの平積みやディスプレイ用の書架に並べられた資料群が見られるし、たくさんのリラックスできる椅子が置いてあった。
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思い出のハメリンナ

日本人論に反発

 日本人論に対する不安があります。私は日本も日本人も意識しません。禅も仏教も日本を感じません。一部の人です。

 感じるとしたら、日本的な企業のあり方です。その代表がトヨタです。そこに、40年居て、やったのは、自分の内側を守ることだけです。外へは何も発信しません。外から勝手な解釈して、理想化しているだけです。

 自分のことしか考えない組織。その中に居るだけで、高給が保証される世界。皆の金で成り立っているのに、それを感じない世界。これが日本ではないでしょう。

 仏教そのものも感じていない。単なる葬儀屋です。それよりもLL=GGを目指しているムスリムの方がインパクトが大きい。

 本を読む限り、色々なもので覆いかぶさっています。本質が見えなくなっている。存在だけ考えればいいのに、人間関係を考えるからややこしくなる。全体を考えるのではなく、自分のことしか考えていない。

ハメリンナ市図書館に気づかなかった

 ハメリンナ市図書館がここで出て来るとは、本というのはすごいもんです。FBに上げてしまいました。ハメリンナ市には豊田市から環境学習施設の海外視察で出掛けた。当初の予定にはなかったけど、メンバーで調査して、訪問することにしたところです。

 「本はやはり、すごい! 金曜日に借りてきた本のなかに『場所としての図書館・空間としての図書館』があった。図書館の紹介のところで、ハメーンリンナ市図書館があった。この町は、2003年、環境学習施設に訪問し、EUの概念「Think Globally, Act Locally」をDr.ヘリから教わった。それが、サファイア概念につなげた。その小さな町の図書館に会えるとは!」

 ハメーンリンナ市は、首都ヘルシンキより北に100キロほど行ったところにある人口6万人ほどの街である。フィン人を構成する3民族の一つハミ族の中心地とされるところであり,作曲家シペリウスの生誕地ということで知られている。

 この街のセンターのところを歩いた印象では、街はそれほど大きくなく、商業地域やショッピングセンターもそれはどの大きさではない。それと比べると、この図書館の充実ぶりはちょっとびっくりだった。湖沿いの一番風光明媚なところに位置し、日本にあるこの倍くらいの規模の街でもこんなに充実した図書館サービスはしていないように思われる。

 Think Globally, Act Locallyから二つのベクトル{Think、Act}{Local、Global}の関係図からサファイア循環を作り上げた。それまでのすべてがつながるとともに、歴史の未来も見通せた。全てがハメリンナから始まった。

 環境視察は2003年です。2004年ボランティア、2005年にサファイア概念。その前の2002年が欧州出張です。私の活動時期です。

奥さんとの奇跡の二ヶ月

 奇跡の2カ月が終わりました。2か月半続いたけど。奥さんの腕が元に戻れば、終わると思っていました。

赤いモスレキンのダイアリー

 この赤いダイアリーを埋めるところから始めましょう。買いたいノートも出てきました。ダイアリーには十分な空き地があります。

ヨーグルトフラペチーノ

 ほとんどがヨーグルトフラペチーノ。太いストローを持って、10人ぐらいが並んでいます。

 明日は、クーポンを使って、べンティサイズをゲットします。
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