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キーワードは「自己組織化」

『インターネット・デモクラシー』より インターネットはどのような政治形態をつくるか

何でもありのインターネットからは、どのような政治や理性的な議論が生まれるのだろうか。自己を公開するという傾向の表われである、インターネットでの混乱したおしやべりは増殖し続けているが、これはどのような意味をもつのだろうか。決定の中枢や代表、組織化された集団は、どこにあるのだろうか。従来の公共空間から眺めると、インターネットは「バベルの塔」に似ている。すなわち、騒がしく過剰で統治不可能なインターネットでは、議論や噂が絶えず錯綜し渦巻いている。

このような批判に対するインターネット利用者の回答は、自己組織化ということである。インターネット利用者はこの混乱を、水平的かつ非中央集権的な方法によって、自分たち自身で統治できると主張している。彼らは、参入障壁を完全に撤廃して開放的な状態を維持すべきであって、人々の能力を事前に決めつけるべきではない、という平等の理想を掲げている。彼らはネットで互いに指摘しあう活動を通じて、情報が人目に触れる領域を秩序づけるために、情報の種類によって、アクセスしやすい情報からしにくい情報へと、情報を階層化している。彼らは互いに監視しあい、また批判しあうことにより、中央集権的な機能を構築することなく、巨大な共同体を存続させようではないか、と主張している。彼らは一貫して共有を推進しながら、電子化された新たな共有財を共同体の中核に据えた。これらの共有財は、全員によって生み出されたのであって、誰かに帰属すべきものではない、と彼らは考えている。

このような態度は、インターネットの先駆者たちの精神の流れを汲んでいる。また、こうした原則は世間知らずな夢物語などではなく、フリー・ソフトウェア、ウィキペディア、オープンーディレクトリー・プロジェクト、クリエイティブーコモンズのライセンス、インターネットが利用する大部分の技術の標準化を策定するインターネットーエンジニアリングータスクーフォース(IETF)などでは、前面に打ち出されてきた。

しかしながら、インターネットが大衆化されたのにともない、ウェブと、従来型の公共空間にある機構(メディア、政党、企業など)との結びつきが密接になり、互いの依存関係が強まってきたため、これらの原則は危うくなっている。今日、新聞、政治、ビジネスの変化の中核にあるインターネットは、創始者たちの理念に反する価値観と利益に向き合わなければならない。インターネットにより、文化と情報に関する産業基盤は覆されてしまったという批判もあるが(例えば無償化についての議論の枠組みにおいて)、インターネットもまた自らの領域において、インターネットが逃れようとした関係者や論理の犠牲になっている。したがって、インターネットは、現在の緊迫した状態から抜け出すために、その方策の特徴を明らかにする必要がある。

平等の前提とクリックという参加形式

 ウィキペディアでは、記事の内容に異議を唱える際、あるいは逆に記事を公表する際に、社会的地位に基づいた権威という観点から、結論が導き出されることはない。「ヒッグス粒子〔素粒子に関する仮説〕」の記事の編集に関する議論では、著名な物理学者であっても、単に自分の学位や知名度や著書だけを振りかざして、自分の意見のほうが学生よりも優れていると主張することはできない。学者自身も記事の編纂に参加し、自分の見解について論証して説明を施し、学生の誤りを公的議論の俎上に載せなければならない。ウィキペディアでは、参加する意思のあるインターネット利用者であれば、誰であろうと締め出されることはない。

 公的な発言をおこなう場では、あらゆる共有財に対して「分け前なき者の分け前〔本来、分け前がないはずの者までが、要求する分け前〕」が要求され、インターネットでの討論やウィキペディアでは、民主主義の理想である「平等という前提」が、しばしば過剰に推し進められる。社会的な権威だけでは、高い正当性は得られない。そうはいっても、この平等という前提は、世論を平等に数え上げる選挙のように、人々の社会面や経済面の特徴を、一人一票のなかに覆い隠してしまうような、都合のよい虚構ではない。

 平等という前提では、参加者は、何をおこない、何を生み出し、どのような発言をしたかという、活動歴からだけ評価される。(ッカーたちの掟では、この原則が常に要求されてきた。すなわち、(ッカーは、「学歴、年齢、人種、社会的な地位といった偽ものの規準ではなく、自分の業績によって判断されるべき」なのである。インターネットには、各自が自らの才能を提供するという、(ッカーが理想とする民主主義が、きわめて繊細な形で取り込まれた。各自が提供する才能が多種多様で、予想もつかない驚きに満ちたものであったとしてもである。

 こうした掟は、個人の責任感をきわめてリベラルな形で高めた。インターネット以外のネットワークにおいてもそうであるように、一部の者が積極的に活動するので、排除される者も現われた。活動的な者は、非活動的な者の価値を引き下げ、機敏な者は、機動力のない者に目もくれない。しかし、ペテン師が、誠実で謙虚な職人たちの領域を占拠してしまう危険性もある。ネットワークの世界によくあるそのような緊張は、インターネットのインフラ形式そのものと根本的なかかわりがある。だが、これらの影響が語られることはほとんどない。活動的な参加への勧誘自体に、沈黙や受け身的な姿勢に対するさげすみが含まれていることに、気づいている者はいるだろうか。「全員参加」という民主的な展望を掲げながらも、その背後では、出自にまつわる社会的および文化的な資本の不平等な分配が、再生産されているのだ。

 インターネットが、これらの隠された社会的格差に対して提唱する緩和措置は、社会面、文化面からの資本がほとんど必要とされない表現形式でも参加できる、という概念を拡大することであった。インターネットは、閲覧者が評価を示すことのできる機能を拡大させていきながら、微細で取るに足らないつぶやき型の参加形式をつくった。閲覧者は、記事やビデオに投票するのだ。例えば、フェイスブックであれば「いいね!」をクリックし、マイスペースの音楽家のページであれば「イケてる」というコメントを残す。また、ツイッターにリンクを貼りなおすことによって、インターネットにおける情報の階層化に、ちょっとした参加形式をつくり上げたのである。「クリックする」という参加形式が発展したのは、大衆がイン、ターネットを利用しはじめたことと不可分である。

 こうした行為によって、インターネットには商業主義が蔓延し、従来型メディアの受け手側の論理〔受け手がいてこそ成り立つという論理〕が復活したと、インターネット利用者の黎明期世代が嘆くのも、無理のない話である。

 だが、従来型の討論形式ほど洗練されていないという理由により、こうした行為の価値を認めないのであれば、それは保守的なエリート主義であり、インターネットの扉を新たな大衆に対して閉じてしまうだけである。従来の公共空間では、教養ある集団と大衆的な集団は分断されていた。だが、参加資格を奪ってしまうという形式を回避するためにも、インターネットの先駆者たちの精神を尊重しながらも、人々の能力をきわめて多様に定義する寛容性のほうが、はるかに重要なのではないか。
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