未唯への手紙
未唯への手紙
戦前の日本の政策決定システム
『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』 2012/07/15 8:48 午前
戦前の日本では、政策決定は「誰が」「どのように」行なっていたのだろうか。この時代の政治を語る象徴的な言葉として、まず想起されるのは「狂信的な「軍部」の横暴」であろう。敗戦後、陸海軍を糾弾する言説が巷に溢れたが、「軍部」なるものの実態は明らかにならなかった。それは、日本を悲惨な戦争に引き込んだ「悪」として表象され、学術的・客観的な研究の対象とされるまでに、長い時間を必要としたのである。
戦争の責を「軍部」に負わせることは、それ以外の政治勢力の責任から目を逸らせることと裏腹であった。西ドイツでは、東西冷戦の影響下でナチスにユダヤ人虐殺の責任を押し付けることで軍を免責する「国防軍潔白神話」が構築された。日本でも、敗戦直後に多くの人々が「軍部」なるものを罵ることで、あたかも自分が被害者であったかのようにふるまったのである。日本の場合、一億総懺悔という責任解除の儀礼的言説が弄ばれたが、「軍部」の糾弾は他の多くの政策担当者の責任を曖昧にさせる機能を持ったことは明らかだった。
たとえば、免責された最大の存在は、昭和天皇である。明治憲法で統治権の総攬者と規定されていた天皇は、陸海軍を統帥する大元帥でもあった。天皇は、政治的・軍事的に頂点に立っていたが、明治憲法によって「神聖不可侵」と規定されており、法的には責任を負わない存在だった。しかし、道義的な責任については敗戦時から認識されており、一部には退位の必要性が語られていた。結局、天皇が責任を問われなかったのは、東京裁判の過程でその罪を一身に背負おうとした東条元首相と、統治にあたって天皇の有用性を認識した占領軍との「共同謀議」が成立したからと言えよう。「戦争責任」の問題はさておき、天皇は開戦決定にあたって、どのような影響力を行使したのか。この問題については、充分な考察がなされているとはいえない。
また、戦後に存続を許されなかった組織のなかでも、海軍は特別視されることになった。戦前から、陸軍の政治への介入が目立てば目立つほど、政治に口出ししないサイレント・ネーヴィーの株があがる傾向があった。この図式は、陸軍悪玉・海軍善玉論に形を変えて戦後に継承されて行ったのである。
しかし、アメリカを仮想敵国に設定し、対米戦を組織的利害としていたのは、紛れもなく海軍であった。海軍がやると言わなければ、対米戦は起こりようがなかったのである。それでは、なぜ「善玉」の海軍が「無謀な」戦争に踏み切ったのだろうか。
これらの疑問を解くには、当時の政策決定システムがどのように運用されていたのかを、正確に認識する必要がある。そこで、いわゆる明治憲法体制と呼ばれる、当時の政治の構造に話を進めよう。
われわれは中学や高校の社会の授業で、大日本帝国憲法について学ぶ。
そこでは、ややもすれば日本国憲法と比較する形で、その特徴を指摘される傾向がある。読者の方々の頭の片隅には、主権者は国民ではなく天皇だったとか、現行の憲法よりも議会の権限が弱かったとか、軍が特権によって守られた強固な存在だった、などという知識が残っているかと思われる。そもそも、このような比較は、日本国憲法の民主性を強調するために行なわれているようなものである。とかくネガティヅな側面が強調されるのも当然だろう。しかし、当時の政治がどのように機能していたかを、具体的なケースで教えられる機会は少ないのではないだろうか。
現行の制度では、総理大臣が閣僚の任免権を持っている。このため、閣内対立が生じても首相は大臣の首を影げ替えることで自己の意志を閣内に貫徹することができる。自衛隊に対する指揮権も首相にある(文民統制)。形式的には総理大臣に行政の権限が集中されている体制が、日本国憲法における政治システムに他ならない。
しかも、首相は議会の指名により選ばれ(議院内閣制)、その議会は主権者である国民の選挙で選ばれた議員によって構成される。つまり、首相の権力基盤が議会にあるため、直接選挙で選ばれる場合(アメリカ大統領等)に比較して議会運営が容易であるともいえる。そして、象徴である天皇は、わずかな国事行為以外は政治にタッチしない。
かたや明治憲法下の体制は、これと全く異なるシステムであり、運営する人間たちに大きく依存していた。そもそも、明治憲法には、首相の選び方も記されていない。いわば、憲法に規定されていないパーソナルな存在があって、初めて機能する制度だったのである。
問題は、これらがピラミッド型の上下関係ではなく、それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。たとえば、戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼し、内閣は軍政事項を除いてこれにタッチできなかった。
なかでも厄介なのは軍であった。一九三六年、二・二六事件の後始末のため、軍部大臣を現役の軍人に限定する軍部大臣現役武官制が復活する。当初の目的は事件に関係した皇道派の将官の復活を阻止するためであったが、現役の軍人しか陸海軍の大臣に就任できないという縛りは、軍の影響力を強化することとなった。この制度が露骨に悪用されたのは、陸軍による米内光政内閣の倒閣であった。陸軍は畑俊六陸相を辞職させ、後任を出さないことで米内内閣を総辞職に追い込んだのである。陸軍にとって、軍部大臣現役武官制は、内閣に揺さぶりをかけることができる切札となったのだ。
戦前の日本では、政策決定は「誰が」「どのように」行なっていたのだろうか。この時代の政治を語る象徴的な言葉として、まず想起されるのは「狂信的な「軍部」の横暴」であろう。敗戦後、陸海軍を糾弾する言説が巷に溢れたが、「軍部」なるものの実態は明らかにならなかった。それは、日本を悲惨な戦争に引き込んだ「悪」として表象され、学術的・客観的な研究の対象とされるまでに、長い時間を必要としたのである。
戦争の責を「軍部」に負わせることは、それ以外の政治勢力の責任から目を逸らせることと裏腹であった。西ドイツでは、東西冷戦の影響下でナチスにユダヤ人虐殺の責任を押し付けることで軍を免責する「国防軍潔白神話」が構築された。日本でも、敗戦直後に多くの人々が「軍部」なるものを罵ることで、あたかも自分が被害者であったかのようにふるまったのである。日本の場合、一億総懺悔という責任解除の儀礼的言説が弄ばれたが、「軍部」の糾弾は他の多くの政策担当者の責任を曖昧にさせる機能を持ったことは明らかだった。
たとえば、免責された最大の存在は、昭和天皇である。明治憲法で統治権の総攬者と規定されていた天皇は、陸海軍を統帥する大元帥でもあった。天皇は、政治的・軍事的に頂点に立っていたが、明治憲法によって「神聖不可侵」と規定されており、法的には責任を負わない存在だった。しかし、道義的な責任については敗戦時から認識されており、一部には退位の必要性が語られていた。結局、天皇が責任を問われなかったのは、東京裁判の過程でその罪を一身に背負おうとした東条元首相と、統治にあたって天皇の有用性を認識した占領軍との「共同謀議」が成立したからと言えよう。「戦争責任」の問題はさておき、天皇は開戦決定にあたって、どのような影響力を行使したのか。この問題については、充分な考察がなされているとはいえない。
また、戦後に存続を許されなかった組織のなかでも、海軍は特別視されることになった。戦前から、陸軍の政治への介入が目立てば目立つほど、政治に口出ししないサイレント・ネーヴィーの株があがる傾向があった。この図式は、陸軍悪玉・海軍善玉論に形を変えて戦後に継承されて行ったのである。
しかし、アメリカを仮想敵国に設定し、対米戦を組織的利害としていたのは、紛れもなく海軍であった。海軍がやると言わなければ、対米戦は起こりようがなかったのである。それでは、なぜ「善玉」の海軍が「無謀な」戦争に踏み切ったのだろうか。
これらの疑問を解くには、当時の政策決定システムがどのように運用されていたのかを、正確に認識する必要がある。そこで、いわゆる明治憲法体制と呼ばれる、当時の政治の構造に話を進めよう。
われわれは中学や高校の社会の授業で、大日本帝国憲法について学ぶ。
そこでは、ややもすれば日本国憲法と比較する形で、その特徴を指摘される傾向がある。読者の方々の頭の片隅には、主権者は国民ではなく天皇だったとか、現行の憲法よりも議会の権限が弱かったとか、軍が特権によって守られた強固な存在だった、などという知識が残っているかと思われる。そもそも、このような比較は、日本国憲法の民主性を強調するために行なわれているようなものである。とかくネガティヅな側面が強調されるのも当然だろう。しかし、当時の政治がどのように機能していたかを、具体的なケースで教えられる機会は少ないのではないだろうか。
現行の制度では、総理大臣が閣僚の任免権を持っている。このため、閣内対立が生じても首相は大臣の首を影げ替えることで自己の意志を閣内に貫徹することができる。自衛隊に対する指揮権も首相にある(文民統制)。形式的には総理大臣に行政の権限が集中されている体制が、日本国憲法における政治システムに他ならない。
しかも、首相は議会の指名により選ばれ(議院内閣制)、その議会は主権者である国民の選挙で選ばれた議員によって構成される。つまり、首相の権力基盤が議会にあるため、直接選挙で選ばれる場合(アメリカ大統領等)に比較して議会運営が容易であるともいえる。そして、象徴である天皇は、わずかな国事行為以外は政治にタッチしない。
かたや明治憲法下の体制は、これと全く異なるシステムであり、運営する人間たちに大きく依存していた。そもそも、明治憲法には、首相の選び方も記されていない。いわば、憲法に規定されていないパーソナルな存在があって、初めて機能する制度だったのである。
問題は、これらがピラミッド型の上下関係ではなく、それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。たとえば、戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼し、内閣は軍政事項を除いてこれにタッチできなかった。
なかでも厄介なのは軍であった。一九三六年、二・二六事件の後始末のため、軍部大臣を現役の軍人に限定する軍部大臣現役武官制が復活する。当初の目的は事件に関係した皇道派の将官の復活を阻止するためであったが、現役の軍人しか陸海軍の大臣に就任できないという縛りは、軍の影響力を強化することとなった。この制度が露骨に悪用されたのは、陸軍による米内光政内閣の倒閣であった。陸軍は畑俊六陸相を辞職させ、後任を出さないことで米内内閣を総辞職に追い込んだのである。陸軍にとって、軍部大臣現役武官制は、内閣に揺さぶりをかけることができる切札となったのだ。
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