イザヤ書 22章
ここでは、「これは、いったいどうしたことか」という主のことばがまず目に留まります。
「幻の谷」とはエルサレムのこと。「幻」というと、一般には実際にはないのにあるように見えるものとか、はかないものという意味を連想するのですが、ここでは、エルサレムがはかないということを言っているのではありません。「みことばの光」が書くように、高い所にあって神の幻を見たり、周りの国々にそれを示したりする務めをするはずの町が、それが見えなくなっている様子を表わすことばのようです。
それなのに彼らが屋根に上ってするのは、騒ぐこと。町が外敵の襲来を控えて主に祈り求めて備えるべき時に、喧騒に満ち、おごり高ぶっているというのです。13節には、「泣いて悲しみ、頭を剃って粗布をまとえ」との主のことばが届けられているにもかかわらず、浮かれ楽しむ者たちの様子が描かれています。しかし、そこにあるのはほんとうの喜びでないことが彼らのことばから伝わってきます。「飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ。」
この章からは、なすべき時になすべきことをしないで、問題の本質から目をそらして刹那的に騒ぐ人間の愚かさが見えてきます。語られる神のことばを聞くことに、それを思い、それを通して時代を見ることが大切だということを、知らされています。