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言葉の配置

世の中の動き

 世の中の動きは、モノを消費する方向に動いています。特にNPO関係は顕著です。今のネットは信じられない。これをどう変えていくかというのは、もう一度、内なる世界に入っていかないといけない。

 30年まとめたことにより、一日一日で思考を変えていくのか、作り上げていくのか、積み上げるのではなく、空間に配置するかを理解した。明日から特に、ネットと相談して生活します。その後も、ネットに頼らない、逃げない。自分の中でいかに言葉をまとめていくのか。

言葉の配置

 言葉は重要であるという、ウィットゲンシュタインのイメージを自分の中に反映しないといけない。未唯空間の中で言葉をハッキリさせます。その論理性と空間配置との関係。つながっているかどうかは近傍系で行います。接頭語でつなげることはしない。

 当然、それは受ける人によって違うということを前提とします。なるべくわかりやすい言葉にする。『90分でわかる』シリーズのポール・ストラザーンの書き方を参考にします。真理を探究するよりも言葉を楽しみます。

 さあ、明日からの生活の準備です。本当に配置ですね。時系列ではない。

われわれと私の存在

 宇宙論で言うところの「われわれ」の中に私は入っていない。
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カザフスタン 独立後の民族問題

『カザフスタンを知るための60章』より 上からの「解決」と表面的「多文化主義」の強調 

1991年の独立以降、カザフスタンは基幹民族であるカザフ人を中心とした国づくりを行なってきた。他の中央アジア諸国同様、独立前のカザフ人の民族運動は決して強くはなく、口シア人に限らずカザフ人の間でも、独立よりソ連邦維持を求める声のほうがむしろ強かったほどである。しかし、自分たちの民族的利益が十分に考慮されていないことに対する不満は、ソヴィエト政権下で確実に蓄積していた。

ソ連崩壊によって独立を手にしたエリートたちは、このような民族感情を背景に、カザフスタンをカザフ人の民族自決を実現する国家と位置づけ、それを言語政策、移民政策、歴史の見直しなどに代表される、さまざまな分野で実現していった。国旗や国歌などの国家のシンボルは当然のこと、公的空間の「カザフ化」(地名や通りの名前をロシア語からカザフ語にしたり、カザフ民族の偉人の名前に変更したりするなど)も進行した。政府や議会でもカザフ人がより多く代表される傾向が強まったが、それはカザフ人人口の増加だけでは説明できない現象であった。

基幹民族の利益を優先する諸策や実践は、他の旧ソ連諸国と比べると、カザフスタンではより穏健なやり方で進められた。たとえば、憲法はカザフ語を唯一の国家語と既定したが、国籍取得条件としてカザフ語習得を課したわけではなく、ロシア語も公的な使用が認められている。また、カザフスタンの住民が多様な民族から構成されていることは、公的な場で常に言及されている。にもかかわらず「カザフスタンはカザフ民族の国家である」という見解がさまざまな場面で強調されることに対して、カザフ人以外の人々は居心地の悪さや、将来への不安を感じるようになった。

こうした動きは、少数民族の問でおもに二つの反応を引き起こした。

一つは、ロシア人などのスラヴ系住民とドイツ人を中心とする大規模な国外移住である。移住を促した要因としては、独立に伴う政治的・社会的変化や混乱のほか、在外同胞を受け入れるロシアとドイツの政策、および生活水準の向上への期待もあった。したがって「迫害された少数民族が移住を余儀なくされた」という見方は非常に表面的である。なおこうした人の動きは1990年代半ばがピークであったが、カザフスタン経済が大きな発展を遂げた現在もなお続いている。

もう一つは、政府の民族政策に対する異議申し立てである。なかでも、独立時にはカザフ人と拮抗する人口を有していたロシア人の団体は、ロシア語の国家語化、ロシアとの二重国籍の承認、人口比に応じた公職ポストの民族別配分など、国家の根幹にかかわる政治的要求を掲げ、1990年代なかばには国会にメンバーを送ることにも成功していた。

これに対してナザルバエフ政権は、権威主義的な手法で民族運動を封じ込めた。政府に批判的な団体や個人に対しては、団体登録の拒否や抹消、集会やデモの不認可、選挙への立候補者登録の却下や取り消し、リーダーの逮捕などの方法で圧力をかけた。こうした措置の根拠にしばしば使われたのが、民族的・宗教的その他の反目を煽る社会団体の結成・活動を禁じた憲法第5条3項である。いかなる行為がこれに抵触するのかについては具体的規定がなく、その運用はきわめて恣意的であった。また公権力のかかわりは不明だが、民族団体幹部に対する襲撃など暴力的ないやがらせもあった。

他方、少数民族エリートの懐柔と体制側への取り込みも積極的に行なわれた。その代表例が「カザフスタン民族会議」(2007年に「カザフスタン諸民族会議」から改称)である。1995年に大統領諮問機関として創設されたこの団体は、ナザルバエフ大統領が終身議長を務め、国内の民族団体のほぼすべてを傘下におさめている。民族会議は、メンバーに公認民族団体の代表という地位と活動資金、および陳情の機会を提供する。他方、民族団体の指導者(その多くは大統領支持政党の党員である)は、選挙時には体制派政党・候補者への支持をそれぞれのコミュニティに呼びかけ、政権の支持基盤作りに貢献している。

2007年の憲法改正により、下院の議席の一部(全107議席のうちの9議席)が民族会議から選出されることになった。この方法により少数民族、とくに人口規模が小さい集団が議会に代表されやすくなったのは確かである。しかし、彼らはそれぞれのコミュニティから選ばれているわけではない。民族会議による間接選挙の目的は、マイノリティの利益を考慮するためというよりは、諸民族が平等に代表されているというイメージの創出にある。

また、かつての体制派諸政党や、大統領を党首とし国会の議席の大多数を保有するヌルオタン党(2013年現在)は、全民族の利益を代表すると表明して、党幹部や選挙の公認候補に一定数の非カザフ人--カザフ民族の中心的な地位を容認する立場の人々-―を加えている。政党のこうした「配慮」と民族会議からの下院議員選出、および民族政党の禁止(2002年政党法第5条8項)により、カザフスタンでは民族的な利害が選挙運動やその結果に反映されにくくなっている。

政府の「アメとムチ」からなる巧みな戦略により、自立的な民族運動は2000年代前半までには姿を消した。報道に対する規制や圧力、マスメディアの自己検閲もあり、民族問題がオープンに議論されることはほとんどない。民族団体のフォーマルな活動は、言語学習、伝統行事や民族舞踊などのイべント開催や国際交流など、「安全」な領域にほぼ限定されている。

民族会議の終身議長を務めていることにも現れているように、ナザルバエフ大統領は「民族・宗教間の和合」モデルの熱心な推進者である。このモデルでは、多種多様な民族団体の存在、少数民族言語を使用する学校やメディアの数、民族衣装をまとって楽しげに踊る人々の姿といった外形的な多様性と、民族横断的な大統領への支持が強調される。彼はまた、民族間関係の安定の保証人として自らを位置づけている。

ただし、このような演出はまったく実態を伴っていないわけではない。選挙の際には、現政権の継続こそが民族紛争回避への道だという宣伝が行なわれているが、この言説は少数民族に対して一定の説得力を持つ。マイノリティの間では、より民族主義的なリーダーが現れ、自分たちの利益や存在そのものが脅かされることを危惧する声も少なくないからだ。

非カザフ人人口が全体として激減し、民族運動が事実上無力化された現在、少数民族の異議申し立てが再燃する可能性は低い。彼らはむしろ、大統領個人に多くを依存する現在のシステムがポスト・ナザルバエフ期に維持されうるのかを、不安な気持ちで見守っているのである。
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カザフスタン 急進的改革の是非はいかに

『カザフスタンを知るための60章』より 世界経済の潮流に翻弄される資源国の体制移行 

カザフスタンでは1991年12月のソ連崩壊に伴う独立後、他の旧ソ連諸国と同様に、それまでの中央計画経済から市場経済化を目指し経済改革が進められた。隣国ウズベキスタンの漸進的改革に比して、カザフスタンで採られた手法は急進的なショック療法と評される。経済の混乱は不可避で、1992年1月の価格自由化後、数百~数千%台のハイパーインフレを経験したが、IMF・世銀主導の改革プログラムをはじめとする施策が奏を功し、1990年代末までにインフレを含むマクロ指標の安定化がおおむね図られた。1993年11月に導入された自国通貨テングは、導入直後や1999年4月、2014年2月にドルに対して大幅に切り下がったが、2004~08年は石油収入の増加などによりテング高が進み、2014年後半のロシア経済の悪化にもあまり影響されず堅調に推移している。国内総生産(GDP)は1996年にプラス成長に転じているが、これも資源開発の寄与が大きい。

カザフスタンにおける経済改革は一連の国家プログラムの実施によって進められている。現在行なわれている改革の基礎となるのが、1997年10月の大統領演説で発表された「カザフスタン2030」という発展戦略であり、①国家の安全保障、②国内政治の安定化と社会の結束、③高レベルの外国投資と国内貯蓄を伴う開かれた市場経済に基づく経済成長、④カザフスタン国民の保健・教育・福祉、⑤エネルギー資源、⑥インフラ(とくに運輸と通信)、⑦プロフェッショナルな国家という七つの長期優先課題が定められた。これらの優先課題を土台に実施期間10年前後の国家プログラムが、省庁間を横断的に策定されたアクションプランとして重層的に展開されている。2003年5月には「2003~2015年までの産業・技術革新発展戦略」が採択され、製造業の発展を促しエネルギー・金属鉱物資源への依存からの脱却を目指す方向性が謳われた。政府の機構再編も幾度となく行なわれたほか、産業多角化のための国家融資機関の整理統合により誕生した持続的発展基金カズナ(2006年)、石油・天然ガス、電力、運輸・通信など戦略的産業部門を統括するために発足した国家資産管理ホールディング会社サムルク(2006年)、そして両者の合併による国家福祉基金サムルクーカズナの創設(2008年)と、経済発展のためのプラットフォーム作りが国家主導で行なわれた。なお、2012年にはナザルバエフ大統領は「カザフスタン2030」が早期に達成されたとし、新たに経済の多様化、社会保障・教育・イノベーションの重点化などを盛り込んだ「カザフスタン2050」を発表している。

カザフスタンの経済発展は、豊富な資源に裏打ちされた市場経済化が急ピッチで進められたがゆえに世界経済の潮流に翻弄され続けた。この点において、国際市場での資金調達や地下資源の輸出が極めて限定的なウズべキスタンなどとの差が際立っている。2000年来、カザフスタン経済は10%前後の高成長を誇ってきた。資源国が注目される中、カザフスタンの大手民間銀行は欧州金融市場で低コストで大量の資金を調達し、国内の建設や不動産、自動車、家電部門に積極的に貸し出し業績を拡大してきた。投機目的のマンションが建設前から高値で売買されたり、高級乗用車やAV・家電をローンで買い求めるニューリッチが急増しだのがこの頃だ。しかし、2007年のサブプライムローン問題の影響で経済は減速した。同年夏以降、商業銀行は欧州市場での資金調達難に陥り、国内の建設・不動産バブルがはじけ、耐久消費財の販売も落ち込んだ。2008年7月以降の油価の下落、9月の米国発金融危機がもたらした世界的な信用収縮により再び景気が低迷。2008年、2009年と成長率は落ち込んだものの、その後の油価の上昇や海外需要の増大により2010年、2011年は7%台成長に回復した。対外債務は縮小傾向にあるが金融システムの改革は道半ばであり、何よりも地下資源の輸出に大きく依存する経済の体質変換は容易ではない。他方で外貨準備や国家基金(石油基金は高い水準で推移しており、カザフスタン経済のファンダメンタルズは磐石との評価も根強い。

経済改革の成果を見るうえでは、欧州復興開発銀行(EBRD)や世界銀行による評価が一定の参考になろう。EBRD(2012年11月)は、それぞれ5点満点で(a)大規模民営化の評価を3・O、(b)小規模民営化4・O、(c)官民リストラ2・O、(d)価格自由化3・7、(e)通商・外為制度3・7、(f)独占禁止政策2・Oと下している。評価を始めた1998年は6項目すべて1・Oだったので、サービスや商業、金融などの中小企業部門で企業資産の所有はおおむね民間に移り、商業主義に基づいた健全な価格競争原理が働いているように見える。一方で、エネルギー、鉱業、インフラを中心とした大企業部門は引き続き国策会社的な要素が色濃く残る様子が窺える。ちなみにカザフスタンの経済改革はロシアに比べやや遅れ、クルグズスタンを除く中央アジア諸国に比べやや進んでいるとの評価である。世銀の発表するビジネス難易度(2012年10月)によると、世界185カ国中49位と前年の56位から前進している。

民間企業の動きも経済改革の成否を推し量る指標になるかもしれない。2010年のいすゞ、2011年の韓国・現代自動車によるトラックに続き、2014年6月にトヨタ自動車がSUVフォーチュナーの生産を開始した。ロシア、ベラルーシ、カザフスタンの3カ国は2010年に関税同盟を創設。カザフスタンではロシアの関税率が採用され、乗用車が10%→30%、トラックO%→25%と引き上げられたことで、完成車の輸入より国内組み立てが有利とメーカーが判断した。3カ国関税同盟は2012年、域内のヒト、モノ、カネの移動の自由化やマクロ経済政策の共同実施などを目指す統一経済圏へと発展を遂げている。2015年からユーラシア経済連合が発足した。資源大国としても発展著しい旧宗主国ロシアの庇護の下で経済成長を実現しようとする政府の方針が、製造業の浮揚に一定の効果をもたらす一例と言えよう。

一方、相次ぐ経済自由化の影で、就労者の業種や地域間の賃金格差が顕著となっている。2012年12月時点で科学技術(全国平均の2・O倍)や金融(同1・8倍)といった業種に比べて、農業(同50・6%)、教育(66・8%)、医療(73・9%)などは低い水準にとどまっている。また、アトゥラウ州やマングスタウ州といったカスピ海沿岸の石油資源開発に沸く地域や、首都のアスタナ市、旧首都のアルマトゥ市の賃金水準は、農業や畜産業が主要産業である諸州の2~2・5倍で地域間格差も顕在化している。一部の特権階級の官僚や外資系企業のマネージャークラスと、年金所得者などの社会的弱者との生活格差も拡大する一方だ。社会主義時代には等しく「貧しかった」社会に、今や拝金主義が蔓延する様が体制移行期においては不可避とは言え、経済自由化のもたらす当然の成り行きとすれば皮肉ではある。大統領が2006年3月に掲げた「今後10年間のうちに世界で最も競争力のある50カ国入りを果たす」との目標が達成される暁に、新生独立以降の為政者による経済改革に対して、国民がどのような評価を与えるのか、大いに注目したい。
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カザフスタン「新興小麦輸出国」の憂鬱

『カザフスタンを知るための60章』より 市場経済移行下の農業 

1990年代のカザフスタン農業は、ソ連崩壊および市場経済への移行により、大混乱に陥った。農業生産物、作付面積、家畜飼養頭数は、軒並み減少した。その規模は、全面的集団化期および第二次世界大戦期を上回るものとなった。この主因は、IMF勧告に準拠した急進的な市場経済への移行が試みられたことにあった。価格自由化とともに、農業生産者に対する保護は一掃され、農業生産に必要な投入財価格は高騰した。これに対して農産物販売価格は、経済混乱に起因する住民購買力の低下により、投入財価格よりも遥かに低い伸びに止まり、生産者は極めて苦しい状況におかれた。同時に消費者向け補助金もほぼ全廃され、農産物需要は畜産物を中心に激減した。また、ソ連崩壊によりかつては輸出されていた農産物が国内に滞留することとなり、需給ギャップは、さらに激烈なものとなった。

ソフホーズ・コルホーズの民有化は、事態の改善をもたらさなかった。これら農場の構成員には、農場の資産・土地に対する権利が与えられた。各構成員は、これらを使って、独立してフェルメル(独立自営農)となるか、共同出資して株式会社・有限会社等の新しい農業企業を創出するかの選択が与えられた。

だが、悪化する経済状況下では、フェルメルを選択した者はわずかな数に止まった。残りの圧倒的大部分の者は、農業企業の創出を選択したが、その資産・土地に対する権利は次第に経営陣に集中され、労働意欲の向上や経営の効率化は観察されなかった。このため、1998年には、農業企業のじつに八割以上が欠損を記録した。厳しい財務条件の下、肥料・農薬等の投入財は節約され、農業機械等の更新は停止した。生産技術は粗放化し、生産の低落と不安定化に拍車がかかった。

事態の打開のため、慢性的赤字の農業企業に対しては、倒産処置や売却をも伴う再建措置が実施された。この中で売却された農場を買い取る企業が現われた(その中には、石油会社などの農外企業も存在した)。これらは「アグロホールディング」と称され、10万ヘクタール以上の耕地が集中するものも出現した。これらは、北部における穀物生産の新たな担い手となった。また、農業企業の破綻処理とともに、フェルメルの数が増加し、農業生産において次第に存在感を増していった。

カザフスタン農業は、2000年代以降に、その生産を回復させる。その契機は、ほぼ10年にわたる市場経済移行によって需給が一定の均衡に近づいたこと、石油輸出の増大により急速な経済成長が促され農産物に対する需要が回復したことに求められる。さらにカザフスタン政府は、石油頼みの経済からの脱却を志向し、「多角化」のための戦略部門の一つとして農業を選択した。石油からの増収を背景に、農業に対する手厚い支持が再開された。この下で「農業生産発展プログラム」「農業食料国家プログラム」等の複数年にわたる明確な目標を持った発展計画が策定され、次々に実施された。政府の農業向け支出は、2000年の約113億テングから2010年には約2287億テングヘと驚異的な伸びを示した。

農業生産は、このような政策転換にも助けられ、旱魃等による変動はありながらも、2000年代後半にはソ連崩壊時の1991年水準を回復した。また、2007年には600万トン、2010年には500万トンを超える小麦が輸出され、カザフスタンは、ロシア、ウクライナとともに「新興小麦輸出国」として、世界市場で認知されるにいたった。なお、2003年には、紆余曲折を経て、農用地の私有化が可能となった。ただし、私有化には、その土地を国家から買い取るという有償方式がとられたため、私有地の規模は限定的なものに止まっている。

農業生産は回復したが、同時に問題も発生している。第一は、耕種における穀物生産への過度の集中である。確実かつ高い収益の見込まれる穀物、とりわけ小麦に対して、合理的な範囲を超えて生産が集中してしまった。たとえば、2000年代には、穀物は作付面積の八割以上を占めるにいたった。小麦は連作され、作物の定期的交代というような初歩的な農業技術すら侵犯され、土壌肥沃度の低下がもたらされてしまった。カザフスタンにおける市場経済への移行は、価格メカニズムに基づく効率的な資源配分の達成と言うよりも、短期的な利益の追求による土地資源の略奪的な利用をもたらしてしまったのである。

第二は、農業予算の非効率的な支出の増加である。政府の農業支援は、国有持ち株会社「カズアグロ」傘下の株式会社を通じて行なわれているが、その機能は農業省と重複しており、あたかも新たな官僚組織が創出された感がある。また、農業生産者が必要投入財を過剰申告し、他者へ転売するという事例が報告されるようになった。これは、まさにソヴィエト期の事態の再現である。

カザフスタンの農業生産は、その1600万人程度の人口に比べて遥かに多いものであり、相当部分を輸出に向ける必要がある。この条件下での農業生産の増加は、新規の輸出先の確保がなければ、過剰生産による国内価格の低下と農業の財務状況の悪化をもたらしてしまう。事実、近年の穀物増産は、こうした問題を現実のものとしつつある。輸出販路の拡大には、農産物の加工度をあげ高付加価値化を図ることと、品質向上による国際競争力の強化等が必要とされている。この方向での成果としては、小麦粉の輸出の増加が達成されている(2007年以降、カザフスタンは世界最大の小麦粉輸出国となっている)。だが、これ以外では、顕著な成果は達成されていない。また、そもそも穀物類のような重量の割に価格の安い農産物輸出は、輸送費の高い内陸国のカザフスタンにとってあまり割のよいものではない。常に過剰生産に怯える「新興小麦輸出国」の憂僻の終わりは、未だ見えていない。
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