みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

鎖につながれた使節

2020年01月15日 | エペソ人への手紙

エペソ人への手紙 6章10−24節

 こちらでの滞在もあとわずか。あれもしてこれもしてと、いろいろ考えていたのですが、いくつかやり残したことも…。次の機会への宿題としましょう。

 エペソ人への手紙の終わりに、パウロは「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と勧めます。このように勧めるパウロは、すでに手紙のあちこちで自分がどのような境遇の中にいるのかを明かしています。3章1節では「私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」と言い、3章13節には「私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします」とあります。さらに、4章1節には「主にある囚人の私」と言い、6章20節で「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています」と語ります。

 このようにパウロは、福音のために投獄されているという不自由さの中にあるのですが、この手紙からは彼が不自由で何もできなくて嘆いているというようには見えません。からだは縛られていてもたましいはキリストにあって自由だったのです。彼は鎖につながれているのでもはや福音を伝えることはできないとは言わないで、使節の務めを果たしていますと言い切ります。

 ヒトラー支配下のドイツにあって、政治的な抵抗運動の主要なメンバーの一人として活動したディートリッヒ・ボンヘッファーについての何冊かの書を読みました。彼はユダヤ人の亡命を援助したことによって1943年4月に逮捕、投獄されるのですが、獄中での生活について次のような文章があります。

 「彼は…同囚の仲間や監視兵のためにも、牧会的助言によって奉仕することができたのです。彼は、同囚の人びとからは、あらゆる拘束にもかかわらず、落ち着いて朗らかに生きうる人間として敬意をもって認められていた…。」(宮田光雄「ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想」より)


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