エレミヤ書 34章
きのうは午前と午後に「家庭訪問」(?)。午後は、「歩こうか?」「歩こう!」ということで意見がまとまり、4.7キロほどの道のりを歩きました。前の日曜日に読んだ、エマオ途上の二人の弟子が11キロほどを往復したとの聖書記事に影響されたのかもしれないと、これを書きながら思ったのでした。便利なスマホアプリを頼りにして、ほぼ自動車と接触しないコースを落ち葉を踏みしめながら一時間近く歩きました。帰り…ですか? 電車に乗りました。
「みことばの光」はきょうからまた、エレミヤ書に戻ります。エレミヤは「ユダ、エルサレムはバビロンによって滅ぼされるのだから、降伏せよ」との神のことばを語ってきました。
この章に描かれているのは、エルサレムがバビロンに攻め込まれて滅ぼされようとしている情景。そんな時、ユダの最後の王ゼデキヤは自分たちの同胞の奴隷を解放すると宣言し、契約します。律法では六年間奴隷として働いた者を七年目には解放するようにとありますので、ゼデキヤは国がなくなろうとしている局面で、神がお望みになっていることをしようとしたのです。奴隷を所有していた者たちは契約に参加しました。ところが、ユダが頼りとしていたエジプトが北上したのでバビロンがいったん後退した時、彼らは契約を廃棄して、再び奴隷を持つようになったのです。
ここには「心を翻す」ということばが2回出ています。信仰者が心を翻すときとはどんなときだろうか…と。困ったことが起こると神に頼りながらも、問題が解決すると信仰をなくすようなことがあるかもしれません。うまく行ったり行かなかったりで神さまへの信頼が強まったり弱まったりとするようなもろさを持つのが私たち。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103篇2節)とあります。それは、主を忘れないということだと思います。
主は私たちをお忘れにならないのですから…。