イザヤ書 28章
水曜日の祈祷会にネットで参加された方がおられ、とても良い時間を持つことができました。
11月4日に「みことばの光」を発行している聖書同盟が東京の御徒町で「デボーションセミナー」を開催するのですが、その午前のプログラムの中で、ドイツ、スイス、チェコと、離れた所に住む方々が週に一度ネットを用いてのグループでのデボーションをしている様子が紹介される予定です。
時はさかのぼることおよそ2700年前。エフライム、つまり北王国イスラエルは迫り来るアッシリアの脅威の下にありました。ところが、エフライムの祭司や預言者たちは、国家存亡の危機なのに酔っぱらっている始末。神のことばを伝える預言者のことを「彼は知識をだれに教えようとするのか、…だれに悟らせようとするのか」と揶揄(やゆ)し、そのことばの揚げ足を取るようなことまでするのです。主に用いている聖書新改訳2017では、元々のことばを読んだ場合の音を伝えようと、10節と13節を表しています。
「ツァウ ラーツァーウ ツァウ ラーツァーウ カウ ラーカーウ カウ ラーカーウ ゼエール シャーム ゼエール シャーム」というのが音訳した元のことばですが、これは幼い子どもへのことばのようにも響きますし、酔っ払いがろれつが回らない舌で話しているようにも聞こえます。
ここに、神の民として選ばれたにもかかわらず、神のことばを聞こうとしない愚かさがあります。
もう一つ、この章の後半には、ふらつく酔いどれの姿とは対照的に、どっしりと動かない礎の石についてのことばが見られます。16節は、やがておいでになるメシアの預言の一つ。主イエスはこのことばを用いて、ご自分がここで預言されている礎の尊い要石(かなめいし)だと言っておられます(マタイ21章42節)。
信頼すべきは、どっしりと動かない主のことば。